黒猫 

文字数 7,419文字

先行研究

 世の中には、生きているときには認められず、死んでから、その人がのこした作品が評価される作家がいる。ポー(EDGAR ALLAN POE)もそのひとりであり、彼がアメリカが生んだ世界的な詩人かつ作家であることは、20世紀とくにフランスで認められた₁。
 さて、ポーがなくなってから、フロイトが精神分析学を提唱したが、その理論は文学批評に用いられるようになった。ポーの作品もこの方法による批評が主流という見方が存在する₂。現代日本における批評にも、このやり方が用いられていることはすぐに理解されることであろう₃。本批評では、現代日本におけるいくつかの批評を参考にしながら、「黒猫」が表現しているものについて考察していきたい。

論題

 文学、とくに古典は普遍的な価値をもつという見方がある。たとえば、近松は「多くの古典は環境や状況に左右されない価値を保ち、多くの人の心の特質と合致する要素を備えている₄」と述べているが、これもこの考えの表明であろう。
 「黒猫」が描かれたのは百数十年以上前のことであり、未だに読者がいるということは、この作品が古典である証拠である。そして、上記の考えに基づけば、「黒猫」にも普遍的な価値が存在していることになろう。
 では一体、それは何なのか。「黒猫」には人間の本質の一面が描かれており、現代においても読む価値が存続しているとすれば、それは何なのか。これが本批評の論題である。

主張

 先行研究には、「黒猫」の解釈がいくつも存在している。たとえば、James Carganoは「黒猫」を善悪のドラマと解釈する見解を示しており、Roberta Reederもこれを

James Gargano has analyzed the narrator’s mind into good and evil components, thus interpreting the story as an exploration of the process of moral disintegration.
(ジェームズカルガノは、語り手の精神を善悪の要素に分け、物語を道徳的不統合の過程を探るものとして解釈している)

と評している₅。
 また、Roberta Reederは、この作品をユング心理学の考えに沿うようなやり方で解釈しており、福田はその解釈を

論者 Roberta Reeder によると、「黒猫」は語り手主人公による、黒猫として現出した自己のアニマの抑圧、支配、追放、封じ込めの試みがことごとく失敗に帰する物語として解釈さ れる。

と評している₆。
 しかし、前者の解釈も後者の解釈も少し強引に主張しているところが存在する。前者に関していえば、

From my infancy I was noted for the docility and humanity of disposition. My tenderness of heart was even so conspicuous as to make me the jest of my companions.
(幼少期から従順と慈悲の精神で知られており、友人からひやかされるほどのものだった)

といった描写はあるものの、善なる精神の具体的行為描写は乏しく、善悪の葛藤のドラマというより、ただ語り手が、the spirit of PERVERSENESS(思い通りにならない邪悪な魂)に翻弄されたことを告白する物語として読解することも可能と考えられる。
 また、後者に関していえば、Roberta Reeder は

The Jungian would find the narrator’s account of his behavior a case of repression of instinctual psychic energy, energy which, if integrated with the rational powers of the personality, can be expressed positively and creatively, but which, if repressed, becomes distorted, builds up surplus energy, and finally bursts forth in uncontrollable destructive power₇.
(ユング説の支持者は、語り手の説明を本能の抑圧と捉えるであろう。それは、理性と統合されれば肯定的で創造的にあらわれるが、抑圧されれば、ゆがめられ、過剰なエネルギーとなり、制御できない破壊的な力として突発するものである。)

などと述べているが、そもそも抑圧というのは不快な観念などを無意識下に押し込め、それを意識しないようにする自己防衛の働きのことであり、語り手の心の外に存在する黒猫を飼う行為は抑圧とは呼びにくいと考えることもできるだろう。
 こうした先行研究の成果をふまえ、本批評では、より単純に、「黒猫」は人間の本質として潜在する、残虐行為の衝動を表現していると主張したい。近松は、『ある意味で状況への依存の度合いが低く、時代や環境を超えた価値をもつ東西の古典は、自己を原点に連れ帰ってくれ、「癒し」をもたらしてくれる存在として大きな意味を持つのではないだろうか₈」と述べているが、この主張は古典は癒しの作用だけでなく、警告の作用もあることを示すものである。

理由

 人間の本質として残虐行為の衝動がある、「黒猫」はそれを描いたものであるという主張の理由を、主として「黒猫」本文の記述と「黒猫」を精神分析学を用いた批評から述べていきたい。
 まず、その衝動を語り手が描いている箇所を引用したい。「黒猫」の本文には以下の記述が存在する。

And then came, as if to my final and irrevocable overthrow, the spirit of PERVERSENESS. Of this spirit philosophy takes no account. Yet I am not more sure that my soul lives, than I am that perverseness is one of the primitive impulses of the human heart—one of the indivisible primary faculties, or sentiments, which give direction to the character of Man.
(そして、まるで私を決定的で取り返しのつかない破滅においやるかのように邪悪な精神がやってきた。この精神について哲学が説明することはないが、私は邪悪さが人間の精神に宿る根本的な衝動のひとつ―人間の性格を方向付ける、根本的で分割できない精神的能力、あるいは心情のひとつ―であることを、自分の魂が存在すること以上に確信している。)

This spirit of perverseness, I say, came to my final overthrow. It was this unfathomable
longing of the soul to vex itself—to offer violence to its own nature—to do wrong for the wrong’s sake only—that urged me to continue and finally to consummate the injury I had inflicted upon the unoffending brute.
(この邪悪なる精神が私を決定的な破滅へと追いやったのだ。障りのない動物に負傷を負わせ続け、ついには殺害へと追いやったのは、魂自身を苦しめる―魂自身の本性に暴力をもたらそうとする―悪のみのために悪をおこなおうとする―理解しがたい魂の渇望だった。)

This was just the reverse of what I had anticipated; but—I know not how or why it was—its evident fondness for myself rather disgusted and annoyed me. By slow degrees, these feelings of disgust and annoyance rose into the bitterness of hatred.
(このことは、予期していたものとは逆のことであった。どうしてか、なぜだかわからないが、私に対する明らかな愛情は、かえって私を不快にさせいらつかせた。そして、この不快といらだちの感情はひどい憎しみへと高じたのである。)

 語り手の言及がポー自身の考えとどれほど一致するか、この記述のみからうかがうことは困難ではあるが、松阪が「人間の魂の最深部には不条理と悪魔的なものが存在する。致命的であると知りつつ、あるいは知っているからこそ悪事に駆り立てる不気味なものが、心の深淵に存在する。これがポーの基本的な人間観のようだ₉」と述べているように、語り手の考えと作者の考えを同一視する見方も存在している。
 この記述は、語り手自身に固有に存在する衝動、精神の働きを述べたものではないことは、perverseness is one of the primitive impulses of the human heartという表現からも理解できる。理性によっては制御しがたい残虐行為の衝動が人間にはあるのだ、という語り手の自覚がここに表現されているのである。
 さて、広辞苑の定義によれば、文学とは「言語によって人間の外界および内界を表現する芸術作品」であり、内界は「個々人の思考・感情・意欲の世界。意識の内面的世界」のことである。これをふまえれば、「黒猫」は人間の意識に存在する残虐的衝動を描いたものということになるが、「黒猫」の本文や「黒猫」に関する先行研究をふまえれば、無意識下に潜在する人間の本質的な残虐的衝動を描いていると解釈することができる。 
 語り手としては自身の言及する残虐的衝動に対して非常に自覚的であり、制御不可能としても、それを意識的に理解している。しかし、語り手の次の言及に注目したい。

Have we not a perpetual inclination, in the teeth of our best judgment, to violate that which is Law, merely because we understand it to be such?
(私たちには、最良の判断にかまうことなく、法なるものをそれと知っているという理由だけで、それにそむく永続的性向が存在しないだろうか)

 主語にweが使われていることが示す通り、これは、語り手個人だけではなく、人間に普遍の性向だろうという主張である。とすれば、語り手ほど自覚的ではない、現実に存在する人間、さらにはそうした衝動を特殊なものとして、その衝動の自らの所有を否定する人間の無意識下にもこの衝動があるといえるのではないだろうか。少なくとも、この箇所は、それを主張するものである。
 無意識の辞書的定義は「本人は意識していないが日常の精神に影響を与えている心の深層」であるが、先行研究には、黒猫に関して次のような指摘がある。

The cat’s blackness and its name, Pluto, symbolically connote not only the submerged subconscious, but the narrator’s attitude toward it as something dark, fearful, and unknown₁₀.
(猫の色が黒いこと、そしてプルートという名前は、象徴的に、表面化していない潜在意識だけでなく、それ対する語り手の態度を何か暗く、恐ろしげであり、不可解なものとして暗示する)

 語り手にとって外的存在である黒猫や黒猫に対する語り手の残虐的衝動に関しては、投射というワードの語義が役立つように思われる。事典による定義は以下の通りである。

他人も自分の態度,感情などと同じものをもつと決めてかかる傾向。子供によくみられる。また自分自身承認しがたい考え,感情や,満たしえない欲求をもっている場合に,それを他人に帰してしまうような無意識的な心の働きのこと。(ブリタニカ国際大百科事典 )

無意識の作用による自我の防衛機制の一つ。投影ともいう。自分自身の資質,欲求,感情等を認められない,あるいは認めたくないときに,それらのものが自分のものではなく,他の人や物にあるかのように感じとる作用。例えば,ある人に対し,敵意なり,逆に恋愛感情なりをもっていて,そのような自分の気持ちを認めたくないとき,その敵意や恋愛の感情は自己の中では抑圧され,相手に投射されて,あたかも相手が自分を憎んでいる,あるいは愛していると感じるメカニズムである。(世界大百科事典)

 これを踏まえれば、語り手は、黒猫に対する残虐的衝動を認めているので、語り手の態度や行動を、無意識下にある、自身の黒猫に対する衝動が黒猫に投射されたものとはいえないかもしれないが、類似する精神作用が描かれているととらえることはそれほど無理ではないだろう。本文の記述には

This dread was not exactly a dread of physical evil-and yet I should be at a loss how otherwise to define it. I am almost ashamed to own-yes, even in this felon's cell, I am almost ashamed to own—that the terror and horror with which the animal inspired me, had been heightened by one of the merest chimeras it would be possible to conceive.
(この恐怖は正確には身体的な害悪に対する恐怖ではないが、ほかに定義しようとすると当惑してしまう。この重罪犯の独房の中でさえ認めることを恥ずかしく思うのだが、黒猫が私に抱かせる恐怖と憎悪は、想像されうるちょっとした幻想のひとつによって高められていたのだった)

とある。ここでいう幻想とは、理性は拒否するのだが、プルートの次に飼うことになった黒猫には胸の部分に白い斑点があり、それが絞首台を示す形となって現れたように語り手に見えた空想のことを指している。この記述は、語り手の投射のような精神作用を描いたものと解釈することができよう。
 以上、「黒猫」は、人間の本質として残虐行為の衝動があることを描いているという主張の理由を述べた。語り手の説明によれば、自身を残虐にし、暴力をふるわせた原因は酒なのであるが、アルコールやプルートのかみつき攻撃は、無意識下に存在する残虐性と実際の残虐行為を誘発する誘因であり、「黒猫」は語り手の経験という象徴を通して、人間には本質的にそのような衝動があり、何らかのきっかけで顕現しうることを読者に警告する古典として読むこともできよう。


引用
₁ 斎藤光. 1959. 英和対訳ポー短編集. 旺文社. p.1
₂ 福田立明. 1981. 「黒猫はどこからきたか : ポオの精神分析批評検証の試み」. 『岐阜大学教養部研究報告 vol.17』. p.93
₃ このことは、資料にあげた文献をみてもすぐに理解される。たとえば、猪俣光夫. 2007. 「ポーの黒猫」にはフロイトとラカンの考えが利用されている。
₄ 近松明彦. 2015. 「古典について : その価値と普遍性 」『プロピレア』21号. p.84
₅ Roberta Reeder. 1974. “ ‘The Black Cat’ as a Study in Repression ”. Poe Studies Vol. VII No. 1. p.20
₆ 福田立明. 1982. 「黒猫はどこからきたか その二 : 精神分析批評から神話 ・ 元型批評へ」. 『岐阜大学教養部研究報告 vol.18』. p.136
₇ Roberta Reeder. 1974. “ ‘The Black Cat’ as a Study in Repression ”. Poe Studies Vol. VII No. 1. p.20
₈ 近松明彦. 2015. 「古典について : その価値と普遍性 」『プロピレア』21号. pp.84-85
₉ 松阪仁伺. 2007. 「ポーの「黒猫」と『マクベス』」『兵庫教育大学研究紀要』30. p.64
₁₀ Roberta Reeder. 1974. “ ‘The Black Cat’ as a Study in Repression ”. Poe Studies Vol. VII No. 1. p.20

資料
Edgar Allan Poe. First published: 1843. The Black Cat
https://www.ibiblio.org/ebooks/Poe/Black_Cat.pdf

猪俣光夫. 2007. 「ポーの黒猫」『慶応義塾大学日吉紀要 英語英米文学 (50)』. pp. 113-132
福田立明. 1981. 「黒猫はどこからきたか : ポオの精神分析批評検証の試み」. 『岐阜大学教養部研究報告 vol.17』. pp.93-104
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