第18話

文字数 2,984文字

第五節 テロ対策の「指紋情報」問題
外国人登録法の対象当事者である在日コリアンにより一九八五年(昭和六十年)に展開された指紋押捺拒否運動。
 当時、拒否者はその多くが起訴され、刑事被告人として法廷に立つことになった。
しかし、各地で闘われた「指紋裁判」では、指紋を押捺したかどうかが争われることはなく、外国人登録法の指紋押捺制度そのものが問われることになったのである。
つまり、法廷は押捺を拒否した被告人が、逆に日本政府を「告発」し、その過ちを正そうとする場となった。そのことは、後に外国人登録法そのものが廃止されることになることを暗示していた。人権尊重の立場から、相次いで外国人登録法の改正を求める全国各地の自治体の後押しもあり、韓国との日韓法的地位協定に基づく協議の結果に関する覚書で、遂に二年以内の指紋押捺廃止が決定する。
指紋押捺制度は一九九三年(平成五年)一月に廃止され、外国人登録法も二○一二年(平成二十四年)七月九日をもって廃止された。それ以降は「指紋情報」のないICチップ式の在留カードが発行されている。
 ところが、二○○一年(平成十三年)に発生したアメリカの同時多発テロを契機に、アメリカ合衆国に続いて、日本でも二○○七年(平成十九年)十一月二十日以降、十六歳未満や特別永住者らを除く、来日する外国人から、両手人差し指の指紋採取と顔写真の撮影を義務付ける新しい入国審査が行われている。
現在の在留カード方式に対しても、二○二○年の東京オリンピック開催に向けて、テロ対策に万全を期すという名目のもとで、どのような水面下の動きが展開されようとしているのだろうか。ヒントとなりそうな議論を挙げてみよう。
① 外国人が日本人になりすますなどの事例が数多くあり、本人特定に最も有効とされる「指紋情報」を在留カードに入力する必要がある。在日外国人に対して、再び指紋押捺を義務化したらどうか。
② 不法滞在者などの最も近くにいると考えられる現場の警察官が、在留カードを読み取るICチップリーダーを持っていないのは問題である。日本に三カ月以上滞在すれば、国民健康保険の対象になることを悪用し、他人になりすまして受診するケースが急増しており、早急にICチップリーダーを各医療機関および現場の警察官に配布する必要がある。
③ 例えば台湾は満十四歳以上の「中華民国国籍」を持つ者に対して、「中華民国国民身分証」を発給している。十四歳以上は指紋押捺が発給の必須事項である。テロリストなどのなりすましを防止するために、日本国民に「国民身分証明書」を携帯させる必要があろう。
       *
指紋押捺拒否行脚の年から二十八年の星霜が過ぎ去った二○一三年(平成二十五年)九月十四日。わたしはかねてから希望していたヤンスとの再会を果たした。場所は東京・新宿歌舞伎町にある韓国家庭料理の店で、ヤンスは韓国人のスタッフと韓国語で会話している。
「本当に懐かしい」と、わたし。
「そうですね」と、ヤンス。
 ヤンスとわたしはお互いの顔を見つめながら、ほほ笑んだ。ヤンスが注文してくれた焼き肉などをつまみながら、二十八年前の話に花を咲かせた。
「ヤンスは十九歳の韓国出身だったから、日本生まれの在日同胞とは随分出発のスタンスが違ったよね」
 わたしが話を振った。ヤンスも今や五十二歳。若い頃の長髪も何処へやら、少し白髪の混じる髪を揃え、顔も少し丸くなったような印象だ。
「基本的に考え方そのものが日本生まれの連中と違いました。彼らは外国人に厳しい日本社会で生き抜いて来た。ボクもギャップを感じていたから、何とか彼らと同じようになろうともがきましたね。まあ、無理でしたけど」
 と言いながら、人懐っこい笑顔を見せた。
「あの行脚のことは今どう思っている?」
「子どもにだけは指紋を押す苦しみを与えない社会作りを目指していたから、外国人登録法が廃止されてよかった」
 彼は一九九三年(平成五年)、在日韓国人女性と結婚し、二女一男を儲けた。長女は現在ソウルの大学に留学し、次女も留学が決まっている。長男は高校一年生で、ふたりの姉と同じく、指紋押捺も関係なく高校生になった。
ヤンス自身は大阪を離れ、東京の民団中央本部の職員として、青年会副会長まで務めたが、二○○四年頃、長年在籍した民団を離れたという。その理由を尋ねた。
「色々理由は考えられるけど、組織の運動が活発でなくなったこと。問題提起するものが少なくなったんですね。韓国の伝統文化を在日として育てる活動もしたりして、地域に密着しようと努力はしたが、日本社会の方が変わらなかった。最近は在日として生きるのに疲れを感じるようになりました。何しろ未だに在日は背負うものが多すぎます」
 ヤンスの顔には疲労感がまとわりついているようだった。
 話題を転じて、オモニのことを聞いた。確か風の便りで、アメリカに引っ越されたということは知っていた。
「そうです。アメリカに住んでいるボクの姉一家とバーモント州で暮らしています。もう八十五歳になりました。八十歳の誕生日を祝うために、五年前一家でアメリカにオモニを訪ねたことがありました。今でも週一回くらい連絡を取り合っています」
「相変わらず仲がいいね。結構なことだ」
 わたしは二十八年前のオモニへのインタビュー、その時の内容や口調などを思い出していた。
 この場の話で印象に残ったことがある。それはお子さんのことだ。ヤンス夫婦は三人の子どもを本名で通学させていた。
奥さんは結婚前、通名の「金光(かねみつ)」だったが、ヤンスと結ばれてからは本名の金(キム)に変更し、子どももキムで通わせたのである。ところが、長女が小学校三年生の時、こっそり「日本の名前の方がいい」と親に告げたのである。長女の名前が「チナ」だったので学校で「キムチ(ナ)」とからかわれたのを厭がったらしい。ヤンスはその時何と答えていいのか、戸惑ってしまったという。
ヤンスは子どもの悩みを率直に担任の先生にぶつけてみた。
対応次第によっては「民族差別のからかいだ」と善処を迫ろうとしていた。
ところが、担任の先生は出来た人で、これを積極的に受け止めて、総合学習のテーマを「韓国の勉強」に当てた上、ヤンス一家にも韓国の楽器の演奏など生徒指導で協力してもらい、日本人生徒にその成果を発表してもらおうということになったという。奥さんが民族衣装のチマチョゴリを身につけたり、ヤンスが「日韓文化比較」の講座を開いたり、家族皆で小学校の総合学習に関わったという。
しかし、このように努力が実を結ぶケースは少なく、別の機会に韓国語講座を開いても、在日同胞の参加は少なく、韓流ドラマや韓国観光ブームに乗ってか、参加者はそのほとんどが日本人という結果になったとか。いやはや。
 ヤンスは現在金融関係の仕事に就いて、一家を支えている。
「日本と韓国が本当のパートナーのような関係になること、それを追求することがボクのこれからのテーマです」
 ヤンスははっきりとそう言い切る。その顔には希望があふれていた。
具体的には、子どもの頃から大好きなサッカーチームを自ら持ち、日本のJリーグなどで一チームあたりの在日コリアンの選手などを「準外国籍選手」として、人数を一人に制限している「在日枠」をなくすことにも精力を注ぎたいと話していた。
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