第14話

文字数 3,188文字

第二章 アイデンティティと歴史を取り戻す運動~在日コリアン編~
第一節 来日したオモニと息子、その「在日」体験
(外国人登録法第十四条
十六歳以上の外国人は登録原票、登録証明書及び指紋原紙に指紋を押さなければならない。
同第十八条
第十四条の規定に違反して指紋の押捺(おうなつ)をしなかった者は一年以下の懲役もしくは禁固または二十万円以下の罰金に処する。
同第十三条
外国人は登録証明書を常に携帯していなければならない)
一九八五年(昭和六十年)は、外国人登録証の大量更新の年にあたり、指紋押捺の是非をめぐって在日外国人、とりわけ当時日本列島に居住していた約七十万人の在日コリアンの団体では、指紋の押捺を拒否する青年が中心となり、日本社会や国際世論に対し「在日外国人の指紋押捺を強制し、外国人を犯罪者扱いにする」外国人登録法の廃止を求めて活発な運動が繰り広げられた。なお、この章では韓国籍なら在日韓国人、朝鮮籍なら在日朝鮮人とし、在日コリアンと言えば、在日韓国・朝鮮人両方を指している。
 焦点を当てたのは、民団系在日韓国青年会の大阪本部で闘争の中心にいた青年のひとり、金亮秀(キム・ヤンス)氏である。(以下敬称略)
十九歳の時、オモニ(母)の後を追い、来日した。ヤンスはその日、一九七九年(昭和五十四年)七月九日を鮮明に覚えている。海を隔てた異国の地に降り立ち、空港を出て初めて乗ったタクシーの窓から彼の眼をとらえたのは、東京オリンピックや大阪万博などを契機に経済発展を遂げた「侵略国ニッポン」を象徴してそびえ立つビル群ではなかった。それは、ビルが並ぶ通りを歩く男女の学生が手をつないで歩いている姿だった。「スゲェ!」思わず声が出た。男女の学生が恋人のように寄り添って、手を結んで黄昏の街を歩くという風景は、当時の韓国では考えられないことだったからである。それがヤンスの日本最初の強烈な印象だった。
 韓国では義務である兵役訓練を受けていないことで、結果的にオモニの李貞順(イ・チョンスン)よりも半年遅れて来日したヤンスは、果たしてこの国でどんなことが待ちかまえているのだろうと、頭を巡らしてみたが、容易には浮かばなかった。当然であろう。
ただ、韓国の学生時代に受けた教育では、例えば豊臣秀吉の時代から明治時代の日韓併合以降の歴史を少し振り返れば、日本は紛れもない「侵略国」であり、朝鮮半島を蹂躙し、異民族に日本の神を押し付け、軍人らが女性を凌辱した「敵国」である。そんな国に何故自分が来なければならないのか。よりにもよって。ヤンスはオモニが来日することになった経緯を知らない。オモニは夫、すなわちヤンスのアボジ(父)と、随分と昔に別れ、ヤンスには頑なにアボジのことについては口を閉ざしていた。「アボジのことは何も聞くな!」そう言ったきり、時が流れた。オモニの頑なさに少々抵抗を感じながらも、きっと息子にも話せないような辛い過去があったのだろうと、敢えてそれ以上聞こうとはしなかった。だから、ヤンスには父なる人物のイメージが結べない。アボジは、社会的に地位が高い人物であったらしいが、既に他界し、ヤンスが命日を知ったのは、五十歳を過ぎた最近のことである。ヤンスによれば、オモニはアボジの母親との間に確執があったと言う。
 同じ関東ながら、埼玉の秩父に住むオモニと離れて暮らしていた日本で、ヤンスは朝鮮半島の「南北問題」に絡んだトラブルに巻き込まれた。来日して、まだ間もない頃のことである。
女子学生のスポーツ大会が行われた会場で、北朝鮮系の学生と口論になった。乱闘騒ぎが通報されてヤンスは警察署に連行され、そこで外国人登録証を携帯していなかったことが発覚する。ヤンスが警察に捕まった! その時のことを、オモニは「異国に来て、初めての試練」と事件を述懐した。
「それこそヤンスが何か犯罪を起こしたでしょ。これはどうにかなるんじゃないかと、本当に心配でね。何とも言えなかったんですよ。警察問題まで起きるんじゃないかと。ことばが通じるから一言二言言ったのが揉めて、巻きこまれたというか、そういう状態だったんです。でもふたりが一緒にいたから、警察から見ると共犯にされてしまって。あれを経験した時に、本当に情けなかったんですよ。同じ民族でありながら、何故こんなにいがみ合わなくちゃならないのか。十七、八の子どもたちがいがみ合いながら、ああいう小さなものですけれども凶器を出して。出すほどの激憤、怒りを感じなくちゃならなかったか。それを思うと本当に情けないんですよ。彼らが見たら、わたしたちが悪いし。わたしたちが見たら、あっちが悪いしね。わたしみたいな人が政治的な、思想的な話をするわけにもいかないけど、ただ小さいような問題でも、何故こんなにひとつの国が分かれて、ちゃんと同じことばを使っているのに、それこそ敵みたいな立場なんでしょ? だけど、ヤンスにはいい勉強になったと思います。あれ以来トラブルというものは一度もなかったし」
オモニは首を傾げて、下を向いた。
「その時まで、息子にはずっと連絡出来なかったんです。だいぶ前に指紋押捺反対の問題に関わるからと、ぽつんと言って来たきりでね。あれほど、そういう問題に参加するなって言ったのにね。でも、息子はわたしに反対されるからというよりも、心配かけたくなかったから、詳しいことは言ってくれなかったんだと思います。わたしたちは犯罪者じゃないから、堂々と生きていくためにも押捺したらダメだと言ってね。この押捺反対の意味を知らない人もいっぱいいるでしょうよ。そんなに自分のことばかり我を張ったら、和が持てないし。大体自分が住みにくいし、苦しいでしょう。何でも反対的な行動をとってね。還暦近いわたしの歳くらいの人は皆こうじゃないですか。静かに暮らしたい。何の違反もしないで」
オモニは静かに続けた。
「大体わたしたちは誓約書を書いて入国するんです。入国審査の書類に全部それが入りますの。絶対に日本国の法律を遵守しますという誓約をちゃんと書きますから。それはただ書いて、はんこ押すだけの簡単な問題じゃないですもの。だからそういうこと書いた以上は、やはり反対したくないし。法律は無限的に広く、深い問題ですから。静かに住んでいきたい。住んでいく以上はたとえ国にでも、隣の日本人にも迷惑をかけたくない。そういう気持ちなんです。だからそれを、わたしはヤンスに何回も言い聞かせたんです。絶対日本人や北の人間とトラブル起こしたらダメだと言ったはずですけど、やっぱりこんな大きな問題に参加しちゃってね」
日本での今後の生き方を考えようと、ヤンスは新宿にある韓国系の学校で学び始めた。日本語さえまだ満足に話せなかった。日本語を覚えないと、同胞の人間とも意思の疎通も出来ない。在日同胞と言っても、その大部分は日本で生まれ育った世代である。へたをすれば、孤立してしまう。学校以外でも日本語の勉強をしなくては。麻布にある在日韓国青年会にも足繁く通うようになった。日本語の勉強のため、文章のレジメを書く特訓を受け、並行して同胞とも日本語で会話した。
 学校を卒業する頃には、ヤンスの日本語は相当な実力に達していた。青年会の仲間ともようやく溶け合い、来日して四年目の一九八三年(昭和五十八年)には北海道から沖縄まで約七十日間の在日韓国青年会自転車隊に参加するまでになった。
自転車隊は在日の立場から指紋押捺を強制する外国人登録法を勉強し、その廃止を求める運動を進めるための、いわば準備活動的な意味もあった。
 来日した当初は在日同胞が日本に七十万人も居住していることも、指紋押捺という問題を抱えていることも知らなかったヤンスは、自転車隊参加により、二年後に迫った外国人登録証大量更新に対処するためのノウハウを身につけた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み