第8話

文字数 8,816文字

第六節 好戦的なアパッチ族、その軌跡
 アメリカ中西部オクラホマ州。オクラホマは先住民の言葉で「赤い肌の人々」という意味を持つ。先住民自身を指しているのだ。
州都オクラホマ・シティから南西に向かうと、フォート・シルという米軍の駐屯地がある。かつては先住民鎮圧に出動した騎兵隊の拠点であった。
駐屯地の入り口には「野戦用大砲発祥の地」という碑があった。それならば、フォート・シルの辺りは騎兵隊が開拓した土地だったかと言えば、否である。駐屯地の中にある碑文には、かつてこの地に先住民ウィチタの村落があり、その統制のため一八六九年に駐屯地が建設されたとあった。
ウィチタはオクラホマの北にあるカンザスの地にいた先住民で、黄金を求めてアメリカ南西部にやって来たスペインの探検家コロナドが最初に出会ったとされる。
駐屯地建設当時の騎兵隊と先住民の関係を示す資料が駐屯地に展示されていた。
(一八三四年、リーベンワース将軍率いる竜騎兵が、オクラホマ東部にあるフォート・ギブソン駐屯地を出発した。目的は南西部に暮らす先住民との接触である。一行は先住民オサージに捕らえられた別の先住民の解放と、駐屯地で開く先住民との和平会議の下準備をする使命を帯びていた。将軍が途中で亡くなったため、竜騎兵はヘンリー・ダッジ大佐の指揮下に入り、フォート・シル近郊で先住民コマンチと出会う。そして、デビルズ・キャニオン(悪魔の峡谷)でウィチタと接触した)
オサージはカンザス、ミズーリ、イリノイという中西部に居住し、先住民スーの一派である。コマンチは当時カンザスにいたが、今はその大半がオクラホマの居留地で暮らしている。
フォート・シル駐屯地の一角に、先住民アパッチのセメタリー(墓地)があった。その中にひときわ大きな墓石がある。幾多の丸石で表面を覆われ、頂に大鷲が胸を張り、羽を広げて屹立(きつりつ)している。ジェロニモの墓だ。  
わたしは妻と近くの町のスーパーで、あらかじめ買っておいたバスケット入りの花束をジェロニモの墓前に供え、手を合わせた。   
その周囲にはジェロニモの親族や腹心の墓があり、その更に周辺には騎兵隊側について同胞との交渉に当たったスカウトや、騎兵隊員であったアパッチの墓が並んでいた。
駐屯地には合わせて三百人以上のアパッチが、その本拠地であったアリゾナやニューメキシコから遠く離れ、眠っている。その大半は騎兵隊との闘いに敗れ、捕虜となった挙句の客死であった。ジェロニモもそのひとりだ。
しかし、ジェロニモの場合は同じ捕虜と言っても、他のアパッチとは事情が大きく異なっていた。彼は、最終的に捕虜の身となったが、最後の最後まで屈せず、騎兵隊やメキシコ兵と闘い続けたのである。
ジェロニモは一八二○年代の初め、アリゾナ南東部の町クリフトン近くを流れるジラ川上流の山中で誕生したとされる。父親はタクリシムという名前で、祖父はアパッチの一派ベドンコーエの族長マーコであった。母親は純血のアパッチながら、ファーナというスペイン名を持っていた。
ジェロニモの幼名はゴヤクラという。「あくび」という意味で、「よくあくびをして眠たそうな赤ん坊」だったのであろうか。
ゴヤクラは成人し、メキシコ人からジェロニモの名で呼ばれたことから、アパッチの間でもその名前が定着した。
祖父マーコは、ジェロニモが生まれる前に亡くなっていたが、父親のタクリシムはマーコの偉大さを折りに触れてジェロニモに話したという。
マーコは若かりし頃、当時スペインの支配下にあったメキシコ兵と闘い、部族の権益を守った。言わば歴戦の勇士というイメージである。
一方、親戚筋からは別の祖父像が浮かび上がる。マーコは平和を愛し、寛大な人間で、とうもろこしを手広く栽培し、多くの馬を所有してメキシコ人と交易したというのだ。そして栽培や交易で手に入れた食糧を貯蔵し、部族に分かち与えたという。
祖父が族長として部族のために激しく闘争する「動」と、作物などを育てて部族と分かち合う「愛」が、父親を通して若きジェロニモを育んで行く。
アパッチの祖先は、ナバホと同じく北米の極北地から南西部に移動したとされる。それは厳しい寒冷地から砂漠という、過酷な環境の変化を伴う移住であった。
南西部に入った八五○年頃は、野を駆けるアメリカン・バファローを追い求めて移動し、敵対者を攻撃した。その過程でアパッチは勇猛さと凶暴性を持つ部族へと変貌したが、その反面、運命共同体の同族や家族に対しては深い愛情を注ぐ性格を育んだとされる。
そんな親に育てられた子供には、愛情に甘えるだけではなく、自らを律しようとする意志が宿る。男子は陽が昇る前に床を離れ、小川が凍りついた時も沐浴し、体を鍛えた。ある時には水を口に含んだまま山腹を駆け上がり、ふもとに戻って水を吐くまで鼻だけで呼吸する訓練をした。
武器が使えるようになれば、直ちに小動物を狙い、十四歳になるまでに大人の狩猟に参加した。弓矢での攻撃、相手の攻撃からの身のかわし方、隠れ方、追跡の仕方、さらに地形の読み方や野営地への戻り方などを体系的に学び、闘いに備えたのである。
物心ついた頃、ジェロニモもアパッチの伝統を学んだ。父は戦闘の手柄や狩猟を語り、母は部族の神話を伝えた。神話には雲のかなたに存在するという最高神ウセン、アパッチの創世神話の中に登場する超自然的存在、洞窟に住む山の精の話がちりばめられていた。
*アパッチ最後の戦士ジェロニモ
アパッチの住む領域への外敵の侵入は一五○○年代のスペイン、一七○○年代初めの先住民コマンチだったが、一八四八年カリフォルニアで砂金が発見され、続いて西部各地で金鉱が発見されると、白人が大挙して押し寄せた。ゴールド・ラッシュである。
この頃アメリカはカリフォルニア、ニューメキシコそれにアリゾナをその版図に加えていた。スペイン勢力を破った勢いに乗り、大陸横断鉄道の建設に着手し、やがて鉄道のルートがアパッチの居住地を貫通することになる。西部開拓をスローガンにアメリカ政府に支援された鉱山夫、牧畜業者、鉄道建設員など白人の波は怒涛となって先住民を押し流そうとした。
この流れに最も激しく抵抗したのがアパッチである。当時、族長として抽(ぬき)んでいたのは、マンガス・コロラダスであった。
彼はウォームスプリングス・アパッチの族長で、戦闘の際顔に太くて赤い縞を粘土で塗り込むことから「赤塗り族」の異名があった。マンガスにとって白人は「白い眼をした敵」(White-eyed Enemy)であり、侮蔑の対象であった。
ある時、採掘場で白人炭鉱夫がアパッチを殺害する事件が起きた。アメリカ政府はこれを無視したが、マンガスは復讐を考えず、責任者を裁判にかけるように主張した。
その後間もなく、マンガスの居住地の近くに金の採掘場が設けられた。マンガスは採掘場を訪ねて、鉱夫らに立ち去るように言った。
「国境の南に行けば、ソノラという町がある。そこにはもっと豊富な金脈がある」
何かの策略と思い込んだ鉱夫らは、マンガスを押さえつけ、柱に縛り付けて容赦無く鞭で打った。そして、よろけながら去るマンガスを嘲(あざけ)った。マンガス、今度は復讐の鬼と化した。
一八五二年、アパッチの軍団が郵便馬車を襲い、乗務員らを殺害する。政府の輸送物資も荷馬車ごと強奪された。アパッチを逮捕しようと急派された騎兵隊も逆に殺され、白人の荷馬車や牛が引くワゴン・トレインが続々と襲われていった。
アメリカも黙っていなかった。ある日、和平を口実にマンガスをキャンプに誘い出した。野営地でマンガスは軍のキャンプへ引き回され、尋問を受けた後、拷問にかけられた挙句に射殺された。騎兵隊はマンガスの頭皮を剥いだ上、頭蓋骨を骨相学者のもとへ送りつけたという。
強奪、殺人、また強奪。白人とアパッチが繰り広げた悪行は、南西部を憎悪の渦に巻き込んでいった。
チリカワ・アパッチの族長コチーズは、義父マンガスの殺害に怒り、難攻不落の砦と言われたドラグーンズ・キャニオン(竜騎兵の峡谷)を拠点にアメリカへの攻撃を続けた。
背が高く、肩幅の広い体格で、指導者としてのイメージを備えた人物とされているが、先住民スーの有名な戦士であるクレージー・ホースと同じく、写真に収まったことが一度もないというエピソードがある。同じアパッチのジェロニモが、家族写真など多数の写真を残しているのとは対照的である。
コチーズは十二年余りの闘争の末にアメリカ政府と協定を結び、アリゾナに設けられた居留地に部族と共に移動した。一八七二年のことであった。
コチーズとジェロニモは、その埋葬のあり方にも両者の独自性が垣間見える。客死とはいえ、親族や腹心に囲まれて眠るジェロニモに対して、記録に残るコチーズの埋葬の様子は、あらかた次のようになる。

遺体は一張羅の戦の衣裳に包まれていた。身体には今にも戦場に赴くかのように戦闘用の色彩が施され、頭には羽飾りが置かれていた。埋葬の地に出発する際に、遺体は赤いブランケットに巻かれ、愛馬に乗せられた。馬はドラグーンズ・キャニオンの峡谷の奥へと導かれて行った。埋葬地に着くと馬は射殺され、コチーズ愛用の銃器などと共に峡谷の深い裂け目へと降ろされた。最後にコチーズの遺体が投げ縄に吊るされて岩場の大きな穴に降ろされ、安置されたのであった。埋葬地は今もって明らかではない。
アパッチ諸部族は一八六八年頃までに、その大半がアメリカ政府の設けた居留地に収容されていた。ジェロニモだけは例外で、自らの一団を率いて戦いを挑んだ。
立ちはだかったのは、敗退したスペインから独立したメキシコであった。ジェロニモは悪魔にとりつかれたようにメキシコ軍と闘った。意表をつく戦術で、出撃の度に敵を血祭りにあげ、ライフルを奪い持ち帰った。彼が出現する度に、メキシコ兵は恐怖におののいて叫んだ。
「気をつけろ! ジェロニモだ!」
 ジェロニモという発音には、メキシコ兵の恐怖に満ちた窒息感が音声として滲み出ているとする説がある。別の解釈では、彼に遭遇したメキシコ人が災難を逃れるため、神の加護を願い「聖(セント)ジェローム!」と叫んだのがジェロニモになったという。ちなみに、聖ジェロームはカトリック教会公認のラテン語聖書の翻訳に関わった聖人で、異教徒を辛らつに攻撃したため、多くの敵を作った人物である。
ジェロニモを激しく駆り立てたのは一体何だったのであろうか。その直接の動機となったと思われる事件が、若き日の彼に降りかかる。
それは南西部の領有をめぐり、新興勢力のアメリカとメキシコが激突し、アメリカに軍配が上がったメキシコ戦争の戦後処理の渦中で起こった。
当時、メキシコ・ソノラ州の東隣にあるチファファ州では、アパッチとの和平を進めようという動きがあった。州当局は彼らを町での交易に招待し、食糧の配給を行った。交易品はアパッチが毛皮、獣皮などを持ち込み、布、ナイフ、装飾品などと交換していた。時にアパッチはメキシコ人開拓者の拠点を襲い、略奪した馬やロバを別のメキシコ人に交易品として売ることがあったが、州当局は見て見ぬふりをしたのである。
ソノラ州の最前線でメキシコ軍の指揮に当たっていたカラスコ将軍は次のように語った。
「一八五○年頃だったか、私は軍を率いて管理区域を無視してソノラからチファファに入り、交易中のアパッチと出くわした。私は戦闘を命じ、アパッチ約二十五人を殺害し、捕らえた約六十人の婦女と子供を捕虜として連行した。チファファの軍司令官は、私の越権行為に激怒して中央政府に訴えたが、政府は私を支持してくれた」
この戦闘で殺されたアパッチの中にジェロニモの妻と子どもが含まれていたのである。
ジェロニモが語る。
「家族の悲報に接し、呆然とした。マンガスの指示に従い、故郷アリゾナへと退却した。数日後にやっとキャンプにたどり着いた。そこには子供の遊び道具が残されていたが、我が家のテントと共に焼いた。二度と戻らぬ幸せな日々を思い出させるものは全て焼き尽くした。それ以降静かな生活は消し飛んだ。メキシコ騎兵への復讐を誓い、復讐の炎は我が心に燃え盛った」
メキシコへの憎悪は終生続くこととなる。ジェロニモはこの体験を通して、ある不思議な感覚を得るようになる。それは宇宙の生命力とでもいうものであり、自らを突き動かすパワーとなった。
ある日ひとりで出掛け、家族を思い出して涙を流している彼に、何処からか呼びかける声があった。
「ゴヤクラ! ゴヤクラ!」
その声はアパッチにとり重要な数字である四を踏まえて、四度彼の幼名を呼んだ。その声は次のように聞こえるのだった。
「いかなる弾丸も汝を殺すことはできぬ。吾はメキシコ人の銃から全ての弾丸を抜き去るであろう。銃には粉が残るだけだ。吾は汝の行方を定め、誘導するであろう」
ジェロニモはその後の戦いで何度も傷ついたが、致命傷を負うことは無かった。声の予言は当たっていたのだ。
アパッチの反撃が始まる。目的地はカラスコがいるソノラだ。メキシコの騎兵隊と歩兵が先手を打って攻めて来た。迎撃の指揮をとったのはジェロニモである。戦士を三日月形に配置して徐々に包囲網を広げ、メキシコ軍を取り囲み、攻撃した。
アパッチにも多くの死者が出たが、二時間に及ぶ戦闘が終わった時、アパッチはメキシコ兵の死体が散乱する戦場を完全に掌握していた。
この戦闘で他のアパッチは満足して戦場を去ろうとしたが、ジェロニモは例外であった。彼は引き揚げようとする戦士を説得し、更なる襲撃へと向かった。
夏が来ると、ジェロニモは再びメキシコに襲撃をかけた。食糧を積んだ幌馬車を襲い、戦利品を持ち帰ろうとした時、メキシコ兵の鉄砲が一斉に火を噴いた。ジェロニモは横腹と眼の近くをかすめた弾丸で負傷した。
それから間もなく、今度はメキシコ軍がアリゾナにあるアパッチのキャンプを襲った。交易のため戦士が出払っている隙を突かれた恰好であった。ジェロニモは傷を癒すためキャンプに残っていた。メキシコ軍の発砲で、婦女子多数と戦士数人が殺害された。不意を突かれたため、ジェロニモは防御する余裕も無く、傷で周りが膨れ上がった眼に弓矢を構え、メキシコ兵ひとりを倒すのが精一杯であった。
メキシコ兵は住居を焼き払い、子馬や武器、食糧を持ち去った。この戦闘での犠牲者に、ジェロニモの第二の妻と子ども二人がいた。彼は再び妻子をメキシコ兵に殺されたのである。
復讐の鬼と化したジェロニモは、メキシコ軍を取り囲み、殲滅する計画を立てる。戦闘の結果メキシコ兵十人が死亡し、残りは退散して行った。後を三十人のアパッチ戦士がメキシコ領内まで追って行った。
このように、メキシコ兵との戦いは、その後もアリゾナとメキシコを舞台に繰り返された。マンガスが虐殺された後も、一度も族長の地位にはつかず、少数の勇猛な戦士を率いるリーダーとして、宿敵メキシコと闘い続けたのである。
ジェロニモには幾つかの霊力が備わっていた。彼が偉大なリーダーであり、癒しの霊力を持ったメディシン・マンであることを知っていたのは、他ならぬアパッチ諸族の族長らであった。その存在は様々なエピソードを生んでいる。
曰く、砂漠の砂の上を、足形をつけずに歩いた。部族を闇夜で隠して守る必要がある時に、夜明けを押しとどめることが出来たという話さえある。
メキシコ兵との闘いで頭をライフルの台尻で強打され、意識不明に陥っても、仲間に水で頭を冷やされて意識を回復し、戦場から歩いて帰ったという。その傷は回復に長期間を要し、傷跡は一生涯残るような重傷を負っていたのにである。
ジェロニモに重大な関心を寄せていたもうひとつの国はアメリカだった。彼が国境を越えてメキシコ兵と戦闘を繰り返していることは、ワシントンの政府の耳にも届いていた。それまでに大半のアパッチはアメリカと和平協定を結び、居留地に移動していたので、残る眼の上のたんこぶは彼の一団だけだった。アメリカはジョージ・クルック将軍をアリゾナ担当に任命し、その掃討を命じた。
クルックは先住民対策のベテランで、アパッチの間ではナンタン・ルパン(灰色の狼)と呼ばれていた。アメリカの騎兵隊は、砂漠ではとてもアパッチにはかなわないことをクルックは良く知っていた。そこでクルックは、友好的なアパッチを交渉役のスカウトとして雇い、戦士として騎兵隊に取り込んだのである。この作戦はアメリカ側には不評であった。
「何故敵対するインディアンと一緒に闘う必要があるのか」
 クルックに対し、同胞から非難の声が上がったが、彼は動じなかった。
 その頃アメリカ政府は、別々の居留地に収容したアパッチ諸部族の幾つかをまとめて同じ居留地に収容しようとしていた。そうすればコストダウンに繋がるし、管理し易くなると考えたのだ。
ところが、同じ居留地に収容された部族同士はそれぞれ派閥を形成していがみ合い始め、中には集団脱走する部族さえ現れた。クルックはその後処理に追われることとなった。集団脱走を手助けしたのはジェロニモだという噂が広まり、アメリカはこれまでにない軍事行動を強いられた。その結果、合衆国内とメキシコで展開されたアパッチ戦争で何百人もの市民が巻き込まれて犠牲となり、アパッチにも多大な被害が及んだ。
 一八七五年、クルックは中西部北方の先住民スー、シャイアンそれにアラパホの平定という新たな任務を遂行するため、南西部を去った。
 それから二年後、政府の緊急報がアリゾナにあるサン・カルロス居留地に飛んだ。
「ジェロニモ発見。アパッチの脱走幹部らとニューメキシコ州のウォーム・スプリングス居留地に隠れている。殺人及び強盗罪で収監せよ」
 緊急の伝令を受け取ったのは、居留地担当官のジョン・クラムであった。サン・カルロスからウォーム・スプリングスまでは約六百四十キロ離れている。クラムはアパッチ警察隊を緊急召集して遠く離れた居留地に向かい、未明に到着した。
 夜が明けると、クラムはジェロニモらにメッセージを送り、会合を開くので来るように伝えた。ジェロニモは衝突が起こらないと踏んでいたのか、婦女子を連れて居留地の広場に姿を現わした。
 クラムは彼らに向かい、言い放った。
「君らはわが政府との和平協定を破り、殺人と家畜の強奪を行った。去年サン・カルロスに出頭する約束をしたのに、その約束を反故(ほご)にした。だから君らを連れに来たのだ」
 ジェロニモは挑戦的に反論した。
「お前らとサン・カルロスに行くつもりはない。気をつけないと、お前とホワイト・アイ(白人)の手先と化したアパッチ警察隊の命はないぞ。死体は全てコヨーテの餌食にしてくれる」
 クラムはあらかじめ示し合わせたサインを送った。食堂の建物に潜んでいたアパッチ警察隊がライフルを構えて飛び出し、広場に一列に並んだ。
ジェロニモはライフルの銃口をクラムに向けていた。親指が少しずつ撃鉄へと動いていた。しかし、ある時点で親指の動きは止まり、撃鉄から離れていった。ジェロニモはライフルを地面に置くように、他の幹部に指示した。幹部が全員ライフルから手を離した後で、クラムはジェロニモのライフルを取り上げた。
ライフルを奪われた瞬間のジェロニモの形相には凄まじいものがあった、とクラムは後に語っている。その顔には体全体から発する白人への憎悪が核となって凝縮し、渦を巻いていたという。
連行されて広場を出ようとした時、ジェロニモはベルトのナイフに手を伸ばした。クラムはジェロニモの厳しい眼差しの中に、このまま投降するか、あるいはナイフを抜いて闘い、果てようかといった迷いを読み取った。ジェロニモが逡巡している間に、クラムに指示されたアパッチ出身の警官がナイフを取り上げた。ジェロニモの鋭い眼が警官を刺した。
「ホワイト・アイの味方になって、お前は恥ずかしくないのか。アパッチの誇りは何処に消え失せたのだ!」
 ジェロニモの言葉に警官はひるんだ。
「よし、これでいい」
 ジェロニモはそう言うと、ゆっくりと連行されて行った。
 宿敵メキシコと同時にアメリカ騎兵隊とも闘い続けて二十五年余り。ジェロニモは七十歳近くになっていた。アメリカ政府は生き延びたアパッチを全員捕虜として、南東部フロリダの地に移送することを決めた。ジェロニモは従者ら三百八十二名と共に列車に乗せられ、遠く離れたフロリダへ向かった。アメリカ騎兵隊に協力したアパッチのスカウトらも武装を完全に解かれ、黙って列車に揺られていた。彼らはその後フロリダからアラバマを経由して、オクラホマにあるフォート・シルへと移送された。
 捕囚の身のオクラホマで、ジェロニモは最早超能力に頼ることはなかった。全く別の才能に目覚めたのである。それは観光客相手に物を売ることであった。自分のサインやブロマイド写真、コートのボタンなどが商品であった。
そんな物が売れるのかと言えば、さすがにジェロニモの名前は知れ渡っていた。そのネームバリューを利用して生活の糧にするサバイバル術には、したたかささえ感じられる。彼は画家に頼まれて、部族衣裳を着て絵のモデルになり、興行主に頼まれてはインディアン・ショーに出演した。
 一九○五年には、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの就任を祝うパレードにコスチューム姿で馬に乗って登場し、政府の宣伝に一役買い、ギャラを受け取った。
 一九○九年のある夜、八十歳を超えていたジェロニモは、酔っ払って落馬し、小川に転落した。倒れているのを発見されたのは翌朝で、酷い寒さから肺炎にかかり、間もなく亡くなった。近くの町で弓矢を売っての帰り道だった。
 アパッチ最後の戦士ジェロニモの闘いは、ようやく終わったのである。
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