第9話  6月4日 土  樹

文字数 3,107文字

樹は朝起きると、予約していたレンタカー会社に向かった。
お雛様を取りに実家に帰ろうと思ったのである。

実家は会津である。運転は数年振りなので緊張するが、ゆっくりと安全運転で行けばいいと思う。

 樹は空を見上げる。
今にも雨が落ちてきそうな空だった。
今日は会津の温泉で一泊しようと決めていた。

 実家に着いて、さっそくお雛様の箱を積み込む。
父親が一人でいた。義母は実家に帰って今日は留守だという事だ。義母は樹が帰るときには大体家にいない。居てもらっても気詰まりなだけだから、それならそれでいいと思う。

 久しぶりに父親と話をする。
縁側に座ってお茶を飲んだ。近況の報告や千尋の話をした。千尋は現在大学2年生。
大学は北海道である。
「連休も友達と旅行に行くと言って帰って来なかったよ。まあ楽しく大学生活を送る事が出来て良かったよ」
そう言って笑った。

 庭は祖母が生きていた頃と同じ様に綺麗に手入れがされていた。
「薔薇の花が綺麗ね」
樹がそう言うと父は「ああ。高子が植えたんだ。中々育てるのが上手いよ」と言った。



「お父さん。少し聞いていい?」
「うん?何を?」
「・・・お義母さんってどうして私の事が嫌いだったのかな」
樹は父親を見詰めた。
父は目を瞬いて樹を見た。そして下を向いた。
「そんな事は・・」
「そうだった。お父さんも知っている」
樹は父の言葉を遮って言った。

 父はお茶を飲むと黙って庭を見ていた。

「私がお母さんに似ていたから?」
父はぎょっとする。
「お前、誰がそんな事を・・・」
「高子さんが」
樹は義母の名を言った。

 父は「そうか」と言って黙った。
樹は続きを待つ。

小さな藤棚には紫の房が揺れている。
祖母とよくあの花の下でおままごとをして遊んだなあと思う。
シートを敷いておままごとをする自分と祖母の姿が脳裏に浮かんだ。
籠に入れたおままごとセットのカラフルな色を思い出す。
暫し、それに心が占領される。

父はぽつぽつと話を始めた。
その声で現実に引き戻された。
「お前は確かに佐和にそっくりだよ。
お前の母親・・佐和は俺よりも7つも若かった。俺は長い事、高子と付き合っていたのだが・・・・佐和を知って、すっかり惚れ込んでしまって、高子を切って佐和と結婚したのだ。
だが、佐和はお祖母ちゃんと上手くいかなくてね・・・。


結婚当初はアパートを借りて二人で住んでいたのだが、どうにも俺はお袋が可哀想になってしまったのだ。お前も知っている様に、俺の父親は俺が小学校の時に病気で亡くなってしまって、それ以来お袋は女手一つで俺を育ててくれたのだ。
 残されたのは家屋敷だけ。大した財産もない。結婚して辞めた銀行の仕事を再開した。
パートとしてね。そして苦労して俺を育てて大学まで出してくれた。
そんなお袋を一人で置いておくことに、罪悪感と言うのかな・・・それにいずれにしろ何時かは同居はする積りだったから、それが多少早まっても構わないだろうと思ったんだ。

俺は佐和を説き伏せてお祖母ちゃんと同居を始めた。
お祖母ちゃんはきちんとした人だったから佐和の家事が苦手な所や、会社の飲み会で帰宅が遅くなることや、そんな事が気になってしまって色々と俺に言い出したのだ。俺はそんな事は全く気にならなかったので、母親の言葉は捨てて置いた。

俺としては勿論家に帰って来てホッとした。やっぱりここが自分のいる場所だと思った。
今はお互いに慣れないが、その内佐和と母も仲良くなるだろうと思っていたのだ。それに、ここに居れば佐和だって家事も育児も母に手伝って貰えるのだから、その時になれば同居して良かったと思うだろうと考えていた。だから佐和がお袋との別居を言い出しても、何を今更と思って取り合わなかったのだ。

佐和はきっと窮屈だったのだと思う。
それでもお前が生まれてからはお前を間にして、少しは平和になった。だが、お祖母ちゃんが・・何というかな。お前をずっと手元に置いて、佐和に渡したがらなかったんだ。・・・佐和は仕事があったから、産休が終わってからはずっとお祖母ちゃんが面倒を見ていた。
お前もお祖母ちゃん子になってしまって。
・・・一度、佐和がお前を叩いた事があった。自分に懐かないから。お前がすごく泣いて、それをお祖母ちゃんがものすごく怒って。佐和はそれで一度家を出てしまった。

 その後、佐和は家に戻って来たのだが・・・
お前が5つの時だね。俺達は離婚した。

俺は気が付かなかったが、その頃佐和は会社の同僚と浮気をしていてね。好きな男ができたから離婚してくれと言われたんだ。俺はもう止めもしなかった。
佐和はあっさりと親権を放棄した。寧ろあっては再婚の妨げになると思ったのだろうな。
 その後はずっとずっと三人で暮らしていたが・・お袋が亡くなって俺は高子と再婚した。お前が8歳の時だったな。高子は俺と別れた後ずっと独りでいたのだ。

高子は佐和を恨んでいたのかも知れない。
・・・お前には済まない事をしたと思う。でも、俺も何度か高子には注意したんだよ。」
父はそう言って庭を眺めた。
 樹は黙って聞いていた。

「お母さんは窮屈だったかも知れない。でも本当は寂しかったんだと思う。」
樹はそう呟いた。
父は樹を見たがそのまま視線を逸らせた。
「お父さんはお祖母ちゃんと一緒で、そして住み慣れた家に戻って来て幸せだったのだろうけれど」
樹はそう言った。
「そんな事はないよ」
父はそう言った。
「俺だって随分悩んだよ」

 ある日を境に母の姿が家から消えた。
母が帰って来るのを祖母と一緒に門の所で待ち続けた。
何も知らない幼い自分に付き合って、出て行った嫁を待った祖母はどんなに辛かっただろうと思う。


父にお母さんはもう別の家のお母さんになった。そう言われて、心が千切れる程悲しかった。その時に、お母さんはもう自分を要らないんだと思った。
だから自分もお母さんを要らないって思わなくちゃならない。それが悲しかった。
家を出た母とはそれから一度も会っていない。どこに住んでいるかも分からない。


今なら母親のその寂しさが分かる様に思えた。この家で、自分だけがぽつりと他人だった、その気持ちを若い母は持て余していたのだろう。

もっと甘えたり、我儘を言ったりして、父とこの家から出て行けば良かったのに・・。
そう思った。
それが出来なかった母は自分と似ている。
結局他の人を好きになって出て行ってしまった所も。


しかし、何だろう。この父親。よく理解できない。
私の事は「済まない」で済んじゃうのかしら。
「取り合わない」というのはこの人の性格をよく表している。嫌なことは「聞きたくない」から「捨てておく」のだ。


自分が心地良ければ他はどうでもいいのだろうか・・・。
私の子供時代って何だったのだろう・・。
自分の子供には絶対にこんな思いはさせたくないと思った。
でも、高子さん。ずっと一人で居たんだ。だからって・・・。
母に似ているのは私の所為じゃないし、父が結婚しなかったのはそれこそ私の所為じゃない。


 樹は
「そっか。うん。分かった。・・じゃあ、私、今からちょっと散歩に行ってきます。懐かしいから」と言った。
父親はほっとした顔をした。
「そうか。じゃあ帰って来たら、一緒に蕎麦を食べるか。樹が帰って来るから蕎麦を打って置いたんだ」
「有り難う。じゃあ帰って来たら頂くわ」
樹はそう言って立ち上がった。
「今日はこのまま帰るのか?」
「いえ。東野の温泉に泊って行く」
樹は答えた。

 樹は帰って来ても実家に泊る事はしなかった。
自分の部屋はもう物置と化している。埃だらけで寝る場所も何も無い。
それに義母に気を遣いながら過ごすのは嫌だった。


「そうか」
父は頷いた。
「じゃあ、ちょっと歩いて来るわね」
父は再度頷いた。


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