第29話  7月5日  樹と由瑞

文字数 1,261文字

授業の予習をしていると由瑞からメッセージが届いた。

「こんばんは。『煌香展』のチラシを有難う」
「どういたしまして」
そう返信した。
その文字をしばらく眺めていた。

スクロールして由瑞からの「おはよう」を見る。
彼は約束した通りに毎朝「おはよう」を送って来る。
そして自分もそれに返す。
もう二か月近く。本当に律儀な人だと思う。
約束はきちんと守る。


あの会津に帰った日の会話を眺める。
「寂しかったら、俺の所に来ればいい」


ちょこちょこと「おはよう」にくっ付けて自分が送ったメッセージを見る。
「今日は雨ですね」とか「紫陽花が咲きました」とか。
声を聞いたのは、電話を入れた時、あの一度だけ。
それでも毎日の短いメッセージで彼と繋がっていると感じる。


由瑞の声を無性に聞きたくなった。
電話を入れてもいいだろうか。
樹は考える。
それに彼はまだ融と喧嘩したままだと思っている。

樹は由瑞の電話をタップした。

「樹さん?今晩は。久し振りだね」
由瑞の声が聞こえた。
樹はちょっと目を閉じる。

「今晩は。お久しぶりです」


「元気だった?」
「はい。由瑞さんもお元気でした?」
「うん」
「・・・あの・・」
「何?」
「7月に入ったので、ちょっと状況を・・・」
「仲直りしたの?」
「はあ・・一応。友達に戻った感じです」
「友達?」
「はい」
・・・

由瑞のため息が聞こえた。

「君も律儀な人だな。そんなのいちいち連絡してくれなくてもいいから。・・心臓に悪い」
「あれ?」
樹は笑う。
「よりが戻るならそれでいいって言う約束だから、君は君の思う通りにすればいいよ。
だから、そうなったら教えてください。
そうしないと俺はずっと君に『お早う』を送り続けなくちゃならないから」
由瑞は笑った。

「ラインで構わない。『さようなら』の一言でいい。他は何も要らない」
「会わなくてもいいのですか?」
「何で?会う必要なんかない。会いたくない。・・・君が次に俺と会うのは、赤津と別れた時だけ」
「分かりました」
「・・・しかし、凄いな。君にもう何回『お早う』を送ったのだろう?60回?」
「由瑞さんってすごくまめな人だったのですね」
樹は言った。
「いや、俺も初めて知った」
由瑞は笑う。

暫し間が開く。

「本当はね。声をちょっと聞きたかったの」
樹は言った。

・・・

「同じことを赤津にも言っているんじゃないの?」
由瑞は笑って返す。
「言っていない」
「そうかな?実は結構な悪女なんじゃないの?君は。俺と赤津と二人を手玉に取ろうと言うんじゃないの?」
樹も笑った。
「そんな事はない。手玉になんか取れない」
「どうかな?・・・まあいいだろう。長い人生で、たまにはそんな経験も。手玉に取られる経験も。・・・今日は君の元気そうな声を聞けて嬉しいよ。前回とは声の感じが違う。明るい感じだ。良かった。赤津と仲直りが出来たからだな」

「うん。有難う。そうかも知れない。・・・じゃあ、由瑞さん。もう切るね。・・お休みなさい」
「お休みなさい」

電話は切れた。
樹は頬杖を突いて電話を見詰める。


由瑞も電話を見詰めた。
樹の言った「お休みなさい」が「さようなら」と言っている様に思えた。























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