第11話 友人① 佐藤ゆかりの場合

文字数 1,530文字

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 佐藤ゆかりは見た目のあどけなさに似合わず包容力があり、僕と木村には時たま姉御風を吹かせる時もある。ロシア文学研究者の厳格な父親のもと育てられ、博識で教養も高く、第三外国語まで授業を取っている。言ってしまえばロシア語なのだが、本人は「なるべく簡単そうなのを選んだ」と言う。文化史にも精通し、特に美術品に関しては我々の歳では及びもつかない深い造詣を持っていて、美術史概論の授業では白髪講師と仲が良く、それだけでも良い成績を貰えてしまうんじゃないか、周りからも好奇の目で見られている。

 「今度、早苗さんがサモワールを見せてくれるらしいの。嬉し。うちには流石に置いてないからなあ、普段使わないし。」
サモワールって物が何なのか分からないまま憶測すると、恐らく僕ら三人で割り勘しても十年はこの「本のデパート」に閉じ込められたまま働き続けないといけないような物の気がする。佐藤は早苗さんとも仲が良く、お茶の銘柄をまじない言葉のようにつらつら並べる。僕は右から左へツツーっと聞き流すに得意だが、もう一人の級友も覚えた傍からすぐに忘れる。それを幸助に笑われて図書館中を鬼ごっこしていた。

 或る時「本のデパート」から駅への帰り道、佐藤は唐突に唐突なことを言い出した。
「私たち三人ってニックネームがないわよねえ?」
要らん、頭の中で即答した。
「ニックネームを一番欲しそうなのは椿屋のような気がするなあ。18年間『椿屋くん』じゃお母さんも哀しむだろう」
うちの母親はそれを知っているが、悲しんだ様子は18年間一度も見ていない。
「私のニックネームは?ゆかりんとか、ゆかぽんとか。」
考えるまでもなかった。
「名前から取るのも安直だ。どうせならオリジナリティ溢れる仇名にしよう」
「どんな?」
「佐藤は何月生まれ?」
「4月」
「卯月。スプリング・バニー・スルー・ベア。」
僕の悩みはあからさまになっている。そう、もう、何も言わなくても分かるだろ?頭痛にはアスピリンじゃなくてバッサリンだ。
「悪くないわね。特にスルー・ベアが」
保留にしてくれ。保留にしよう。
「木村君は?キムキム?」
「俺はそれで良いよ。ずっとそうだった。」
「あとは、椿屋くん。人生初のニックネームかあ。すごく緊張しない?私どきどきする」
俺事だ。俺の災難だ。
「モヤシは辞めてあげよう。それには説明が手間だ。」
スルーベアの件は?おいおい、さっきのは?
「十年後、もし何かの巡り合わせで三人が出会って、その時にも覚えてて、すんなり受け入れられる、少し笑ってしまうような仇名が良いわね」
おい二人とも、もう今すでに少し笑っているだろ?
「よし、決めた。決めたんだ~。決めちゃったんだ~」
だからそのほくそ笑むのを辞めろ。

 佐藤は駅の改札を出て各ホームへ別れる時に、「椿屋くんの仇名は少しの間、冷蔵庫に入れておくね」
冷凍庫にしてくれ。若しくは永久凍土に押し込めとけ。キムキムが少し羨ましくなった。

 その晩、ベッドの中で永久凍土について考えていた。そしてそれは、その永久凍土を掘り返す現代人について、いつか資料集で見た冷凍保管されたマンモスやアルプスの山中で見つかった「アイスマン」と呼ばれる古代人の木乃伊、この少し寒い今春の少し遅い桜について、僕は微熱を発した。すぐに凍ってしまうような微熱だが。
 永久に凍っている土地。地図上すぐ近くに生活する人々。掘り返されるミイラ。僕はいつか永久凍土で、マリさんの修復師としての仕事と僕の脳内の焚き書が同じ村に生息する農耕民と山鹿のように並んで、ずっと向こうの山麗に向かうキャラバンのようになるかもしれない。その思い付きをチリチリと脳の耳の近くで燃やした。暗闇の中に仄か灯る常夜灯も消して眠りについた。
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