第5話 友人と呼べそうな奴ら

文字数 1,865文字

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 午前中の学食は比較的に読書がしやすい環境である。人が少なく、朝食と昼食の間を上手く摂って食銭を節約する。あと一時間もすれば無闇に賑わうが、僕はその頃には次の授業のために講義室で予習復習に従事している。手元の本はマッカラーズの「結婚式のメンバー」、いずれ燃やされるかもしれないその本は表紙に少女のドローイング画が載っている。僕はカツ丼の残りを平らげて空っぽのどんぶりを食器返却口へ置くと早々外へ出る。晴れやかな五月の青空に二限目の終業のチャイムが広がって掠れ沈むのを、ちょっぴり憂鬱にスニーカーの底で感じていた。

「よっ、椿屋。今日の放課後は空いてないか?あの図書館に連れてけ」
「構わないが、君の望む文献が必ず置いてあるなんて、そんな確証はないよ」
「いいよー、私はあのイコンが気になる」
うん、幸助に「淋しいお兄ちゃん」呼ばわりされたが、気紛れ気晴らしの丁度いい級友が出来た。そんな気がする。
「お前、辛気臭い顔してんなあ。飯食ってるか?奢ってやろうか?」
今、十分なカロリー摂取は済ませたところだ。その後お前に会った。
「椿屋くんは『日本文学史』の明治・大正の遺跡調査の準備は片付いたの?まあ、あの図書館なら充分な文献は探せば出てきそうな気もするけど」
実は昨日一冊見つけた。でもまだ最初の一ページだけで、直感的にその本があれば上出来な成績が貰えそうな気はする。教えてやろうか。
「俺は『アメリカ文学土壌の日本文壇への初動影響』についてレポートしようかと思って」
何が何やら本末転倒な気もする。
「私、しばらくあの図書館で資料集めとレポートのガイドライン作成しよっかな。マリさんともお話したい。椿屋くんはあの後、あのイコンについて何か聞いた?」

マリさんとは一昨日、「本のデパート」で早苗さんが開いた茶会で雑談をする機会があった。
「真理さんはロシア人と日本人のクウォーターなんだってさ。お祖父さんとお祖母さんの出会いは満州のハルビン。お祖父さんが日本の商社マンで、戦後もロシアと日本の流通産業の仕事をしていたらしい。主に工業製品と綿花なんかを。」
「へえ。まだ二十歳くらいでしょ?イコンの修復師にしてはだいぶ若いんじゃないの?」
「エルミタージュ美術館に特別に雇われた、特別な評価を受けている修復師らしいよ。彼女の弟がそう話していた。」
「ふーん。私とそんなに変わらないのにすごく大人びてるし」
佐藤は確かに歳甲斐なくはしゃぐし早口だ。
「どうやら今回の修復は二種類の画法で行うらしい。彼女の家はもともと美術館と縁の深い家系で、彼女も学校は飛び級で十五歳からウィーンのアカデミーで修復師として修練を積んだ。そこで学んだ技法が今回の絵画の修復に打って付けで彼女に白羽の矢が立ったってわけ。」
ふむふむ。木村は少し首をひねり
「あのイコン、二度のイコノクラスムを逃れたって言ってたよな?それは一体どうしてそうなったんだ?」
一体どうしてそうなった、どういうことだ。
「普通なら燃やされるんだよ。破壊される。大方の宗教画は、キリスト教に限らず崇拝されていそうな、国政にそぐわないとされた美術品は、単なる家族の肖像画だって子供が作った粘土細工だろうと、とことん燃やされたんだ。」
そうか、確かに。
「でもそこから隠されるように描かれた〈魚〉の絵なのよ」
「それは今言う話だ。当時は混乱していて、ちょっとでも役人が怪しいと認めれば片っ端から燃やされた。」
その二度のイコノクラスムの歴史と、絵が見つかったモスクワ郊外の教会、絵の壊れ方と二種類の画法、君らに言っておくけど僕は今から溜息を吐くよ、ふう。
「確かに。いろいろ意味深だわ。マリさんに聞いてみよ。小柴さんへのお土産はお茶当てでいいかなあ」
「君ら、人の職場に何を押し掛けるつもりでいるんだ?僕は自分の目的が既にちゃんとあって、その作業も怠ってるんだよ。」
「本を燃やすこと?」
それもある。図書館のバイトもだ。
「実際に見てみないとな。どうやってあの図書館の全焼を狙っているのか。」
そこまでは時間的に無理だし無意味だ。
「ま、いいや。午後てきとうな時間に図書館に来ていいよ。小柴さんには気を遣わなくていいって言っておく。うろちょろするのが二人増えるだけだって」
「ひどい。子ども扱い。確かに落ち着きはないかもだけど」
「やっぱりお前、言い方が雑だ」
二人は午後の授業を待ってやって来る。僕はマリさんに無駄な迷惑を掛けやしないか、杞憂のうち少し早めに授業を上がるつもりだ。春の陽気がシャツの襟に差し込んで、少し背中が汗ばんできた。




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