第6話 垣内伝之助とその妹

文字数 2,159文字

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 小柴早苗が「本のデパート」を管理することになったのは、彼女の兄の遺言に従ったまでである。戦時中の動乱から疎開して戦火を免れた彼女は、東京へ戻ると焼けた家屋に帰るところをなくしていた。
芋粥も粟も身体を通り過ぎて腹が減り、バラバラになった家族の安否を気にしながら焼けた小学校の図書館の本を集めて売って食銭にしては、いつ来るとも知れない父母と優しかった兄を待ち続けた。
いずれ国の経済が安定してくると紡績工場で職を得て、工房の管理職の男と恋に落ちた。不愛想な男だったが、早苗には丁寧に仕事を教え、工場の裏でこっそりプロポーズをした。工場生産業はお国の復興と足並みを揃え、安定した生活と充実した仕事を期待できるようになってきていた。

父と母とは再会が叶わず諦めていたが、あの強く逞しかった兄の事だからきっとどこかで生きているだろう。その希望はそれまで早苗の生きる支えともなっていた。結婚挙式の数か月前、彼女は無理を言って新聞に人探しの広告を載せた。それは小さな広告だったが、そのほんの小さな出来事が彼女の人生を大きく変える転機となる。

 彼女の兄がその広告に気付き連絡をよこしてきたのだ。兄の名前は垣内伝之助。こんな奇跡みたいなこともあるんだね、彼女の受話器を持つ手ががくがく震え、相も変わらずの伝之助の明るい声に、ぼそりぼそり父と母のことを話した。伝之助は両親のその後を把握していた。父は東京大空襲で亡くなり、母は疎開の地で流行り病で亡くなっていた。伝之助は満州のハルビンで商業を起こし、大戦中は軍の通信部にいて、戦後はロシアで骨董品の売買を行っていた。妻はロシアの古美術商の令嬢で、子どもが二人、モスクワの郊外の大きな邸宅で暮らしている。屈託なく明るい電話の声で
「早苗。結婚おめでとう。大変だったろう、心配はお互いさまだ。父ちゃんと母ちゃんは死亡確認が取れた。だけど、お前の事だけが何んも分からんかった。だから、生きている、妹は、お前は、生きている、そう信じて、いつか日本に帰る勝手な愉しみにしていたんだ。お前を探して会って話をするのを。結婚か。出来る限りのことを何でもしてやる。二十年分、お前に甘えさしてやる。」
「電話も高いんやないの?」
「心配ない。おまいは何も心配ない。よく生きとった。」
「兄ちゃん、無理せんでいいんよ。」
「余計な心配すな。とりあえず今度日本に仕事で渡航した時、お前に会いに行くわ。待っとけ」

 一か月後、伝之助は日本ではあまり見ないようなビシッとしたスーツ姿で小柴早苗に会いに来た。浅草小江戸の小料理屋の暖簾をくぐり二人で鰻を食った。早苗が「兄ちゃん、仕事は、詳しいこと分からんけど」、伝之助は「構やしない。お前も安心して家庭を守って、子どもでも産んだらええ」。東京郊外に家を一軒プレゼントしてくれると言ってくれたが、彼女は兄がもしかしたらお国を捨てたのかしら、と気が気でなかった。東京も復興してきていたとはいえ、舶来物で衣装を固めた兄を訝しがる周りの卑しい目が気になってしまっていた。だから言った。
「何もいらんのよ。あたし、うちの人とやってくんよ。兄ちゃんこそ東京なんか来たらいけんのじゃないの」
「そんなことはない。」
「周りの目見てみいな。私ら仇みたいに見られとるよ」
「これから世界は変わっていく。もちろん日本も。お前は心配せんでいい」
「何もいらんのよ」
「いいから」
「いらない」

 上野の露店街で水蜜桃と魚の干物を買って、小柴氏に土産と舶来物の上等な帽子をくれた。荷物だからと断っても「いいから」と、いい歳して兄妹喧嘩も恥ずかしく風呂敷に包んで人目に着かないように家路に着いた。

伝之助は帰国してからも手紙を幾通もくれて、外国住まいで心配していたのがそのうち早苗もモスクワの兄の家に行ってみたいと思うようになった。兄の奥さんはどんな人なんだろう、子どもたちは、外国ってどんな風なんだろう。綿花や金属部品の流通の仕事を始めたという伝之助から、早苗は年に二度ほど貨物船で送られてくる色煌びやかな洋服と、種類豊富な外国のお茶が愉しみにもなった。ある時の贈り物の中に写真が入っていた。林の中の洋館の写真で、彼女はそれを遠く知らない土地の建物の景観写真だとばかり思っていた。そこから三十年それを疑うことがなかった。

 小柴氏は六十三歳で他界した。早苗は五十八歳だった。子どもはいなかった。小柴氏は頑固一徹で、早苗はそれでよく兄を思い出していた。「似ている」と思えばクスクス笑えてくる時さえあった。未亡人になって子どももいないともなると生活が心配になってくる。職を得ようと職業相談所に行ってもその歳では碌な仕事はなかった。

そんな折にロシアから一通の手紙が届いた。それは日本のとある弁護士伝いに届けられた。
「東京の三鷹に邸宅があって其処に明治期から現代までの書物が沢山所蔵されている。少し広い。それを早苗に譲る。約束は守る。口に出したら成し遂げる。子どもたちや孫たちが日本に行ったら世話になるかも知れない。生活費もその分銀行のお前の口座に用意してある。遠慮せず受け取れ。妹よ、お前はちょいと気を遣いすぎる。のんびり気兼ねなく暮らしていけ。」

 兄・伝之助が遠く異国の地で永く安らかな眠りについたことを知った。




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