第2話 彼女はマリ

文字数 2,153文字

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 箒で桜の花びら、斃れた枝、早逝の葉を、アスファルトを撫ぜるように搔き集める。彼女の名は小柴早苗、六十七歳、主人とは十年前に死別していて、どこかの身内の遺言に、この「本のデパート」の「管理」を受け継いだ、笑顔のチャーミングな老女である。
「椿屋さん、このお二人が例の、、、」
「そうです」
「ようこそ、もう少しで終わりますから」
僕たちは箒で優しく撫ぜられるように図書館に入る。するとドアの向こうに先客がいるのが見えて、昨日の「事件」を思い出し微笑んでしまう。



 昨日、夕刻もうら早く過ぎて本棚の整理をしていると、本棚の端からちょこんと顔を出す男の子が目に入る「閉館時間だよ」。
「知ってるよー。彼女いないの知ってるよー。」
ちょうどホコリ叩きを持っていたが、それよりも初めて見る利用者に少し興味を持って、話しかける。
「君は近所の子?見なかったけど、新しく引っ越してきた?」
こくん。「でもね、一週間はもうここにいる」
「そっか、よろしくね、僕はバイトの椿屋、椿屋友治。つばきや、だよ」
ふーん、
「彼女いないの知ってるよ」
「それは何故だろう。確かにいないんだけど」
少年は書架に登って一冊の本を取り出した。書名は「クリスマスキャロル」チャールズ・ディケンズ著。書影に見覚えがあるな、中身が欠落している。そうに違いない、一週間前に僕が、確か、焚書した本だろう、そう、だいたい一週間前くらいに。
「この本、じーっと眺めて、少し笑って、興味なさそうに棚に仕舞った。クリスマスに良い思い出も愉しみもないんだね。」
「そう言われればそうかも知れないが、少し勘繰り過ぎだよ」
少年は本をペラペラ捲ってからタイトルを確認し本棚に戻した。
「君、名前は?」
「幸助」
「苗字は?」
「アバーエフ」
からかっているようには見えず、
「どこの家?」
「ここの裏側の二階建ての家だよ。」
そう言えば林の裏手に立派な洋館が建っていた。十何年も前からだ。東京に避暑地もないものだから別荘という考えも頭になかったが、建物の外観の作りから日本人向けの邸宅でないだろうことは少年時代からの呼び名にも見ることができた。
「『大きな木のスプーンの家』。そこの子?」
「スプーンは普通の大きさだけど、たぶんそこの子。」
吹き抜けの二階からレコード、ぶつぶつと、音の入ったクラシック音楽が聴こえてくる。早苗さんが閉館の合図に、決まった時刻に流す、ぶつぶつだ。
「お兄ちゃん、明日もここにいる?」
「いるけど、明日はあんまり相手できないかも」
「いいよー。」
少年はあどけなさの中にも、ひとりでも大丈夫、他の子どもたちとは違う、放浪に慣れたにべつかなさを「本のデパート」の扉に去り際に手も振らず、去っていく、今日はもう日が閉じようとしていた。


 「燃やしたはずの本が燃えカスから形がぼんやり見えてきた」、ダメだな、せめて人のいない時刻を精密に見図り、こっそり穏便にダビをしていかないと。脳がぐらぐらしてきて、小柴さんに頭痛薬をもらい、帰り道にスポーツドリンクで胃に流し込んだ。この世の中に僕が生まれた意味、少なくともクリスマスも盆も正月も関係ない。あの少年にしたら背伸びしてロマンテイクを講じたつもりもあるかも知れないが、「すこしマセた子だなあ」頭ポリポリ、電車の窓ガラスには街の夜景よりも僕の輪郭がはっきりとして見えてきた。しばらくして、何が何だか、自分の過失をフフ、と面白がってしまっていた。



 エントランスに入ると幸助がジェスチャーで「今はまだ駄目」と目配せてきた。館内の中央には吹き抜けを抜けて大きな紙包みのオブジェクション、配送業者が設置を終え、僕ら三人の横をすり抜け、大きな営業用の挨拶を響かせ去っていった。

 その紙包みのオブジェの前に一人、腕を組んだ女性が首をひねって目前の塊を眺めている。天窓から光が差し、その紙の造形物と彼女を館内で一際浮きだたせていた。彼女は、うんうん頷き、僕らの方に寄ってきて尋ねた。
「失礼、いま何時?」
ああ、うん、腕時計を見て
「午後三時を回ったところです」
「何だ?」「何なの?」僕も一緒で
彼女は天窓とオブジェを交互に眺め、僕ら三人を手招きした。
幸助は「僕のお姉ちゃん。絵を描くんだよ。」
「違うよ。幸助。絵を描くんじゃなくて直すの。元の形に戻していくんだよ」
彼女は何重にも巻かれた紙包みをビリビリ丁寧に剥がし始めた。手持無沙汰で僕たちも手伝うと五分後にはイーゼルに掛かった大きな板の絵画が現れた。そこに大きな魚の絵、直感で「魚」そう思ったのだが、幾世紀も生き延びてきたような風格のある、大きな抽象的な「魚」。彼女は息をスッと留め、館内のパイプ椅子を一台持ってきて絵の前に置き、腰かけた。
高い窓から陽光が暗い洋館にスポットライトを作り、僕は思わず息を飲んだ。大きな絵の前に凛然と立ち向かう彼女は色白で髪が栗色、目は少しアッシュが入り、身体の線は細く、ワンピースの長い裾が少し床に触れていた。しばし離れて眺めていると、知らない異国の知らない美術館にいるような錯覚にとらわれた。

 この時、僕は彼女が何者であるか、後に知る僕とは対称的な存在であることを、知らず、幸助が僕のシャツの袖を引っ張るまで、「不完全な音楽渦の荘厳な一刹那の美術作品」に心を奪われたままだった。




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