第5話

文字数 3,700文字

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 翌日の朝、日の出と共に目を覚ました妙心は、台所から響く、まな板の音を聞いた。
 洗顔のため風呂場に行くと、昨夜深雪が湯を使った形跡がないことに気がついた。
 長旅の身支度を整え居間に行くと、御膳に、生卵を落とした粥と葱が刻まれた味噌が用意されていた。その横にほつれた風呂敷に包まれたものが添えてある。
 台所から深雪が出てきた。深雪もまた旅立ちの姿を整えている。だが、昨晩よりは幾分血色は良いが、深い病に侵されているような陰りはとれていない。
 妙心は粥をかき込みながら、思わず声をかけた。
「深雪さん、ここにいるのに遠慮はいらない。それと、あなたを女人として見ていれば、ここに招じ入れることはなかった。心配せずに湯を使うがよい」
「妙心様、ありがとうございます。昨晩は故郷の実家で休んだように、ぐっすりと眠れました。事情があってお湯は使えませんが、心はすっかり洗われました」
「事情が……」
 妙心は、目を伏せたまま粥をすする深雪をしばし見つめ、それ以上は訊かなかった。
「あ、これをお忘れなく。梅干を勝手に使わせていただきました」
 深雪が、立ち上がった妙心におにぎりの包みを差し出した。
「これはありがとう。本堂の裏に古い梅の木がある。出ていく前に見ていくがよい。蕾が冬を越し、春に花を咲かせ、今は梅の実がしっかりと育っている。梅の木は折れるほどに逞しくなるという。私たちもそうありたいものだ……」
 妙心は暗に、早まったことをするなと言い残し、寺を後にした。

 妙心は、波立つ心を鎮めようと、ひたすら歩いた。
 突然舞い込んだ出来事の衝撃は大きかった。「私たちを救おうとしている方だ!」と叫んだ深雪の言葉が重く蘇る。妙芯は初めて、己の修行の未熟さを知った。
 わらじも尽き、足裏に血が滲んできた。
 夜露を凌ぐ一夜のお堂。この月明かりの下で、深雪はどうしているだろうか……。

 三日後の夜、寺に着いた。妙心は目を疑った。居間の雨戸の隙間から微かな灯りが漏れている。すべての痛みが消え、安堵の笑みが漏れた。
「深雪さん、だいじょうぶか!」
 居間に倒れ込んでいる深雪を見て、妙心は駆け寄った。
 肩に手を触れるとびくりと反応し、深雪が静かに振り返った。
 妙心は息を呑んだ。黒髪が額に張りつき、土色の顔は熱を帯びたようにむくんでいる。
 深雪は妙心の目を見ると、肩の手を静かに離し、襟を正した。明らかに何かに怯えている。
「どうしたのだ? 何か私に隠していることがあるのか」
 妙心は、優しく語りかけた。
 深雪は観念したかのように、目を伏せたまま着物を肩から外した。
「な、何をする――」
 妙心は、初めて見る女の雪のような肌に狼狽した。
 深雪は悲しそうな横顔を見せながら、ゆっくりと背中を向けた。
「なんということを――」
 あまりの驚きに妙心は、そのあとの言葉を失った。
 身の毛もよだつような深雪の背中が妙心の眼前に迫る。この世にこれほど惨いものがあるのか。修行で描く地獄絵図をはるかに超えていた。
 妙心はすぐにお湯を沸かし、深雪を布団の上にうつ伏せに寝かせた。
 石榴のような皮膚の爛れは、肩から腰の辺りまで広がり、忌まわしい別な生き物のように息づいている。
「私の背中はどうなっているのでしょうか……。誤って火傷をしてからひと月が過ぎました。今は痛みを通り越し、背中に棲みついた魔物が私を貪る悪夢に、夜も眠れないのです」
 深雪が、今にも光を失いそうな目で、妙心を振り向いた。
「心配するな。御仏の光が必ず治してくれる。一つ約束をしてくれ。絶対に目を開けてはならない。ただ、安らかに眠ることだ」
 深雪は一つうなずくと、静かに目を閉じた。誤った火傷などではなく、誰かの憎悪が成した仕業であることは明らかだった。
 妙心は、爛れの襞で蠢くものを、一つ一つ取り払った。そっと唇を這わせ、背中を覆う深雪の闘いの残骸を口に含む。それを傍らの桶に垂らす。夜もふけ、すべてが終わったときは、深雪の顔から苦悶の色が消え、小さな寝息を立てていた。
 翌日の朝妙心は、鏡をすべて納戸の奥に仕舞い込み、托鉢に出かけていった。
 夜は、粥に精のつく山菜を添え、食べ終えるとまた治療に入る。
 静かに晒を剥ぐと、深雪が闘った証が、再び湧き出すように背中を覆っていた。治療を始めると深雪は、安らかな眠りについた。
 効果が現れてきたのは、先代が残してくれた梅酒を飲ませてからだった。梅の精が乗り移ったように、闘いの荒野に血の色が戻ってきた。
「妙心さま、何とお礼を言ったらよいのか、体が楽になりました。あの時、まだ生きる道があるのだろうかと、梅の木を見に行きました。折れながらも成長したという枝々が、逞しく伸びておりました。よく見ると、青葉に隠れるように、梅の実が色づいております。その時、もう一度、故郷の土と生きてみたいと思ったのです」
 深雪が、寺に来て初めて、苦しさのとれた笑顔を見せた。だがその目の奥にあるものは、希望とは程遠い愁いだった。
「良かったな。峠を越える体力が戻るのも、もう少しだ」
「妙心様にご迷惑をおかけしないよう、できるだけ早く――」
「余計な心配はしなくていい。治すことだけを考えるのだ」
 美幸は偶然、本堂の書棚で、本山寺から妙芯宛ての阿闍梨修行の推薦書簡を見ていた。
「お金を盗られなければ、お礼の一つもできたのですが……」
 深雪の笑顔が、悔しさに歪んだ。
「そんなことはいい。やっと自由の身になれたんだ。あとは故郷に帰ることだけを考えるがいい」
 妙心は言ってしまってから、今の世は、自由の身もまた、どれほど惨たらしいものなのかを噛み締めていた。
 その日は、深雪が初めて夕餉を作ってくれた。妙心は温かい味噌汁をすすりながら、いつかは消える儚い幸せに浸った。 
 そのころから妙心は、眠れない夜が続くようになった。おぼろげながら原因はわかっていた。阿闍梨への道は、現世に纏わるすべてを捨ててかからなければならない。だが目の前の、一人の人間を救うことに、仏性としての価値はないのか。いやそれ自体が、迷いなのかもしれない。灯明の見えない、修行の本質を問うものだった。妙心は、ただひたすら、座禅に没頭した。

 その日は、クマゼミが異様に鳴き騒いでいた。
 妙心は、托鉢に出かける門の前で、ふと振り返った。袂を押さえ、手を振る深雪の姿があった。

 火傷の軟膏と薬草を手に入れ、夜道を寺に向かっている時だった。
 顔を隠しながら、転がるように去っていく小柄な男とすれ違った。どこかで見た身なりだった。胸騒ぎが襲ってきた。
 果たして寺に着くと、炎が火の粉を噴き上げ、火の手は本堂を覆い尽くそうとしていた。妙心は池の水を全身にかぶり、寺に駆け込んだ。
 炎に揺れる如来が目に飛び込んできた。その下でうずくまる深雪を抱きかかえる。深雪が薄っすらと目を開けた。炎は咆哮を上げ、畳を生き物のように迫ってくる。
「深雪、起き上がるのだ!」
「私はもう動けません。妙心様、私にかまわず早くお逃げください」
 火はいよいよ二人にまとわりついてくる。
 美しかった深雪の顔が、徐々に崩れ始めた。
「深雪、辛かったろう。私もおまえと一緒に御仏の元に行こう」
「私のような者にそこまで――、でもいけません。妙心様には修行の道があります。一つだけお願いがあります」
「何だ、申してみよ」
「最後にせめて、私の唇を吸っていただきとうございます」
「なんと……」
 妙心は、深雪の、梅の蕾のような口に唇を重ねた。熱い吐息が漏れた。妙心は生まれて初めて、生身の人間とつながる喜びを覚えた。
 迷い苦しみ抜いてきたものが嘘のように消えていく。これが浄土なのか――それとも……。
 深雪が静かに唇を離した。潤んだ瞳が別れを告げようとしている。
 妙心は目に笑みを湛え顔を横に振った。死にゆく者に寄り添うことを外道というなら、それでもいい。
 妙心が、再び唇を重ねようとした時だった。
 深雪が、ゆらりと立ち上がった。

「愚かな僧よ、血迷ったか!」

 深雪とは思えぬ声が、妙心の全身を貫いた。
 目に闇を湛え、顔は能面のように固まっている。
 ぞろりと着物を引きずるその姿に、思わず妙心は後退さった。
 焔を纏った深雪が、一歩、また一歩と追い詰めてくる。
 気圧された妙心が、本堂の外に後ろ足を踏み出した直後だった。
 眼前に、真っ赤に焼けた梁が落ちてきた。
 深雪は炎の中で、龍のように悶え、やがて黒い影となり、消えていった。

 翌年の二月妙心は、阿闍梨修行のため本山寺へと旅立つ朝、寺を訪れた。
 雪に埋もれた焼け跡の向こうから、信じられない光景が目に飛び込んできた。雪を抱いた梅の木が、満開に花を咲かせている。
 囲炉裏を挟んで、深雪と粥をすすった日々が懐かしく蘇る。
「私と一緒に峠を越えよう。そして、いつか共に故郷の海を眺めよう」
 妙心は、焼け跡の土と、微笑みかけるような薄紅色の花を、そっと懐紙に包んだ。
 
 それから元号が二度変わった。
 生涯、聖(ひじり)として国土を渡り、長岡で土となった僧の話しが伝わる。その名を妙芯という。

                 (了)
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