第1話

文字数 16,890文字

 1

 色づき始めた越後の山に、黒い雲が降りてきた時だった。
「姉ちゃん、よーいでねー、爺っちゃが首ことくくろうとしてる」
 先ほどまで祖父と一緒に畑の小径を歩いていた弟の竹男が、恐怖で引きつった顔ですがりついてきた。
美幸は畑の隅に佇む納屋に目を走らせた。
「爺っちゃはあっこか?」
「そ、そぉーだよ」
 美幸は持っていた洗濯物を放り捨て、一目散に走った。騒ぎを聞きつけた父の宗吉も足を引きずりながら後を追ってくる。
 美幸は糞尿にまみれた祖父の細い腰を抱え上げた。父が祖父の首に食い込んだ麻縄を鎌で切り落とす。祖父と美幸は土間に崩れ落ち、そのショックで祖父は息を吹き返した。
「爺ちゃん、なーしてこんげなこと――」
 美幸は涙と涎で光る祖父の赤紫色にむくんだ顔を袖口で拭った。
 なぜか、呆然と立ち尽くす父は何も言わなかった。
「爺っちゃ、おらことおいて先に逝く気か。そんなことならいっこおらこと殺してから逝ってくれ」
 祖母が、死んだ魚のような目で天井を見つめる祖父にすがりつく。
 美幸は、父がこの前の夕餉の時、「食い扶持が減らねー限り、いっくら稼いでも間にあわねー」と、冗談とも本音ともつかない言い方で溜息をついたことを思い出した。
 それ以来祖父は食も細くなり、ものを言わぬ古びた家具のようになった。家族が崖っぷちに来ていることが、美幸にもわかった。
 美幸には、二人の妹と歳が離れた弟がおり、鳥の餌のような糧で八人の家族が生きていくのが困難だということは、誰の目にも明らかだった。
 美幸は、父が村長から借金をしていることも知っていた。十も離れた弟は難産で、相当費用もかかったようだ。
 原爆投下候補地とされたがゆえに空襲を免れた新潟市とは逆に、長岡市は焼け野原と化した。県を上げて産業復興に取り組むも、基幹産業である化学・機械工業の被害は甚大だった。 
 長岡市に近いこの海の見える寒村も、戦後四年が経っても夜明けにはまだ程遠い状態だった。戦前からこの地で農業を営んできた中条家は、段々畑と、わずかな水田で生計を立ててきた。
 足に障害を持つ父は徴兵検査で不合格となり、当時赤紙と言われた召集令状は届かなかったらしい。けれども家族が戦地の土となった村人たちの中にはそれを妬む者もおり、家族は肩身の狭い生活を強いられていた。 
 子供たちの成長は早く、それに反比例するように食糧は困窮していった。今年中学を卒業した美幸は、家族を助けたい一心で土と闘った。けれども、汗と土にまみれているうちに、いつしか大地と一緒に生きる喜びを覚えた。光を失いかけていた家族を、美幸がお天道様となって、茅葺き屋根の内側から照らしていた。
 美幸は野良仕事のあと、丘の切り株に掛け、遠く夕焼けの海を眺めた。時々、長岡の高校の夢が脳裏に浮かんでくるが、土で黒ずんだ爪を夕日にかざしながら、あの茜色の向こうにある世界なのだと、あきらめるのだった。

 2
  
 越後山脈の頂が白く染まり、里にも雪が降り始めた冷え込む夜のことだった。
 宗吉と妻の芳子は皆が寝静まったのを見計らい、火の消えた囲炉裏で額を寄せた。かねがね村長から提案があった、美幸を芸者に出す決断を迫られていた。
 町は失業者で溢れかえり、道端の草も食糧となる世の中で、それ以外の選択肢があるはずもなかった。
「村長からの美幸こと芸者に出す話し、よろっと返事ことしなくてはならねーな」
 宗吉が、微かに残る灰の温もりに手をかざしながら口を開いた。
「腹こと痛めた娘こと、酌婦にしゅーぐらいなら、何のためにここまで育ててきたのか……」
 ぼたぼたと落ちる芳子の涙が、囲炉裏の灰に滲み込んでいく。
「俺がこのざまらすけ、申し訳ねー。かんべーくれ」
 宗吉が妻の肩を抱き、声を震わせた。
 年が明けて間もなく、村長が、雪が降りしきる戸口に現われた。
 村長は家に寄るのをはばかり、声を押し殺して宗吉に言った。
「やっとさ湯沢で芸者の口が見つかった。ここからもそう遠くはねー。東京ででぇーく(大工)どんことしているおじの知り合いの女衒(ぜげん)が、美幸ちゃんこと見ていったそうら。女郎屋なら話は腐るほどあっただども、そいではおめさんたちも不憫ら。しっかりとした置屋だそうだ」
 宗吉の膝が、がくりと折れた。女衒と聞いて、ついに我が娘を手にかけてしまったような現実を突きつけられた。目の前の雪がじわじわと黒く染まっていくのを覚えた。
 戦後、女衒は消滅したとされていたがそれは表向きのことで、東北や九州の寒村では女衒が暗躍していた。口減らしのため、若い娘たちが、芸者置屋や江戸時代とさほど変わらぬ女郎部屋に売られていった。

 茅葺きの屋根から雪がずれ落ち、越後の山襞に黒く地肌が現われ始めた。
 宗吉と芳子は美幸にこの話ができないまま、約束の日が迫ってきた。皆が寝静まった囲炉裏の縁で芳子が切り出した。
「おめさん、美幸にも心の準備ってがんがあるこてさ。正直に話そね――」
「そうだな。話すしかねぇーな」
 宗吉が、ひび割れた陶器のような目で囲炉裏の灰を見つめた。
 障子から光が漏れ、傷だらけの炉縁がぼんやりと浮かび上がってきた時、宗吉は、起き出してきた美幸に声をかけた。
「美幸、ちーとばかし話がある――」
 美幸が怪訝な表情で、囲炉端に座った。
 宗吉がカタカタ音を立てそうになる奥歯を噛み締め、切り出した。
「急な話らろも、湯沢温泉でいい働き口が見つかったようら。このがんからは米の飯こと腹いっぺこと食って、いとしげな服の一つもこいるさ」
「え、温泉場の仕事――それ母ちゃんも知ってたことなの?」
 美幸は目を丸くして、となりの芳子の顔を覗き込んだ。
「あ、あぁ、村長さんが、おめの働き口心配してくれたった。きんなの晩、急に連絡が入っての……。長岡の工場ならほんね良かったろも、このご時世だすけ……」
 芳子が、たまらずといった表情で、美幸から目を逸らした。
 美幸は無言のまま、目を瞬かせながら何かを見定めようとしている。
 宗吉が立ち込めたもやを吹き払うように、口を開いた。
「明後日のあさげ、案内人が迎えに来るこてさ。今日一日で準備ことして、明日はおめの好きなことすればいい――」
 宗吉も芳子も、遂に芸者置屋の話は切り出せなかった。

 3

 早々、着替えや下着、それに洗面道具を一つにまとめた美幸は、母と一緒に畑に出た。雪を掘り、黒土を現して、鍬入れの準備を進めた。頬被りをした母は、しきりに顔の汗を拭っていたが、それが涙だということが、美幸にはわかった。母と耕した、最後の土だった。
 その日の夕食は、おひつから真っ白なご飯が湯気を上げていた。ヘラを握る母の手が、なぜか震えているように見える。
「さぁ、んーな腹がへったろね。美幸が湯沢に働きに出ることになった。今日はそのお祝いら。しーれまんまこと、腹いっぺこと食べてくれ」
 宗吉が、ご飯が行きわたると、裏返ったような声を上げた。
 祖母が、正月しか食べたことのない身欠きニシンを美幸によこし、目尻の皺を一層深くした。
「美幸、みんなから可愛がられるようになるんだよ」
 祖母は、浜の温泉旅館で仲居の経験があるらしかった。 
 なぜか、食事の時いつも優しい目で美幸を見る祖父が、テーブルに目を落としたまま、寡黙に箸を動かしていた。
 美幸は、わき目も振らずに真っ白なご飯をかき込む弟や妹を見守りながら、静かに箸を進めた。
 妹たちと肩を寄せ合うように包まる布団の中で美幸は、食い扶持を減らすことができる安堵とともに、何か得体の知れない不安が入り混じり、よく眠れなかった。
 翌日、妹や弟に最後の勉強を教え、お手玉などをして遊んだ。
 早めの夕食が終わると、美幸は可愛がってくれた祖父の粗末な部屋に出向いた。あれ以来、老人の臭いが増したように感じるが、懐かしい干草の匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。
「爺っちゃん! 肩揉んでくいるこてさ。あとはちっとばかできんかもしれんからね」
 美幸は、骨と皮だけになった祖父の肩を、優しくさすった。
「爺っちゃん、泣いてるのか?」
 祖父は何も語らず、ただ細い体を絞り上げるように、嗚咽を漏らしていた。         
       
 朝食が終わり、美幸が居間の障子を開けた時だった。
 玄関の引き戸が、息苦しい音を立てながら開いた。明るい羅紗(ラシャ)の背広姿の男が玄関に立った。
 美幸はハッとして男の顔を見た。歳が読み取れないその色白で端正な顔立ちは、どこか別の世界からやってきた使者のように思えた。
 男は、園田梅安(そのだばいあん)と名乗った。妹たちと弟も廊下に出てきて、男を興味深そうに見上げている。奥では、祖父と祖母が、恐いものを見るような目で、その男の全身を眺めていた。
 父が、男に卑屈な挨拶をすると、足を引きずりながら、外に出ていった。ほどなくして戻った父は、着物の懐を大切そうに押さえ、誰の顔も見ないで奥に引っ込んでいった。
「なんもねーてが、お茶ぐらいは出しゅーっけさ、どうぞ中にお入りくんなせや」
 母が土間の暗がりに目を落としたまま、梅安にお茶を勧めた。
 梅安は、すり減って黒光りのする上り框に腰をおろすと、タバコに火をつけた。
「こんな美しい娘さんを手放すのは、ご両親もさぞ辛いでしょうが、この田舎に一生埋もれさせるのはなお惜しい」
 梅安の吐き出す紫煙が、不思議な甘い香りを運んできた。
 美幸はこの時、やはり自分は祖母が考えているような世界に行くのではないと悟った。
「さあ、そろそろ出かけましょうか」
 梅安が、鈍い光を放つ革靴の底で、タバコをもみ消した。
「姉ちゃん、やっぱ行っちゃやらだ! このおじさんやらいだ」
 急に竹男が、顔を真っ赤にして美幸の腰に抱きついてきた。
「また帰ってくっから、みんなの言うことを聞いて、待ってるんだよ」
 美幸は涙を堪え、弟の頭を撫でた。梅安はその様子を、紙芝居でも見るような目で、眺めていた。
「さあ、竹男、離しなさい! そいでは美幸が困るらろう」
 父が竹男をもぎ取るように引き離す。それを母が抱き締める。
「お父ちゃんもお母ちゃんも、体に気ことつけてな」
 先に歩き出した梅安を追いかけながら、最後に後ろを振り返った。
 ただ呆然と立ち尽くす家族のかたまりが、古い写真のように歪んで見えた。
 子供らが追いかけてくる残像を振り払い、美幸は雪解け道を駆けた。
 村を抜け、大きな通りに出ると梅安が口を開いた。
「長岡まで歩いて、そこから上州に抜ける列車に乗る。夕方までには越後湯沢に着く。そこから山沿いの温泉場が見える。そこがあんたの働く場所だ。私はそのまま東京に戻る」
 梅安の顔が家に来た時とは打って変わり、愛想のない都会の人間の顔になっていた。
 一度、母に付いてきたことのある長岡駅は、列車に乗り込む人と、吐き出される人々でごった返していた。募金箱を首から提げた痛々しい傷痍軍人たちも、そこここに立っている。
 梅安は慣れた動きで、上りの列車に乗り込むと、二人の席を確保した。
 ゴトンという重い衝撃とともに列車が動き出した。前の席の老夫婦が、目を丸くして二人を見ていたが、やがて重なるようにして眠りに落ちた。
 しばらく雪が残る風景を眺めていた梅安が、美幸の横顔に視線を移した。
「美幸さんといったな。最初から言っておいたほうがいいだろ。あんたは何も聞かされていないと思うが、これから行くところは、あんたの家族の誰もが踏み入ったことのない世界だ。あんたが身を売ったのは温泉場の芸者置屋だ。だが、一度死んで、生まれ変わったと思ってやればどうってことはない」
 梅安は、再び車窓に視線を移した。
「……迎えに来たあなたの姿を見て、当たり前の仕事でないことは想像しておりました」
 美幸の語尾が震えた。すでに覚悟は決めていたとはいえ、芸者置屋というまるで別世界の言葉に、動揺を隠し切ることはできなかった。
 梅安は、そんな美幸の心中を見透かすかのように、薄い笑みを向けた。
「それは心外だな。私の人相はそんなに酷いのかい?」
「人相ではありません。あなたの体からにじみ出ているものは、お天道様に当たってできたものではありません」
「なかなか上手いことを言うじゃないか。その勘があればどこでも生きていかれる。私は世間では女衒と言われ憎まれているが、社会の裏では立派に役立っているつもりだ」
「人買いが社会に役立ってるなんて――」
 美幸は梅安の横顔を睨んだ。
 梅安は前の席で眠りこける老人を見ながら、静かに言った。
「あんたが身を売ったおかげで、誰も首を吊ることもなく、お父さんは立派な耕運機が買えるはずだ。弟や妹たちも学校に行ける」
「……」
 美幸は言葉が出なかった。父が足を引きずりながら、先が丸くなった鍬で、畑を耕してきた日々を思い出した。梅安が続けた。
「私も私の妹も東京吉原の女郎屋で生まれた。父親は誰だかわからない。妹は私の目の前で酒臭い男たちに犯され続けた。私は妹といつか抜け出そうと、必死に生きた。けれども、梅毒をうつされた妹は化け物のような姿になって死んでいった。守るものが無くなった私は、この世界で浮かび上がろうと決心した……」
 梅安は再び、山深く入り始めた風景をじっと見ていた。
 美幸も、雪に覆われた荒涼とした山肌を見つめながら、この先に待っている世界を想像し、徐々にこれまで生きてきた記憶を消し去ろうとした。
 山の麓に温泉場が見え始めた時、梅安が美幸の目をじっと見た。
「お天道様が当たらない世界でも、ある時一条の光が差すことがある。迷わずその光を辿ることだ。仏になろうとすると地獄に堕ちる。私たちが棲む世界は、そういうところだ――」
 美幸はこの時初めて、梅安の目の奥にぞっとするような優しさが過ぎるのを見た。なぜ梅安は、自分に妹の話などをしたのだろう……。
 列車は湯沢駅に着いた。梅安は無言で、美幸の荷物を持ち、温泉街へと登っていく。美幸は、町行く人々の視線が自分を哀れんでいるようで、胸が締めつけられる思いをした。
 温泉街から裏道に入り、背後に山が迫るところに、『岸本』と黒く彫られた古めかしい看板が見えてきた。
「さぁどうぞお上がりください。お二人ともお疲れでしょう」
 落ち着いた着物姿の美しい女将が、二人を玄関で丁寧に出迎えてくれた。
「お前さんの目を信じた甲斐があったわ」
 梅安はこの地では顔を知られているようだ。女将は二人を交互に見ながら、広い三和土から磨き込まれた上り框に招じ入れた。
 まるで別世界のような置屋の敷居をまたいだ時、美幸は想像もしていなかった明るい出迎えに、改めてこの世界の奥深さを知った。         
 自分の値踏みであろう、奥の部屋から漏れ聞こえてくる話し声に、もう後戻りできないところに来たことを、美幸は悟った。
 梅安は帰り際、美幸の目を見て、「お姐さんたちに可愛がってもらうんだよ」と言い残した。昨晩、祖母から言われたことと言葉は同じでも、梅安の目には、はるか違う世界が映っていた。
 置屋の中は、どこか旅館のようで、何かが違った。かすかに漂う白粉の匂い、艶やかに彩られた部屋の数々、襖絵から障子の透かし絵まで、別な世界に棲む女の館だった。稽古場に整然と置かれた三味線や太鼓の小道具に、なぜか美幸はわずかな安堵を覚えた。
「今日はあんたの家族の仲間入りの歓迎会がある。それまでに恥をかかないよう、最低限度のことは話しておこう」
 女将は、長火鉢を前に座り直すと、美幸を真正面から見た。意外だった。その眼差しには、厳しさの中にも、自分の娘を見るような優しさが滲んでいた。
「私は長岡で半玉時代を送り、この地で三十年芸者として身を立ててきた。これからは美幸と呼び捨てにするが、それは私があんたの新しい母になるからだ。これからは私をお母さんと呼んでおくれ。この置屋には源氏名を持つ五人の芸者と一人の半玉がいる。半玉というのは芸者になる修行中の者だ。同郷の小鶴が、お前の面倒を見る姉になる。小鶴お姐さんと呼ぶのだ」
 宴会の準備が始まった。料理は女将とお姐さんたちが作る。半玉の小雪と、魚の煮付けや煮物の小鉢を入れた平箱を持ち、黒光りのする階段を何回も往復した。
 お膳がそろった頃、掛軸が三幅も下がる大きな床の間を背に、品のいい初老の男が座っていた。宴会が始まり、女将が、旅館組合の会長の扇屋富太郎だと紹介した。引き続き美幸が紹介された。
「長岡からきた美幸だ。新しい妹だと思って面倒を見ておくれ」
 宴会が盛り上がり、小鶴姐さんが美幸の前で膝を崩した。
「私も長岡。親には捨てられたと恨んでも、やっぱり思い出しちゃうね。辛い時は、実の姉だと思って何でも話しな。私もあと三年で年季が明ける。そしたら本当の鶴になって、羽ばたけるかもね……」
 美幸は、何と返したらいいかわからず、ただ慣れない手つきで、静かに揺れる朱の盃に酒を注いだ。小鶴の襟元からは、女から見ても妖艶な色香が漂っていた。
 ふと、上座で女将と寄り添う富太郎の、小鶴の後姿を舐めるような視線に気がついた。美幸は、もうここがすでに、身を売った世界の始まりなのだと悟った。
 次の日から、想像を絶する修行が始まった。朝は四時に起きて掃除から始まり、八人分の朝食を作る。美幸や芸者たちが寝泊りする長屋は置屋の建物の裏手にあり、その廊下と厠を磨くのは新参者の仕事だ。
 小雪と一緒に行なう置屋の掃除は、広い宴会場や奥まった座敷の隅々まで、毎日、小ネズミみたいに動き回った。
 やっと教本を開き舞の勉強ができるのは、お姐さんたちにお座敷の声がかかり、誰もいなくなった夜の稽古場だった。
 置屋に男はいない。どこからか通ってくる箱屋と呼ばれる男たちが、お姐さんたちの三味線の箱を、まるで影武者のようになり運んでいた。
 一年の仕込み期間を経て、美幸は半玉として本格的な芸者修行に入った。半玉は京都花街では舞妓と呼ばれ、客あしらいの修行のためお酌もするが、文字どおり舞を本分の芸とする。
「体のこなしはよくなった。ただ、舞が影を引く」
 小鶴の言葉は厳しかったが、目は優しかった。舞は無の心だと教えられるが、理屈ではわかっても天女のように舞うのは難しかった。
 それから半年が経ったころ、女将に呼び止められた。
「今度から姐さんに付いてお座敷に出てもらう。男の扱いを覚え、顔も売らなければならない。舞も稽古場とは違って、お客の視線に緊張が走る。それも修行のうちだ。源氏名だが、お前の本名の響きが一番しっくりくる。深い雪と書いて深雪だ。但し、呼び名は同じでも今までの美幸とは世界が違うことを肝に銘じるのだ。苦しみを見せない明と暗の世界。花柳とはそういうことだ」 

 温泉場のお祭りで、深雪一人が奥の部屋で舞踊の稽古をしていた時だった。
 ふいに、富太郎が入ってきた。
「深雪、踊りは上達したかい。ちょっと見てあげるよ」
「ありがとうございます」
 舞の出来は人から言われなければわからない。深雪は喜んで応じた。
 突然襖が閉まり、視界を失った。富太郎が、酒臭い息を吐きながら襲いかかってきた。あっという間に暗闇の底に組み伏せられた。声を出そうにも、咽が引きつり言葉が出ない。年寄りの薄い唇が、振り切ろうとする顔を這い回る。必死の抵抗も尽きようとした時だった。
 急に畳に光りが差し、女将が立っていた。すでに富太郎の姿はない。
 呆然と立ち尽くす深雪の頬に、女将の平手打ちが舞った。夜叉のような女将の形相に、口内が抉れていく痛みを忘れた。
「お前の体はお前のものではない。この置屋とお前の家族の命がかかっている。二度と男に隙を見せてはならない」
 血を拭ってくれる女将の目に、初めて見る涙が光っていた。
「お母さん、ごめんなさい。これからは気をつけます」
 深雪は、悔しさで最後の言葉が震えた。女将が続けた。
「この機会だから言っておく。芸者は金を積めば寝ると勘違いしている者もいるが、とんでもない誤解だ。体を売る芸者は娼妓といって、この温泉場にも何軒かの女郎屋がある。私らは芸に命をかけるが、娼妓は女の最後のものに命をかける。だが娼妓を侮ってはいけない。その修羅場は今お前が経験して少しはわかったろう。男の極楽は女の地獄の上にある。遊女はこの世の菩薩だ。お座敷でかち合ったときは、一歩引くことだ」
「お母さん、わかりました。岸本の名に恥じないよう頑張ります」
 深雪は、いよいよ苦界への一歩を踏み出す覚悟を噛み締めた。

 二十歳を迎え、深雪も芸者として独り立ちする時期が来た。
「深雪、折り入って話がある。ここへ――」
 女将がいつになく神妙な顔で深雪を見た。
「お前の旦那になりたいという人が現われた。早い話が水揚げのことだ。相手は、あの新潟出身の政治家だ。お前に一目惚れしたらしい。悪い話ではないが、お前も東京新橋の置屋に籍を移さねばならない……」
 剛健なその政治家は、深雪にも記憶があった。一瞬目の前を、光り輝くような未来がよぎった。だが深雪は今、まったく別な身の振り方で迷っていた。
「実はお母さん、私には迷っていることがあります……」
「なんだい、言ってごらん」
「大門清造さんが、お座敷の席で、群馬に来ないかと」
「そうかい、あの方がお前を身請けしたいと……」
 深雪は、かすかに揺れた女将の目を見ながら静かにうなずいた。
 清造は群馬県北部では有数の土建会社を一代で築き上げた。その政治力で長期に渡る清水トンネル工事を請け負い、打ち合わせでよくこの湯沢温泉に来ていた。
 深雪の身の上を知る清造は、小奇麗な一軒家の周りで、菜園でもやりながらのんびり暮らせばいいと、心の琴線に触れる言葉で深雪を口説いた。
「花柳の世界でその本分を全うするか、娑婆という名の籠の中の鳥になるか、どちらを選ぶかはお前の判断だ」
 女将は、深雪の目の奥を確かめるように言った。
 深雪は、女将の言いたいことが痛いほどわかった。けれども、土を耕しながら生きる、故郷の匂いを断ち切ることはできなかった。
 
 4

 清造は、新築とまではいかないまでも、所有する貸家の一つを修繕し、畑に囲まれた一軒家を深雪に与える約束は守った。
 深雪は、土に鍬を入れ、種を撒き、収穫を見守る生活に、例えそれが幻の大地だとしても、束の間の安堵と幸せに浸った。
 清造には、下積みの現場で一緒につるはしを振るったという妻がいた。妾を囲ったことを知った妻は、毎日のように清造を罵るらしく、清造は仕事が終わると逃げるように、深雪の住まいに転がり込んできた。
「深雪、鯛の活きのいいのが入っていた。一緒に食おう」
 清造は、深雪に逢いに来る時は、高価で珍しい食べ物を手土産に、機嫌をとるのだった。
 今日は、町に一軒しかない寿司屋から特上握り二人前を買ってきたと、ほろ酔い機嫌で居間に上がり込んできた。
「このような贅沢なものを……もったいない。すぐお茶を出しますので」
 清楚な着物を纏い、黒髪を後ろでまとめた深雪に、清造は舐めるような視線を這わせている。深雪は裾を正し、お茶を注いだ。
 深雪が遠慮がちに、二つめの寿司に手を出そうとした時だった。自分の分を一挙に平らげた清造が、荒々しく深雪を抱きすくめた。
 清造は、日頃の鬱憤を晴らすかのように、深雪を支配した。深雪は心を夜叉にして、ざらついた風が吹き抜けるのを待った。
 だがそれも、長くは続かなかった。糖尿病の持病をかかえる還暦の清造は、毎日のように続く宴席でそれが悪化し、病院でインスリン注射を打ちながらの生活が始まった。
 清造が異常なほどに嫉妬深くなったのはその頃からだった。徐々に短気で粗暴な本性を現し始め、深雪の目の周りや体のあちこちに、青黒い痣が残るようになった。

 遠く三国山脈の頂が白く染まり始め、庭先では、木枯らしが枯れ葉と戯れていた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
 遠くから、ささくれた心を癒すような、透明な読経の声音が聴こえてきた。深雪はそっと、小窓から覗いた。白衣に黒い法衣を重ね、白足袋に草鞋(わらじ)を履いた修行僧が近づいてくる。網代笠の下に端正な顔立ちを覗かせる若い僧は、左手に浄財を入れる黒い鉢を、右手には錫杖を握っている。町外れに佇む家々の玄関先を、托鉢をしながら回ってきたに違いない。
 深雪は、目は隠れて見えないが、修行僧の全身から滲み出す崇高な香気に、一時の安らぎを覚えた。
「おい、あれ、托鉢坊主っていうらしいけど、怪しいもんだっておらんとこの父ちゃんが言ってたぞ」
「そうだ、そうだ、かっこだけつけて、ただの物乞いじゃねぇーか!」
 どこからか集まってきた悪童たちが、玄関先で念仏を唱え始めた修行僧に、悪態をつき始めた。
 当時は誰もが食うや食わずで、駅や神社のお祭りなど、人の集まるところには白装束の傷痍軍人や托鉢僧の姿が目立った。その多くは根拠のある活動や修行だったに違いないが、それらしき格好で小銭やお米をせしめていく輩もいたという。
 悪童のただならぬ気配に、深雪が玄関の戸を開けた時だった。
 バラバラバラッと左手から石が飛んできて僧の全身を打った。その一つが背の高い僧の頬骨に当たり、みるみる血が滲み出した。
 だが、まだ同じような歳に見える僧は、少しも動じることなく、お経を唱え続けている。
「なにをするの! この方は私たちを救おうとしてるんだ」
 深雪は駆け寄り、今にも法衣に染み込もうとする血の滴りを指で拭い、それを口に含んだ。一瞬の出来事だった。
 僧はハッとしたように錫杖を置くと、深雪の手をとり、懐紙で拭った。僧の冷え切った指の芯にある、気高い温もりが残った。
 僧は法衣を通す微かな狼狽を、鈴の音で隠すように、錫杖を一振りすると踵を返した。
「あ、お待ちください。今、少しばかりのお米を――」
 深雪は慌てて家に入ると、お米を入れた茶碗を手に出てきた。それを僧が持つ鉢に入れる。
 笠の中の僧の目が、差し伸べる深雪の袖口に覗く青黒い痣を射抜くのを覚えた。
 慌てて手を戻そうとする瞬間、視線が交差した。無濁な僧の目の奥に、深雪が背負うものを見通すかのような、重い陰影を見た。

 翌年の夏のことだった。
 深雪の住まいの近くでは、ひと月ほど前から農地解放政策に絡む官地の測量が行なわれていた。
 深雪が、台所で洗いものをしていた時だった。玄関から、聞き覚えのある声が響いてきた。
「すみません、トイレを貸してもらえませんか」
 たまに庭先でお茶などを振る舞い、顔見知りになった技師の佐伯だった。農作業の女性たちの目もあり、外で用を足すには気が引けたのだろう。
「どうぞ、入って左の突き当りです」
 手が離せない深雪は、台所から声だけの返事をした。
「色々お世話になりました。今日東京に帰ります」
 用を終えた佐伯が、玄関から深雪に声をかけた。
「ご苦労さまでした。やっとご家族に会えますね。佐伯さんもお元気で」
 たすきを外しながら出てきた深雪が、親しみの笑みを浮かべた。
「あれ! すみません。トイレに財布を忘れてきちゃった」
「あ、私がとってきます。お待ちになって――」
 引き返した深雪が笑みを残しながら、佐伯に財布を手渡そうとした時だった。
 佐伯の肩越しに立つ人影に、目が点になった。かっと目を見開いた清造が、仁王立ちになっている。
 ちょうどその時、佐伯の部下がやってきた。
「係長、列車の時間に間に合いません。お早く!」
 佐伯は不気味に交差する視線の下を潜り抜け、待機していたジープに乗り込んだ。
「旦那様、なにか誤解を――」
「なにが誤解だ! やはり噂は本当だったか――許せん!」
「旦那様、聞いてください。佐伯さんがトイレをと――」
「ええい! 益々煮えくり返るわ。佐伯さんなどと親しく名前まで呼びよって。それにトイレまで使わせる仲だったとは――」
「信じてください。私は旦那様以外の――」
「やかましい! 売女はしょせん売女だったか。そこへ直れ!」
 目を真っ赤にして額に血管を波立たせた清造は、深雪を三和土に引きずり落とすと、土間に押しつけるように座らせた。
 清造は土足で居間に上がり込むと、囲炉裏から湯気が噴出す鉄瓶を持ち出してきた。恐怖に慄く深雪の襟首を引くと、まるで植木に水を差すように、熱湯を流し込んだ。

 深雪は、自分の悲鳴が聞こえないまま、気を失った。         

 不気味なハエの羽音で目が醒めた。異様にむせかえる暑さが、自分の体熱だと気づく。居間に伏せったまま、一週間が経っていた。
 清造がやってきた。恐怖と衰弱のため、深雪は声も出ない。
 清造が、肌にかけていた着物に手をかけた。半分ほど剥いだところで手が止まり、台所へと駆け込んでいった。蛇口の音に重なり、嘔吐の呻きが聞こえてきた。
 深雪が声を絞り上げた。
「旦那様、誤解を招いた私が悪うございました」
「もうどうでもいい。これを持って早く医者に行け。あとは戻ってくることはない」
 清造は、ありったけのお金を深雪の前に放ると、出ていった。
「仏心を起こせば地獄に堕ちる」という女衒の言葉が蘇る。それでもいい。どの道、本当の娑婆にはもどれない。一時でも、土と生きることができただけで、悔いはない。せめて最後に、海の夕焼けが見たい。深雪は、少女のころの、故郷の海を思い出していた。

 三国峠へと続く夜道を歩き出した。朦朧とする意識の中に、地平線を染める血の色の夕日が浮かんできた。その時だった。
 酒臭い息が襟元に絡みつき、いつの間にか三人の男が深雪を取り囲んでいた。
「へへへ、なかなかいい女じゃねぇーか」
 悲鳴を上げる間もなく、大きな手で口をふさがれた深雪は、三人の男に土手の下に引きずり込まれていった。
「おい、おめぇーらしっかり押さえてろ」
 深雪にはすでに、抵抗する力も気力も残っていなかった。ただ、雲間を漂う月を、震える目で見つめていた。
 髭面の大きな男の手が、深雪の背中を這う。
「ん――、何かぬるぬるするぜ、この女。うへぇー! こりゃなんだ、この女、病気持ちだ!」
 髭面は上体を起こすと、手を振り払った。
「病気だろうが何だろうが、俺はもう十年も女を抱いてねぇ。それにこんなべっぴんじゃ、おら死んでもええで」
 小柄な中年男が目をぎらつかせた。
「俺はもういい。おめえら勝手にせぇー」
 髭面が立ち上がった。その時だった。

「どうしたのじゃ?」

 土手の上に背の高い修行僧が立った。網代笠の中で、目が鋭く光っている。
「ちっ、坊主に出てこられちゃ益々縁起が悪い。おい、おめぇーら引き上げるぞ」
 髭面が顎をしゃくった。
 小柄な中年男が、ぶつくさ言いながら深雪の胸元をまさぐると、二人の後を追った。
「酷い目に遭ったのう」
 修行僧が、顔を隠してむせび泣く深雪を抱き起こした。
「あ、あなたは、あの時の――」
 修行僧が、月明かりに浮かんだ深雪の顔を見て目を見張った。
「あの時のお坊さんでしたか。あ、ありがとうございます」
 深雪は恥ずかしさのあまり、僧から目を逸らし、身を固くした。
「ここから家まで、一人では危険だ。私がお送りしよう」
「いいえ、いいのです。私一人で何とかなります」
 深雪は立ち上がり、着物の泥と草の葉を払った。その時、胸元の金銭がなくなったことに気づいた。情けなさと腹立たしさに、はらはらと涙が伝った。
「この時間によほどの事情があったのでしょう。私の寺はこの村はずれにある。よろしければ付いて来なさい。何か温かいものを食べるがいい」
 僧は深雪に澄んだ目を向けた。まだ生きたい、という微かな願いが、美幸の心に残っていた。
 古めかしい、風格のある寺だった。僧は、先代の住職が急逝し、村で唯一の古刹を継いだばかりだと言った。
「さぁ、温かいうちに食べるがよい」
 僧は、居間の囲炉裏を挟んで座る深雪に、生卵を一つ落とした温かい粥と、一つまみの味噌を用意してくれた。
 深雪は、焼き塩だけでさらさらと粥を口に運ぶ僧を盗み見て、初めて人間の情を知った。慈悲のこもる温かい糧を、押さえ切れない涙と一緒に飲み込んだ。
「今日は週に一度の湯を張る日だ。私は先に入って本堂で休むので、あなたもゆっくりと湯に浸かり、この部屋で休むといい。あ、私は妙心という。あなたの名前は?」
「私は、深い雪と書いてみゆきと申します。本名は――」
「それで充分だ。深雪さんか、いい名前だ」
 妙心は深雪の話を遮るように、小さな笑顔を向けた。深雪の立ち居振る舞いから、素性に察しがついたのかもしれない。そして続けた。
「明日は早くに寺を出て、三日間遠くに托鉢修行に出ます。もし寺を出ていく時は、鍵を勝手口の植木鉢の下に置いてください」
 妙心はそう言い残すと、居間を去って行った。

 5

 翌日の朝、日の出と共に目を覚ました妙心は、台所から響く、まな板の音を聞いた。
 洗顔のため風呂場に行くと、昨夜深雪が湯を使った形跡がないことに気がついた。
 長旅の身支度を整え居間に行くと、御膳に、生卵を落とした粥と葱が刻まれた味噌が用意されていた。その横にほつれた風呂敷に包まれたものが添えてある。
 台所から深雪が出てきた。深雪もまた旅立ちの姿を整えている。だが、昨晩よりは幾分血色は良いが、深い病に侵されているような陰りはとれていない。
 妙心は粥をかき込みながら、思わず声をかけた。
「深雪さん、ここにいるのに遠慮はいらない。それと、あなたを女人として見ていれば、ここに招じ入れることはなかった。心配せずに湯を使うがよい」
「妙心様、ありがとうございます。昨晩は故郷の実家で休んだように、ぐっすりと眠れました。事情があってお湯は使えませんが、心はすっかり洗われました」
「事情が……」
 妙心は、目を伏せたまま粥をすする深雪をしばし見つめ、それ以上は訊かなかった。
「あ、これをお忘れなく。梅干を勝手に使わせていただきました」
 深雪が、立ち上がった妙心におにぎりの包みを差し出した。
「これはありがとう。本堂の裏に古い梅の木がある。出ていく前に見ていくがよい。蕾が冬を越し、春に花を咲かせ、今は梅の実がしっかりと育っている。梅の木は折れるほどに逞しくなるという。私たちもそうありたいものだ……」
 妙心は暗に、早まったことをするなと言い残し、寺を後にした。

 妙心は、波立つ心を鎮めようと、ひたすら歩いた。
 突然舞い込んだ出来事の衝撃は大きかった。「私たちを救おうとしている方だ!」と叫んだ深雪の言葉が重く蘇る。妙芯は初めて、己の修行の未熟さを知った。
 わらじも尽き、足裏に血が滲んできた。
 夜露を凌ぐ一夜のお堂。この月明かりの下で、深雪はどうしているだろうか……。

 三日後の夜、寺に着いた。妙心は目を疑った。居間の雨戸の隙間から微かな灯りが漏れている。すべての痛みが消え、安堵の笑みが漏れた。
「深雪さん、だいじょうぶか!」
 居間に倒れ込んでいる深雪を見て、妙心は駆け寄った。
 肩に手を触れるとびくりと反応し、深雪が静かに振り返った。
 妙心は息を呑んだ。黒髪が額に張りつき、土色の顔は熱を帯びたようにむくんでいる。
 深雪は妙心の目を見ると、肩の手を静かに離し、襟を正した。明らかに何かに怯えている。
「どうしたのだ? 何か私に隠していることがあるのか」
 妙心は、優しく語りかけた。
 深雪は観念したかのように、目を伏せたまま着物を肩から外した。
「な、何をする――」
 妙心は、初めて見る女の雪のような肌に狼狽した。
 深雪は悲しそうな横顔を見せながら、ゆっくりと背中を向けた。
「なんということを――」
 あまりの驚きに妙心は、そのあとの言葉を失った。
 身の毛もよだつような深雪の背中が妙心の眼前に迫る。この世にこれほど惨いものがあるのか。修行で描く地獄絵図をはるかに超えていた。
 妙心はすぐにお湯を沸かし、深雪を布団の上にうつ伏せに寝かせた。
 石榴のような皮膚の爛れは、肩から腰の辺りまで広がり、忌まわしい別な生き物のように息づいている。
「私の背中はどうなっているのでしょうか……。誤って火傷をしてからひと月が過ぎました。今は痛みを通り越し、背中に棲みついた魔物が私を貪る悪夢に、夜も眠れないのです」
 深雪が、今にも光を失いそうな目で、妙心を振り向いた。
「心配するな。御仏の光が必ず治してくれる。一つ約束をしてくれ。絶対に目を開けてはならない。ただ、安らかに眠ることだ」
 深雪は一つうなずくと、静かに目を閉じた。誤った火傷などではなく、誰かの憎悪が成した仕業であることは明らかだった。
 妙心は、爛れの襞で蠢くものを、一つ一つ取り払った。そっと唇を這わせ、背中を覆う深雪の闘いの残骸を口に含む。それを傍らの桶に垂らす。夜もふけ、すべてが終わったときは、深雪の顔から苦悶の色が消え、小さな寝息を立てていた。
 翌日の朝妙心は、鏡をすべて納戸の奥に仕舞い込み、托鉢に出かけていった。
 夜は、粥に精のつく山菜を添え、食べ終えるとまた治療に入る。
 静かに晒を剥ぐと、深雪が闘った証が、再び湧き出すように背中を覆っていた。治療を始めると深雪は、安らかな眠りについた。
 効果が現れてきたのは、先代が残してくれた梅酒を飲ませてからだった。梅の精が乗り移ったように、闘いの荒野に血の色が戻ってきた。
「妙心さま、何とお礼を言ったらよいのか、体が楽になりました。あの時、まだ生きる道があるのだろうかと、梅の木を見に行きました。折れながらも成長したという枝々が、逞しく伸びておりました。よく見ると、青葉に隠れるように、梅の実が色づいております。その時、もう一度、故郷の土と生きてみたいと思ったのです」
 深雪が、寺に来て初めて、苦しさのとれた笑顔を見せた。だがその目の奥にあるものは、希望とは程遠い愁いだった。
「良かったな。峠を越える体力が戻るのも、もう少しだ」
「妙心様にご迷惑をおかけしないよう、できるだけ早く――」
「余計な心配はしなくていい。治すことだけを考えるのだ」
 美幸は偶然、本堂の書棚で、本山寺から妙芯宛ての阿闍梨修行の推薦書簡を見ていた。
「お金を盗られなければ、お礼の一つもできたのですが……」
 深雪の笑顔が、悔しさに歪んだ。
「そんなことはいい。やっと自由の身になれたんだ。あとは故郷に帰ることだけを考えるがいい」
 妙心は言ってしまってから、今の世は、自由の身もまた、どれほど惨たらしいものなのかを噛み締めていた。
 その日は、深雪が初めて夕餉を作ってくれた。妙心は温かい味噌汁をすすりながら、いつかは消える儚い幸せに浸った。 
 そのころから妙心は、眠れない夜が続くようになった。おぼろげながら原因はわかっていた。阿闍梨への道は、現世に纏わるすべてを捨ててかからなければならない。だが目の前の、一人の人間を救うことに、仏性としての価値はないのか。いやそれ自体が、迷いなのかもしれない。灯明の見えない、修行の本質を問うものだった。妙心は、ただひたすら、座禅に没頭した。

 その日は、クマゼミが異様に鳴き騒いでいた。
 妙心は、托鉢に出かける門の前で、ふと振り返った。袂を押さえ、手を振る深雪の姿があった。

 火傷の軟膏と薬草を手に入れ、夜道を寺に向かっている時だった。
 顔を隠しながら、転がるように去っていく小柄な男とすれ違った。どこかで見た身なりだった。胸騒ぎが襲ってきた。
 果たして寺に着くと、炎が火の粉を噴き上げ、火の手は本堂を覆い尽くそうとしていた。妙心は池の水を全身にかぶり、寺に駆け込んだ。
 炎に揺れる如来が目に飛び込んできた。その下でうずくまる深雪を抱きかかえる。深雪が薄っすらと目を開けた。炎は咆哮を上げ、畳を生き物のように迫ってくる。
「深雪、起き上がるのだ!」
「私はもう動けません。妙心様、私にかまわず早くお逃げください」
 火はいよいよ二人にまとわりついてくる。
 美しかった深雪の顔が、徐々に崩れ始めた。
「深雪、辛かったろう。私もおまえと一緒に御仏の元に行こう」
「私のような者にそこまで――、でもいけません。妙心様には修行の道があります。一つだけお願いがあります」
「何だ、申してみよ」
「最後にせめて、私の唇を吸っていただきとうございます」
「なんと……」
 妙心は、深雪の、梅の蕾のような口に唇を重ねた。熱い吐息が漏れた。妙心は生まれて初めて、生身の人間とつながる喜びを覚えた。
 迷い苦しみ抜いてきたものが嘘のように消えていく。これが浄土なのか――それとも……。
 深雪が静かに唇を離した。潤んだ瞳が別れを告げようとしている。
 妙心は目に笑みを湛え顔を横に振った。死にゆく者に寄り添うことを外道というなら、それでもいい。
 妙心が、再び唇を重ねようとした時だった。
 深雪が、ゆらりと立ち上がった。

「愚かな僧よ、血迷ったか!」

 深雪とは思えぬ声が、妙心の全身を貫いた。
 目に闇を湛え、顔は能面のように固まっている。
 ぞろりと着物を引きずるその姿に、思わず妙心は後退さった。
 焔を纏った深雪が、一歩、また一歩と追い詰めてくる。
 気圧された妙心が、本堂の外に後ろ足を踏み出した直後だった。
 眼前に、真っ赤に焼けた梁が落ちてきた。
 深雪は炎の中で、龍のように悶え、やがて黒い影となり、消えていった。

 翌年の二月妙心は、阿闍梨修行のため本山寺へと旅立つ朝、寺を訪れた。
 雪に埋もれた焼け跡の向こうから、信じられない光景が目に飛び込んできた。雪を抱いた梅の木が、満開に花を咲かせている。
 囲炉裏を挟んで、深雪と粥をすすった日々が懐かしく蘇る。
「私と一緒に峠を越えよう。そして、いつか共に故郷の海を眺めよう」
 妙心は、焼け跡の土と、微笑みかけるような薄紅色の花を、そっと懐紙に包んだ。
 
 それから元号が二度変わった。
 生涯、聖(ひじり)として国土を渡り、長岡で土となった僧の話しが伝わる。その名を妙芯という。

                 (了)

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み