第4話
文字数 4,294文字
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清造は、新築とまではいかないまでも、所有する貸家の一つを修繕し、畑に囲まれた一軒家を深雪に与える約束は守った。
深雪は、土に鍬を入れ、種を撒き、収穫を見守る生活に、例えそれが幻の大地だとしても、束の間の安堵と幸せに浸った。
清造には、下積みの現場で一緒につるはしを振るったという妻がいた。妾を囲ったことを知った妻は、毎日のように清造を罵るらしく、清造は仕事が終わると逃げるように、深雪の住まいに転がり込んできた。
「深雪、鯛の活きのいいのが入っていた。一緒に食おう」
清造は、深雪に逢いに来る時は、高価で珍しい食べ物を手土産に、機嫌をとるのだった。
今日は、町に一軒しかない寿司屋から特上握り二人前を買ってきたと、ほろ酔い機嫌で居間に上がり込んできた。
「このような贅沢なものを……もったいない。すぐお茶を出しますので」
清楚な着物を纏い、黒髪を後ろでまとめた深雪に、清造は舐めるような視線を這わせている。深雪は裾を正し、お茶を注いだ。
深雪が遠慮がちに、二つめの寿司に手を出そうとした時だった。自分の分を一挙に平らげた清造が、荒々しく深雪を抱きすくめた。
清造は、日頃の鬱憤を晴らすかのように、深雪を支配した。深雪は心を夜叉にして、ざらついた風が吹き抜けるのを待った。
だがそれも、長くは続かなかった。糖尿病の持病をかかえる還暦の清造は、毎日のように続く宴席でそれが悪化し、病院でインスリン注射を打ちながらの生活が始まった。
清造が異常なほどに嫉妬深くなったのはその頃からだった。徐々に短気で粗暴な本性を現し始め、深雪の目の周りや体のあちこちに、青黒い痣が残るようになった。
遠く三国山脈の頂が白く染まり始め、庭先では、木枯らしが枯れ葉と戯れていた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
遠くから、ささくれた心を癒すような、透明な読経の声音が聴こえてきた。深雪はそっと、小窓から覗いた。白衣に黒い法衣を重ね、白足袋に草鞋(わらじ)を履いた修行僧が近づいてくる。網代笠の下に端正な顔立ちを覗かせる若い僧は、左手に浄財を入れる黒い鉢を、右手には錫杖を握っている。町外れに佇む家々の玄関先を、托鉢をしながら回ってきたに違いない。
深雪は、目は隠れて見えないが、修行僧の全身から滲み出す崇高な香気に、一時の安らぎを覚えた。
「おい、あれ、托鉢坊主っていうらしいけど、怪しいもんだっておらんとこの父ちゃんが言ってたぞ」
「そうだ、そうだ、かっこだけつけて、ただの物乞いじゃねぇーか!」
どこからか集まってきた悪童たちが、玄関先で念仏を唱え始めた修行僧に、悪態をつき始めた。
当時は誰もが食うや食わずで、駅や神社のお祭りなど、人の集まるところには白装束の傷痍軍人や托鉢僧の姿が目立った。その多くは根拠のある活動や修行だったに違いないが、それらしき格好で小銭やお米をせしめていく輩もいたという。
悪童のただならぬ気配に、深雪が玄関の戸を開けた時だった。
バラバラバラッと左手から石が飛んできて僧の全身を打った。その一つが背の高い僧の頬骨に当たり、みるみる血が滲み出した。
だが、まだ同じような歳に見える僧は、少しも動じることなく、お経を唱え続けている。
「なにをするの! この方は私たちを救おうとしてるんだ」
深雪は駆け寄り、今にも法衣に染み込もうとする血の滴りを指で拭い、それを口に含んだ。一瞬の出来事だった。
僧はハッとしたように錫杖を置くと、深雪の手をとり、懐紙で拭った。僧の冷え切った指の芯にある、気高い温もりが残った。
僧は法衣を通す微かな狼狽を、鈴の音で隠すように、錫杖を一振りすると踵を返した。
「あ、お待ちください。今、少しばかりのお米を――」
深雪は慌てて家に入ると、お米を入れた茶碗を手に出てきた。それを僧が持つ鉢に入れる。
笠の中の僧の目が、差し伸べる深雪の袖口に覗く青黒い痣を射抜くのを覚えた。
慌てて手を戻そうとする瞬間、視線が交差した。無濁な僧の目の奥に、深雪が背負うものを見通すかのような、重い陰影を見た。
翌年の夏のことだった。
深雪の住まいの近くでは、ひと月ほど前から農地解放政策に絡む官地の測量が行なわれていた。
深雪が、台所で洗いものをしていた時だった。玄関から、聞き覚えのある声が響いてきた。
「すみません、トイレを貸してもらえませんか」
たまに庭先でお茶などを振る舞い、顔見知りになった技師の佐伯だった。農作業の女性たちの目もあり、外で用を足すには気が引けたのだろう。
「どうぞ、入って左の突き当りです」
手が離せない深雪は、台所から声だけの返事をした。
「色々お世話になりました。今日東京に帰ります」
用を終えた佐伯が、玄関から深雪に声をかけた。
「ご苦労さまでした。やっとご家族に会えますね。佐伯さんもお元気で」
たすきを外しながら出てきた深雪が、親しみの笑みを浮かべた。
「あれ! すみません。トイレに財布を忘れてきちゃった」
「あ、私がとってきます。お待ちになって――」
引き返した深雪が笑みを残しながら、佐伯に財布を手渡そうとした時だった。
佐伯の肩越しに立つ人影に、目が点になった。かっと目を見開いた清造が、仁王立ちになっている。
ちょうどその時、佐伯の部下がやってきた。
「係長、列車の時間に間に合いません。お早く!」
佐伯は不気味に交差する視線の下を潜り抜け、待機していたジープに乗り込んだ。
「旦那様、なにか誤解を――」
「なにが誤解だ! やはり噂は本当だったか――許せん!」
「旦那様、聞いてください。佐伯さんがトイレをと――」
「ええい! 益々煮えくり返るわ。佐伯さんなどと親しく名前まで呼びよって。それにトイレまで使わせる仲だったとは――」
「信じてください。私は旦那様以外の――」
「やかましい! 売女はしょせん売女だったか。そこへ直れ!」
目を真っ赤にして額に血管を波立たせた清造は、深雪を三和土に引きずり落とすと、土間に押しつけるように座らせた。
清造は土足で居間に上がり込むと、囲炉裏から湯気が噴出す鉄瓶を持ち出してきた。恐怖に慄く深雪の襟首を引くと、まるで植木に水を差すように、熱湯を流し込んだ。
深雪は、自分の悲鳴が聞こえないまま、気を失った。
不気味なハエの羽音で目が醒めた。異様にむせかえる暑さが、自分の体熱だと気づく。居間に伏せったまま、一週間が経っていた。
清造がやってきた。恐怖と衰弱のため、深雪は声も出ない。
清造が、肌にかけていた着物に手をかけた。半分ほど剥いだところで手が止まり、台所へと駆け込んでいった。蛇口の音に重なり、嘔吐の呻きが聞こえてきた。
深雪が声を絞り上げた。
「旦那様、誤解を招いた私が悪うございました」
「もうどうでもいい。これを持って早く医者に行け。あとは戻ってくることはない」
清造は、ありったけのお金を深雪の前に放ると、出ていった。
「仏心を起こせば地獄に堕ちる」という女衒の言葉が蘇る。それでもいい。どの道、本当の娑婆にはもどれない。一時でも、土と生きることができただけで、悔いはない。せめて最後に、海の夕焼けが見たい。深雪は、少女のころの、故郷の海を思い出していた。
三国峠へと続く夜道を歩き出した。朦朧とする意識の中に、地平線を染める血の色の夕日が浮かんできた。その時だった。
酒臭い息が襟元に絡みつき、いつの間にか三人の男が深雪を取り囲んでいた。
「へへへ、なかなかいい女じゃねぇーか」
悲鳴を上げる間もなく、大きな手で口をふさがれた深雪は、三人の男に土手の下に引きずり込まれていった。
「おい、おめぇーらしっかり押さえてろ」
深雪にはすでに、抵抗する力も気力も残っていなかった。ただ、雲間を漂う月を、震える目で見つめていた。
髭面の大きな男の手が、深雪の背中を這う。
「ん――、何かぬるぬるするぜ、この女。うへぇー! こりゃなんだ、この女、病気持ちだ!」
髭面は上体を起こすと、手を振り払った。
「病気だろうが何だろうが、俺はもう十年も女を抱いてねぇ。それにこんなべっぴんじゃ、おら死んでもええで」
小柄な中年男が目をぎらつかせた。
「俺はもういい。おめえら勝手にせぇー」
髭面が立ち上がった。その時だった。
「どうしたのじゃ?」
土手の上に背の高い修行僧が立った。網代笠の中で、目が鋭く光っている。
「ちっ、坊主に出てこられちゃ益々縁起が悪い。おい、おめぇーら引き上げるぞ」
髭面が顎をしゃくった。
小柄な中年男が、ぶつくさ言いながら深雪の胸元をまさぐると、二人の後を追った。
「酷い目に遭ったのう」
修行僧が、顔を隠してむせび泣く深雪を抱き起こした。
「あ、あなたは、あの時の――」
修行僧が、月明かりに浮かんだ深雪の顔を見て目を見張った。
「あの時のお坊さんでしたか。あ、ありがとうございます」
深雪は恥ずかしさのあまり、僧から目を逸らし、身を固くした。
「ここから家まで、一人では危険だ。私がお送りしよう」
「いいえ、いいのです。私一人で何とかなります」
深雪は立ち上がり、着物の泥と草の葉を払った。その時、胸元の金銭がなくなったことに気づいた。情けなさと腹立たしさに、はらはらと涙が伝った。
「この時間によほどの事情があったのでしょう。私の寺はこの村はずれにある。よろしければ付いて来なさい。何か温かいものを食べるがいい」
僧は深雪に澄んだ目を向けた。まだ生きたい、という微かな願いが、美幸の心に残っていた。
古めかしい、風格のある寺だった。僧は、先代の住職が急逝し、村で唯一の古刹を継いだばかりだと言った。
「さぁ、温かいうちに食べるがよい」
僧は、居間の囲炉裏を挟んで座る深雪に、生卵を一つ落とした温かい粥と、一つまみの味噌を用意してくれた。
深雪は、焼き塩だけでさらさらと粥を口に運ぶ僧を盗み見て、初めて人間の情を知った。慈悲のこもる温かい糧を、押さえ切れない涙と一緒に飲み込んだ。
「今日は週に一度の湯を張る日だ。私は先に入って本堂で休むので、あなたもゆっくりと湯に浸かり、この部屋で休むといい。あ、私は妙心という。あなたの名前は?」
「私は、深い雪と書いてみゆきと申します。本名は――」
「それで充分だ。深雪さんか、いい名前だ」
妙心は深雪の話を遮るように、小さな笑顔を向けた。深雪の立ち居振る舞いから、素性に察しがついたのかもしれない。そして続けた。
「明日は早くに寺を出て、三日間遠くに托鉢修行に出ます。もし寺を出ていく時は、鍵を勝手口の植木鉢の下に置いてください」
妙心はそう言い残すと、居間を去って行った。
清造は、新築とまではいかないまでも、所有する貸家の一つを修繕し、畑に囲まれた一軒家を深雪に与える約束は守った。
深雪は、土に鍬を入れ、種を撒き、収穫を見守る生活に、例えそれが幻の大地だとしても、束の間の安堵と幸せに浸った。
清造には、下積みの現場で一緒につるはしを振るったという妻がいた。妾を囲ったことを知った妻は、毎日のように清造を罵るらしく、清造は仕事が終わると逃げるように、深雪の住まいに転がり込んできた。
「深雪、鯛の活きのいいのが入っていた。一緒に食おう」
清造は、深雪に逢いに来る時は、高価で珍しい食べ物を手土産に、機嫌をとるのだった。
今日は、町に一軒しかない寿司屋から特上握り二人前を買ってきたと、ほろ酔い機嫌で居間に上がり込んできた。
「このような贅沢なものを……もったいない。すぐお茶を出しますので」
清楚な着物を纏い、黒髪を後ろでまとめた深雪に、清造は舐めるような視線を這わせている。深雪は裾を正し、お茶を注いだ。
深雪が遠慮がちに、二つめの寿司に手を出そうとした時だった。自分の分を一挙に平らげた清造が、荒々しく深雪を抱きすくめた。
清造は、日頃の鬱憤を晴らすかのように、深雪を支配した。深雪は心を夜叉にして、ざらついた風が吹き抜けるのを待った。
だがそれも、長くは続かなかった。糖尿病の持病をかかえる還暦の清造は、毎日のように続く宴席でそれが悪化し、病院でインスリン注射を打ちながらの生活が始まった。
清造が異常なほどに嫉妬深くなったのはその頃からだった。徐々に短気で粗暴な本性を現し始め、深雪の目の周りや体のあちこちに、青黒い痣が残るようになった。
遠く三国山脈の頂が白く染まり始め、庭先では、木枯らしが枯れ葉と戯れていた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
遠くから、ささくれた心を癒すような、透明な読経の声音が聴こえてきた。深雪はそっと、小窓から覗いた。白衣に黒い法衣を重ね、白足袋に草鞋(わらじ)を履いた修行僧が近づいてくる。網代笠の下に端正な顔立ちを覗かせる若い僧は、左手に浄財を入れる黒い鉢を、右手には錫杖を握っている。町外れに佇む家々の玄関先を、托鉢をしながら回ってきたに違いない。
深雪は、目は隠れて見えないが、修行僧の全身から滲み出す崇高な香気に、一時の安らぎを覚えた。
「おい、あれ、托鉢坊主っていうらしいけど、怪しいもんだっておらんとこの父ちゃんが言ってたぞ」
「そうだ、そうだ、かっこだけつけて、ただの物乞いじゃねぇーか!」
どこからか集まってきた悪童たちが、玄関先で念仏を唱え始めた修行僧に、悪態をつき始めた。
当時は誰もが食うや食わずで、駅や神社のお祭りなど、人の集まるところには白装束の傷痍軍人や托鉢僧の姿が目立った。その多くは根拠のある活動や修行だったに違いないが、それらしき格好で小銭やお米をせしめていく輩もいたという。
悪童のただならぬ気配に、深雪が玄関の戸を開けた時だった。
バラバラバラッと左手から石が飛んできて僧の全身を打った。その一つが背の高い僧の頬骨に当たり、みるみる血が滲み出した。
だが、まだ同じような歳に見える僧は、少しも動じることなく、お経を唱え続けている。
「なにをするの! この方は私たちを救おうとしてるんだ」
深雪は駆け寄り、今にも法衣に染み込もうとする血の滴りを指で拭い、それを口に含んだ。一瞬の出来事だった。
僧はハッとしたように錫杖を置くと、深雪の手をとり、懐紙で拭った。僧の冷え切った指の芯にある、気高い温もりが残った。
僧は法衣を通す微かな狼狽を、鈴の音で隠すように、錫杖を一振りすると踵を返した。
「あ、お待ちください。今、少しばかりのお米を――」
深雪は慌てて家に入ると、お米を入れた茶碗を手に出てきた。それを僧が持つ鉢に入れる。
笠の中の僧の目が、差し伸べる深雪の袖口に覗く青黒い痣を射抜くのを覚えた。
慌てて手を戻そうとする瞬間、視線が交差した。無濁な僧の目の奥に、深雪が背負うものを見通すかのような、重い陰影を見た。
翌年の夏のことだった。
深雪の住まいの近くでは、ひと月ほど前から農地解放政策に絡む官地の測量が行なわれていた。
深雪が、台所で洗いものをしていた時だった。玄関から、聞き覚えのある声が響いてきた。
「すみません、トイレを貸してもらえませんか」
たまに庭先でお茶などを振る舞い、顔見知りになった技師の佐伯だった。農作業の女性たちの目もあり、外で用を足すには気が引けたのだろう。
「どうぞ、入って左の突き当りです」
手が離せない深雪は、台所から声だけの返事をした。
「色々お世話になりました。今日東京に帰ります」
用を終えた佐伯が、玄関から深雪に声をかけた。
「ご苦労さまでした。やっとご家族に会えますね。佐伯さんもお元気で」
たすきを外しながら出てきた深雪が、親しみの笑みを浮かべた。
「あれ! すみません。トイレに財布を忘れてきちゃった」
「あ、私がとってきます。お待ちになって――」
引き返した深雪が笑みを残しながら、佐伯に財布を手渡そうとした時だった。
佐伯の肩越しに立つ人影に、目が点になった。かっと目を見開いた清造が、仁王立ちになっている。
ちょうどその時、佐伯の部下がやってきた。
「係長、列車の時間に間に合いません。お早く!」
佐伯は不気味に交差する視線の下を潜り抜け、待機していたジープに乗り込んだ。
「旦那様、なにか誤解を――」
「なにが誤解だ! やはり噂は本当だったか――許せん!」
「旦那様、聞いてください。佐伯さんがトイレをと――」
「ええい! 益々煮えくり返るわ。佐伯さんなどと親しく名前まで呼びよって。それにトイレまで使わせる仲だったとは――」
「信じてください。私は旦那様以外の――」
「やかましい! 売女はしょせん売女だったか。そこへ直れ!」
目を真っ赤にして額に血管を波立たせた清造は、深雪を三和土に引きずり落とすと、土間に押しつけるように座らせた。
清造は土足で居間に上がり込むと、囲炉裏から湯気が噴出す鉄瓶を持ち出してきた。恐怖に慄く深雪の襟首を引くと、まるで植木に水を差すように、熱湯を流し込んだ。
深雪は、自分の悲鳴が聞こえないまま、気を失った。
不気味なハエの羽音で目が醒めた。異様にむせかえる暑さが、自分の体熱だと気づく。居間に伏せったまま、一週間が経っていた。
清造がやってきた。恐怖と衰弱のため、深雪は声も出ない。
清造が、肌にかけていた着物に手をかけた。半分ほど剥いだところで手が止まり、台所へと駆け込んでいった。蛇口の音に重なり、嘔吐の呻きが聞こえてきた。
深雪が声を絞り上げた。
「旦那様、誤解を招いた私が悪うございました」
「もうどうでもいい。これを持って早く医者に行け。あとは戻ってくることはない」
清造は、ありったけのお金を深雪の前に放ると、出ていった。
「仏心を起こせば地獄に堕ちる」という女衒の言葉が蘇る。それでもいい。どの道、本当の娑婆にはもどれない。一時でも、土と生きることができただけで、悔いはない。せめて最後に、海の夕焼けが見たい。深雪は、少女のころの、故郷の海を思い出していた。
三国峠へと続く夜道を歩き出した。朦朧とする意識の中に、地平線を染める血の色の夕日が浮かんできた。その時だった。
酒臭い息が襟元に絡みつき、いつの間にか三人の男が深雪を取り囲んでいた。
「へへへ、なかなかいい女じゃねぇーか」
悲鳴を上げる間もなく、大きな手で口をふさがれた深雪は、三人の男に土手の下に引きずり込まれていった。
「おい、おめぇーらしっかり押さえてろ」
深雪にはすでに、抵抗する力も気力も残っていなかった。ただ、雲間を漂う月を、震える目で見つめていた。
髭面の大きな男の手が、深雪の背中を這う。
「ん――、何かぬるぬるするぜ、この女。うへぇー! こりゃなんだ、この女、病気持ちだ!」
髭面は上体を起こすと、手を振り払った。
「病気だろうが何だろうが、俺はもう十年も女を抱いてねぇ。それにこんなべっぴんじゃ、おら死んでもええで」
小柄な中年男が目をぎらつかせた。
「俺はもういい。おめえら勝手にせぇー」
髭面が立ち上がった。その時だった。
「どうしたのじゃ?」
土手の上に背の高い修行僧が立った。網代笠の中で、目が鋭く光っている。
「ちっ、坊主に出てこられちゃ益々縁起が悪い。おい、おめぇーら引き上げるぞ」
髭面が顎をしゃくった。
小柄な中年男が、ぶつくさ言いながら深雪の胸元をまさぐると、二人の後を追った。
「酷い目に遭ったのう」
修行僧が、顔を隠してむせび泣く深雪を抱き起こした。
「あ、あなたは、あの時の――」
修行僧が、月明かりに浮かんだ深雪の顔を見て目を見張った。
「あの時のお坊さんでしたか。あ、ありがとうございます」
深雪は恥ずかしさのあまり、僧から目を逸らし、身を固くした。
「ここから家まで、一人では危険だ。私がお送りしよう」
「いいえ、いいのです。私一人で何とかなります」
深雪は立ち上がり、着物の泥と草の葉を払った。その時、胸元の金銭がなくなったことに気づいた。情けなさと腹立たしさに、はらはらと涙が伝った。
「この時間によほどの事情があったのでしょう。私の寺はこの村はずれにある。よろしければ付いて来なさい。何か温かいものを食べるがいい」
僧は深雪に澄んだ目を向けた。まだ生きたい、という微かな願いが、美幸の心に残っていた。
古めかしい、風格のある寺だった。僧は、先代の住職が急逝し、村で唯一の古刹を継いだばかりだと言った。
「さぁ、温かいうちに食べるがよい」
僧は、居間の囲炉裏を挟んで座る深雪に、生卵を一つ落とした温かい粥と、一つまみの味噌を用意してくれた。
深雪は、焼き塩だけでさらさらと粥を口に運ぶ僧を盗み見て、初めて人間の情を知った。慈悲のこもる温かい糧を、押さえ切れない涙と一緒に飲み込んだ。
「今日は週に一度の湯を張る日だ。私は先に入って本堂で休むので、あなたもゆっくりと湯に浸かり、この部屋で休むといい。あ、私は妙心という。あなたの名前は?」
「私は、深い雪と書いてみゆきと申します。本名は――」
「それで充分だ。深雪さんか、いい名前だ」
妙心は深雪の話を遮るように、小さな笑顔を向けた。深雪の立ち居振る舞いから、素性に察しがついたのかもしれない。そして続けた。
「明日は早くに寺を出て、三日間遠くに托鉢修行に出ます。もし寺を出ていく時は、鍵を勝手口の植木鉢の下に置いてください」
妙心はそう言い残すと、居間を去って行った。