第9話 聡、由美の自宅を訪ねる  

文字数 2,462文字

 白い羽根が青い空に舞い、社員たちが混合ダブルスでバトミントンに興じていた。此処は本社ビルの屋上、丁度昼休みで、仕事から解放された同僚たちは誰もが明るい表情をしていた。その一隅で、川本聡と仲田由美が眩しそうに彼等のプレイを眺めて居た。
聡がポツリと言った。
「おかしいよ、君は」
由美は黙ってプレイを見ている。
「俺の両親に逢わせようとすると、もう居少し待って、と言うし、それじゃ君のお母さんに逢いに行く、と言えば、未だ早い、と言う」
由美はじっとプレイを見たまま返事をしない。
「俺との結婚に二の足を踏んでいるとしか思えないよ」
由美は未だ何も言わない。
「なんでお互いの親に逢うだけのことで、そんなに考えなくちゃいけないんだ?」
「・・・兎に角、もう少し待って欲しいの。今は、それしか言えないわ」
「俺の両親は、いつ連れて来ても良い、って言っているんだ。君のお母さんは反対しているのか、俺達の事を?」
由美が首を横に振った。が、彼女はそれ以上何も言おうとはしなかった。聡は次の言葉が継げなくなった。
「ごめんなさい、真実に・・・」
聡はきつい眼差しで由美を見つめた。
午後の始業の予鈴チャイムが鳴って社員たちは夫々に職場へ戻って行った。
 従業員五千人余、年商三千億円、国内各地の他に欧米や中国、東南アジアに完全子会社を持つ東証一部上場の中堅企業。乾電池や飲料水ボトルに貼るラベル、仮面ライダーやアンパンマンなどのシール、その他世界中のありとあらゆるラベルとシールを受託生産販売して市場占拠率五割を超える業界ナンバーワンの会社、隙間産業ではあるがその特異な存在感は広く経済界に認知されていた。
その大阪本社ビルは、超高層建築が林立する駅前のビル街では埋没してしまいそうな大きさでしかないが、全面ガラス張りの壁面には照り付ける陽光がきらきらと反射して輝いていた。一階が受付と商談室とショールーム、二階に本社営業部、三階は社員食堂と喫茶ルーム、四階に商品開発部門、五階のフロアには人事、総務、経理などの管理本部と世界中の情報が飛び交うコンピューター室、最上階の六階には社長室と役員室と経営企画本部室が並んでいた。七階は屋上であった。
経営企画本部に勤める聡は階段で六階のフロアへ降り、経理課員の由美はエレベータで五階へ降りて、それぞれの執務室へ入って行った。
 
 三日後の朝、慌しく出勤した聡を経理課の小林詩織がエレベータの前で呼び止めた。
詩織は由美と同期に入社して何でも相談し合っている仲の良い友人であった。
「あ、川本さん」
「やあ、おはよう」
「由美、今日、休むのだけど、聞いている?」
「いや、別に、何も」
「そう。昨日帰り際に、休む、って聞いたんだけど、何か元気なかったみたいで・・・私の気の所為かも知れないけど・・・」
「そう・・・とにかく、どうも有難う」
詩織が五階でエレベータを降りて行った後、聡は由美のことが気に懸かった。
この前、昼休みに気まずく別れたのをずっと気にしているのだろうか?・・・
 夕方六時過ぎ、ラッシュアワーの通勤客に揉まれながら聡はJR元町駅の改札を出た。此処は由美が毎日通勤で乗り降りする駅であるが、三ノ宮駅と神戸駅に挟まれた神戸随一の繁華街に在って、その乗降客は一日五万人にも及ぶ。今日も夥しい人の群だった。
住所録の手帳を手に、さて何方へ行くのかな、と辺りを見回した聡の眼に、幸運にも、交番所が飛び込んで来た。
応対した若い巡査が街の区分地図を広げて丁寧に教えてくれた。
「この先の元町通商店街を真直ぐ行くと、五筋目の角にその店は在ります。直ぐに判ると思いますよ」
元町商店街は東京の銀座、大阪の心斎橋と並ぶ老舗商店街で、多くの人が行き交って活気に満ちていた。
 教えられた五筋目の角に目指す「青空文具店」は在った。仕舞屋風造りの旧い家だったが店構えはモダンだった。
半開きになっているガラスドアの入口から中へ入って行くと、「文房具フェスティバルコーナー」と言うのが設けられて在り、聡がこれまで見たことも無いような新しいタイプの文房具類が並んでいたし、その奥には事務用品が几帳面に整然と並べられていた。聡はそれらを左右に見ながら奥へ進んだ。
「いらっしゃいませ」
声の主は五十歳くらいの細面の美人だった。聡には由美の母親だと直ぐに判った。
店の奥に重役タイプの中年男性が腰かけているのがチラッと聡の眼についた。
「いらっしゃいませ、何を差し上げましょうか?」
「いえ、あの、私、由美さんの同僚の川本と申します」
「まあ、それは、それは。いつも娘がお世話になっております」
母親は深く腰を折って丁寧に頭を下げた。
「いえ、とんでもありません。あの、由美さんは居らっしゃいますか?」
母親は不審げな眼を向けて、答えた。
「はあ、あのぅ、娘は今朝、会社に行ったきりで未だ戻っておりませんが・・・」
「えっ?あぁ、そうですか・・・それじゃあ、又・・・」
聡も腑に落ちぬ態で応答した。
「あのぅ、会社では、ご一緒じゃ?・・・」
「いえ、実は、私は今日、会社を休んだものですから」
聡は慌てて答え、ズボンのポケットからハンカチを取り出して顔を拭った。
「もう間もなく帰ると思いますから、どうぞ中へ入ってお待ち下さい、さあ、どうぞ」
「いえ、少し買い物が在りますので、もう少ししたら、又、伺います・・・」
「そうですか、でも・・・」
「いえ、一時間ほどしたら又来てみますので、はい・・・」
聡は逃げるようにして店を出、商店街の中を歩きながら呟いた。
「あいつは何を考え、何処で何をしているんだ?」
 駅の方へ向かう道の傍らに、ガラス張りの喫茶店が在るのを眼にした聡は徐に中へ入って、窓際の席に腰を降ろした。注文を取りに来たウエイトレスにコーヒーを注文し、水を一口飲んで彼は苛々と煙草に火を点けた。
 コーヒーを飲み終え、灰皿の吸殻が三本ほどになって、ふっと通りを見た聡の眼に、先ほど文具店で見た中年男性が駅の方へ歩いて行く姿が映った。
貫禄のある恰幅の良い紳士だけど一体誰なのだろう?客ではなさそうだし・・・
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