第20話 「わたし、故郷の徳島へ帰るわ」

文字数 2,663文字

 そうして年が明け、節分が過ぎて、早や三月の桃の節句を迎えた。
麗奈が突然に言った。
「わたし、故郷の徳島へ帰るわ」
「えっ?どうして又、急に?」
「母校の高校で歴史の先生をやることに決まったの」
「どういうこと?」
「わたし、もともと教師志望だったの、高校の。大学で教育課程は履修したし単位も取っ
た。でも一昨年は公立高校の教師を目指して受験したけど落っこちちゃった。で、去年は併せて母校の教師も受けてみたら、これが運良く合格したってわけ。あなたも知っているように私は、高校は中高一貫の私学だったから、やっぱりその卒後生は有利だったのね、きっと」
「そうだったのか・・・全然知らなかったなぁ」
「八月に筆記試験があって九月が適性検査、面接試験は十一月だったし・・・それに受かるかどうかも判らなかったし・・・」
「で、何日?合格が決まったのは?」
「つい最近よ、二月の終わりに正式採用の通知が有ったの」
「然し、何で教師になりたかったんだ?」
「私は中学二年生くらいの頃から、教師になりたいという夢を持っていたの。でも、その頃は特にこれといった理由もなく、ただ何となく教師になりたい、書類やパソコンを相手にする仕事よりも人を相手にする仕事がしたい、そう思っているだけだったの。教師という仕事を碌に知りもしないで、ただ楽しそう、と考えているだけだったのね」
「それで?」
「本格的に教師になりたいと思い始めたのは高校に入ってからだった。担任の先生に刺激を受けたの。その先生の担当教科は日本史だったけど、正直、授業自体は解り易いものではなかった。けれど、その先生の熱心さに心惹かれたの。何よりもまず、私たち生徒のことを第一に考えてくれる先生だった。質問に対して一生懸命に考えてくれ、あの手この手を使ってどうにかして解り易く伝えようとしてくれた。ホームルーム・クラスでは校外授業での写真を教室に貼ってくれたり、ハロウィンの時にはかぼちゃの飾りを買って来てくれたり、クリスマスの季節にはクリスマスツリーを飾ってくれたりもした。私の高校は進学校だったので、高校一年生からもう本格的な受験勉強よね。担任の先生が色々と教室の雰囲気を工夫してくれたことによってみんな楽しい気持で学校生活を送ることが出来たの。先生の誕生日には、クラスのみんなで一人一ページずつノートにメッセージを書いてプレゼントをしたし、先生の結婚式に私たちからのプレゼントであるそのノートが飾られていたの。それを見た校長先生が“あなたは生徒からとても愛されているんですね”と仰ったらしいのね。その時、先生が“私の自慢の生徒たちです”と言ってくれたそうで、その話を聞いたとき、わたしは涙が出そうになるほど嬉しくなったことを今でも覚えているわ。私たちが“自慢の生徒”と言って貰えたことよりも、担任の先生が“みんなから愛されている”と言われたことが嬉しかったのね。そう感じたクラスメイトは凄く多かったし、自分ではなく、自分の周りの人が褒められてこれほど嬉しかったことはそれまで無かった。それほど、その先生を慕っていたのよね。自分がどれほどその先生を好きなのかを実感した時、私もこんな人になりたい、みんなに愛される先生になりたい、そう思ったの」
「そうか・・・良い話だね」
「まあ、これが、私が教師を目指す理由です。とても簡単な理由かも知れないけれど、この先生に影響を受けたことは間違いないし、この先生に出会っていなかったら、これほど真剣に教師を目指すことはなかったかも知れない。私の目標は、この担任の先生なの。いつかこの先生を超えられるような人になりたい、そんな人間になり、みんなに愛される、生徒に夢を与えられる教師になって、そして、この先生に感謝の気持を伝えることがわたしの将来の目標なの」
「偉いね、君は。南国の徳島から単身京都へ出て来て、その若さで人生の進路をしっかり決めて、職業を持って生きることを真剣に考えていたんだから・・・」
「もう一人、忘れられない先生が居たわ。美術の先生でね。美術は上手下手ではありません、美術は心です、っていつも言っていたの」
 この言葉が中学校の美術の先生の口癖だった。子どもの頃から絵を描いたり工作をしたりすることが大好きだった麗奈は、中学生になってもいつも美術の時間を楽しみにしていた。
色々なものを使って、自分の想像したものを表現できることが彼女には快感だった。だが、授業となると、技術的に上手くいかないことも多く、思うように表現できないもどかしさも重なって、なかなか手が進まないこともあった。麗奈と同じようなことを考えている生徒は他にも沢山いた。
「先生は教室を歩き回りながらよくこの口癖を聞かせて廻っていた。この言葉を聞くと、不思議と緊張がほぐれ、楽しまなきゃと思ったり、試行錯誤するモチベーションが上がったりして、表現するという快感を味わえるようになったの。私は、学校で作った作品を家に持ち帰って取っておくようにした。今でも一つ一つの作品を見ると、当時自分が何を考えていたのか、どんな夢があったのかを感じることができる。自分が作った作品に自分自身を重ね合わせて、思い出に浸り、歴史的貯蔵物のように、自分自身の歴史を表現したものとして見ることもある」
「そうして、どんどん美術の面白さに引き込まれて行った、と言う訳か?」
「そうね。美術の先生の口癖は、美術だけに言えることではなかった。目の前の出来事をただ見過ごしてしまうのではなく、一度興味を持ってみるだけで、その出来事はいかようにも変化し、自分に何かを与えてくれる存在になる。初めは、自分の緊張を解きほぐす言葉だったのが、今では、物の本質に目をむけることの大切さ、人と繋がり生きていくことの尊さを教えてくれた言葉として、私の価値観のひとつになっているのよ」
「君の確たる自立心の強さもそう言う処から来ているんだろうな、きっと」
「私の父は造園業を営む庭師で母は総合病院の看護師なの」
「ああ、そうだったね」
「母は大きな病院の外科に勤めていたので、日勤と夜勤の繰り返しがあり、深夜勤務もあったわ。だから、私は小さい頃から身の周りのことは自分でしたし、家事も自分で出来る限りのことは手伝った。三歳年下の弟のことも母親代わりのようにして面倒をみたの。幼い頃から自立・自主・自発の精神は培われて来たから、私は自分の意志で自由に生きたいといつも思っているのよ」
健一は積極的に自分を表す麗奈の挑戦する未知の魅力にますます魅せられて行く気がした。
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