第37話 「僕は御仏の世界ではない俗世間で挑戦したいんです」 

文字数 1,137文字

 龍二が高校三年生になって大学への進学を考え始めた頃、育ての親の松本慶良が言った。
「龍二、お前、僧侶になる心算なら、それなりの学校へ行き、修業をしっかりやり直せ。そうで無いのなら、一般の普通の大学へ通って勉学に励め。寺の修業は明日からしなくて良いから」
「お養父父さん、僕は普通の大学へ通って一般の社会へ出て行きたいと思っています。御仏の世界でない俗世界でしっかり挑戦してみたいんです。どうか僕の我が儘を許して下さい」
龍二は丁寧に頭を下げて養父に依願した。
「解かった。これからは自分の道は自分で切り拓け。全てはお前の努力次第だ。しっかり頑張れ」
龍二は、養父が自分を初めて大人に扱い、一人前に扱ってくれたことが、とても嬉しかった。
 
 龍二は長年育ててくれた養父にこれ以上の金銭的な負担は懸けたくないと、余り裕福でない家庭の子が通う二流の私立大学に合格して貧乏学生の道を歩み始めた。スーパーの品出しを初め喫茶店のウエイターやチラシ広告のポスティングなど様々なアルバイトに精を出して金を稼いだ。龍二には趣味に没頭したりスポーツに興じたり、女の娘と酒を飲んだり遊んだりする余裕は時間的にも金銭的にも殆ど無かった。
 生まれ育って来たこれまでの境遇から龍二が身に着けたモラルは至って単純シンプルだった。
他人を宛てにせず、他人に頼らず、期待もせず・・・そして、未来にも人生にも期待せず、宛てにもせず・・・
龍二は愛や夢や、絆や連帯や信念などを信じたり疑ったりすることは無かった。彼はそれらにまるで関心が無かった。
そんなものが何になる?・・・
それは、本人が意識していようと居なかろうと、将に虚無と刹那の倫理だった。彼は大学時代の四年間は人生の執行猶予期間だと思っていた。卒業した後に何になりたいとか何をしたいとか、そういうことは考えさえもしなかった。龍二はその日その日をただ流されて刹那的に生きた。
 卒業して今の大手企業に勤めたのも、養父松本慶良が知古の伝手を頼って押し込んでくれたものだった。龍二は有難く感謝して勤務し、早や四年が流れ過ぎた。
 
 龍二の仕事の成果はそれなりに良好だった。彼はビジネスマン然とした颯爽たる企業戦士ではなかったが、力まない巧まない自然体の営業スタイルが顧客に好評を得て、新規得意先の開拓や新製品の売込みに実績を積み重ねた。黒縁の眼鏡を架けた一見暗そうな顔も笑うと両頬に笑窪が刻まれて幾分の明るさを演出した。決して陽気で爽やかなタイプではなかったが、そうかと言って、陰気でいじけた印象ではなかった。むしろ、偶に冗談口を叩いて周りを和ませる軽いキャラだった。龍二に敵は社の内にも外にも居なかった。敵を作らないことは龍二がその生い立ちから自然に身に着けた処世術であった。
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