第35話 郁子は京都北郊の素封家の娘だった

文字数 2,590文字

 中崎郁子は京都北郊、福知山市の素封家の娘だった。
父親は大学の教授で母親は家付き娘、三つ歳上の兄は京都大学の大学院修士課程を卒業してそのまま研究室に残っている秀才だった。因みに、父親の兄は脳科学者だったし母親の兄は著名な書道家だった。一家は将にエリート家系だったのである。
 小学校に上がった頃、郁子は毎朝、家を出掛けに母親に言われた。
「クラスで三番以下に下がっては駄目ですよ」
「解かっているよ」
兄の秀一は自信たっぷりに返答したが、郁子はそれには答えず、唯、行って来ます、とだけ言って登校した。
母親の叱咤にも拘らず、郁子の学業成績は兄に比べると芳しくなかった。それでも、クラスで中位の成績だったので母親や兄が思うほどに悪い訳ではなかった。だが、郁子は教科の内容や授業そのものに興味が持てなかったし、成績を上げたいとも思わなかった。そして、学年が上がるにつれて、特に中学校へ入る頃には、両親も兄も郁子の学業成績については半ば諦めている様子だった。
「この子は優性遺伝の悪い方だけを受け継いだのね」
郁子は次第に家の中での居場所が狭まって行く気がした。
家庭だけでなく学校でも居心地は良くなかった。学年が変わる度に、先生が変わる度に、いつも言われた。
「君は中崎秀一の妹なのか?あの秀才の?」
郁子は肩を窄めて小さな声で、はい、と返答した。同級生たちがクスクスと蔑むように笑った。郁子は、何が可笑しいのよ、といつも心の中を逆立てた。
 だが、郁子の容姿の可憐さは他の群を抜いていた。
中学生になると男の子に良くモテた。郁子を取り巻いて男子生徒の輪が出来たし、ホワイトデイには渡しても居ないバレンタインのお返しが男の子からどっと届いた。
一方で、郁子の精神は未だ初心だった。淡い初恋を夢見るような愛日記をノートに書き綴って納得している幼な心だった。
「五月三日 晴れ 爽やか」
  朝靄煙る林を抜って あなたとふたり駆けました 
  風に靡いた黒髪に あなたはそっと触れました
  輝く笑顔が眩しくて 私の胸はときめきました
  木漏れ日受けて鳥の声
  陽炎揺れる川面に写す あなたとわたし影二つ
  花を手折ったこの指を あなたは軽く叱ります
  あなたの優しさ胸に沁み 私はそっと目を伏せました
  水面に映えるふなの影
  瞬く星が降るような夜空 あなたとふたり歩きます
  小砂利踏みしめ密やかに 言葉無くてもしっかりと 
  結び合ってる心です 夜風がしっとり頬撫でました
  星屑の下 淡い愛
  あなたの呉れたこの幸せを胸に 
  郁子は今夜も安らかに眠ります  
 然し、高校生になった郁子は胸が大きくなり腰も括れヒップも尻上って、身体から色香が匂い立って来た。郁子の乗り降りする時刻にはバス停に男子高校生の塊が出来た。同乗する他の乗客たちが眉を顰めて顰蹙した。
 郁子は、愛は待って居てもやっては来ない、愛は自分から探しに行って見つけるものだ、と考え始めていた。
郁子は話し掛けて来る男の子達と気軽に接したし、直ぐに親しい友達になった。郁子にはそのことに何の他意も無かったし、別に非難されることとも思わなかった。郁子は奔放に自由に振舞った。
「おはよう。今日は何時に終わるんだ?」
「あっ、おはよう。今日は金曜だから六時限有るわ、終わるのは四時半ごろね」
「そうか、じゃ、その時間にいつもの茶店で待っているぞ」
「分かったわ。でも、行けるかどうか判んないわよ」
「まあ、来れたら来いよ、な」
そんな郁子に両親も兄も、醜悪なものでも見るような視線を注いだ。
未だ十六、七歳の小娘なのに、もうこんなに色気着いちゃって、いやらしい・・・
 
 そして、高校三年生になった夏に、兄の友人で夏休みの期間中だけ、大学受験の為の家庭教師をやってくれた大野達也に一目惚れして一途な恋に落ち、前後の見境も無く、肉体の交渉を持った。無論、郁子も達也も初めての経験だった。若くて奔放な迸る性に目覚めた二人は激しく求め合い貪り合った。火曜と金曜の夜は、受験勉強は初めの一時間だけで、母親がブレークタイムのコーヒーを出し終わって部屋を出て行くと、後は直ぐに、ひたすらに抱き合って二人して燃え上がった。家人に知られてはいけない秘密裏の愛技で声も立てられない二人は、その故にこそ、激しく抱き合って陶酔した。
 だが、若くて幼い二人が激しく求め合った愛も、理性に立ち戻った達也の方が次第に倦んで行った。
十八歳の幼稚な高校生と二十一歳の何の稼ぎも無い大学生がこのまま関係を続けて行ってどうなるんだ?結婚でもするのか?俺は嫌だね。前途は洋々と開けていて長いんだ。何も急き急いで今、人生を決める必要は無いだろう・・・
 郁子は硬固で強靭で純粋だと信じた初めての愛が脆くも呆気無く崩れて壊れたことに絶望的なショックを受けた。虚ろで深い虚脱感と訳の解らぬ絶望感だけが胸に凝った。
夏休みの終わりに、兄の秀一が打ちひしがれている郁子を詰った。
「お前、高校生の分際で何をやっているんだ!大野はもう福知山を出て京都へ帰った。お前は売女か!淫売か!恥を知れ、恥を!」
秀一の眼は腐臭を放つ汚物でも見るような蔑んだ眼だった。郁子は何も言わず、ただ、頸うな垂れた。
 
 郁子は京都市内の二流私立大学へ進んだ。家族にも友人たちにも福知山の土地にも未練も愛着も無かった。想えば、厳格で堅苦しい両親と身の置き場の無い鬱屈した家庭での息の詰まるような十八年間だった。
 故郷を出た郁子は解き放たれた鳥のように奔放に飛び跳ねた。その肉体から愈々匂い立つ色香は忽ちにして男子学生の憧れの的となった。二回生の時には誰彼に無く推されて出たミスコンテストで優勝して学園のアイドルとなったし、成人した時にはその美貌は行き交う皆を振り返らせた。
「あの娘、ハクイな」
「ああ、堪らんほど良いね、あの躰」
「未だバージンかな?」
「そんな訳ゃ無いだろう、あの肉体を見りゃ解るだろうが、な」
 然し、郁子が放つ官能美は郁子の意図したところではなかった。それは女性の性が郁子の意志や意識に関わらずその肉体から自然に表出したものであった。彼女の処することの出来る範疇を越えていた。ただ、郁子はそうした自分の醸し出す色香には殆ど気付いていなかった。彼女は極めて自然に振舞っている心算だった。その意識は大学を卒業して就職してからも変わりは無かった。
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