第6話

文字数 1,319文字

 アラームに叩き起こされた翌日は、腹から沈み込むかのように重苦しかった。食事をする気にもならず、自分は仕事を、リクエスト通知を求めてのろのろアパートを出た。視界の焦点はあいまいで、爪を食い込ませる酷寒だけがはっきりしている。商店街をうろつくとやがてリクエスト通知があり、指示されるままに商品を受け取りに向かう。ふと自分は、そこかしこに目を走らせていることに気付いた。
 「うさぎ」を食ったんだ、自分は……――
 とはいえ、そんなものは気休めに過ぎない。あんな「うさぎ」を食べたくらいで狼や虎になれるはずがないのだから……飲食店で商品をピックアップし、スマホで届け先を確認する。
 あそこのマンションか……――
 管理人室には誰もおらず、部屋番号、呼び出しとボタンを押し、開いたエントランスドアから奥へ進む。エレベーターで目的階に降り、チャイムを押すとドアが開いて部屋着姿の男が出てきた。白いマスクの上で弓なりに目が笑い、ありがとう、とねぎらって商品を受け取る。
 マニュアル通りに頭を下げ、踵を返そうとしたところ、男はチップ代わりに飲みきりサイズのペットボトルを押し付けてきた。ホットのカフェオレ……思わず受け取ると、手袋の中までじんわり温かくなってくる。冷えきった体には、ありがたい……こちらの気持ちを察したのだろう、男は温かいうちにどうぞ、と勧めてきた。
 客の前でもあり、いつもならそんなことはしなかっただろう。だが、自分は手中からの誘惑に負け、マスクを外して、ごく、ごくっと飲んだ。温かな甘みが喉から空っぽの胃に流れ込み、ほうっと思わず息をつく。自分は男に礼を言い、空のペットボトルはダウンジャケットのポケットに突っ込んだ。そしてマンションを出て、リクエスト通知が入りそうな商店街に戻り始める。
 異常は、それからまもなくだった。目の前がぐずぐずにぼやけ、渦を巻いて引きずり込んでいく……――
 あのカフェオレ、薬を……――
 そういえば、心なしかキャップが緩かったような……飲み終わった後の、男のぱちくりする目も今にして思えば……よろめいて自転車ごと倒れ、這って、這って、自分は公園のトイレ、奥の個室で洋式便器にすがりついた。
 気が付いたときには、もたれかかった洋式便器と冷たくなっていた。染み付いた悪臭の中で息をひそめ、身を縮めて外の様子をうかがう。
 まさか、自分が……――
 警戒しながら、そうはならないだろうとどこかで思っていたが……量を間違えたのか、薬効が落ちていたのか、いずれにせよ、あそこでこうなっていたら、おそらく部屋に……洋式便器、壁につかまって立ち上がり、ふらふらと自分は公衆トイレを出た。夜気に肌を削がれ、そそけ立つ一面の闇でぽつんと街灯が揺らめいている。それがこちらをうかがっているようで、自分はおびえながら自転車を探し、またがってひたすら走った。
 あたふたと玄関ドアを施錠し、マスクを外し、息を切らして薄暗いリビングに倒れ込む。心臓は駆け続け、そのままどこかへ飛び出していきそうだった。かすれたあえぎを繰り返し、やがて落ち着いてくると腹がうつろに鳴る。自分は無性に「うさぎ」をむさぼりたくなり、冷凍庫へと這って立ち上がった。
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