第1話

文字数 5,094文字

 ――ろく……なな……はち……――
 右手、左手に二重に巻き付け、握ったポリエステル・ロープが軍手越しにぎりぎりと食い込み、びぃんと目一杯張って、すぐ後ろに立てかけられたはしごの最上段をこする。片膝つきの自分は歯を食いしばって、ぐ、ぐ、ぐ、と前に屈み、ウォークイン・クローゼットの扉に額を押し付けた。両腕から全身が緊張しきって、荒い鼻息、鼓動の響きとともにのぼせていく……――
 じ、じゅうよん……じゅうご……じゅうろく……――
 ロフトへのはしごに背中をつけ、もたれた「うさぎ」の細い首が、最上段からハングマンズノットで絞められていく……引張強度が300キログラム超のロープ、たとえ足がフローリングから浮き、つり下がったとしても、やせっぽちの息の根を止めるうえで問題にはならない。食い込む痛みを押し、自分はいっそう強く握り締めた。仕損じてはいけない……薬で意識のないうちに、苦しむことなく……――
 にじゅう、きゅう……さんじゅう……さんじゅう、いち……――
 カウントは四十になり、五十になって、やがて百になったが、しばらくそのままロープを握り続けた。エアコンを切ったロフト付き1Kの部屋は夜気で底冷えし、上下グレーのジャージに迷彩柄のダウンジャケットでも震えは止まらない。
 ようやく自分は、こわごわとこぶしを緩めた。
 張り詰めていたロープが軍手をこすり、ずるずると逃れて、ぐたっとフローリングでくねる。自分はクローゼットに手をつき、立ち上がって軽い立ちくらみを覚えた。脇や背中が汗に濡れ、ぬらぬらしている。振り返った数十センチ先、はしごの段の間には青ざめたうなじがあり、半ばめり込んだロープがくっきり……ブラジャーとショーツだけの後ろ姿は、安物の蝋人形を思わせた。
 自分は前に回って、がっくり頭を垂れた「うさぎ」の顔をのぞき込んだ。まぶたは閉じたまま、首にロープをかけたときと同じ顔だったが、頬からは乏しかった赤みさえも消え、唇は紫色に変わっている。貧しい胸の間も起伏せず、ひっそりとしていた。自分はまじまじと、微動だにしない鼻孔、半開きの口を見つめた。
 死んでいる……間違いなく、死んでいる……――
 ついにやった……それも純血を……証明する書類はないが、顔立ちや肌の色からして混じりっけはないだろう。もちろん金髪碧眼には劣るが、初めての獲物としては合格だ。女子とはいえ少女ではなく、それほど若くもないが、贅沢を言ったら切りがない。脈が速くなり、高ぶる奥から、どく、どく、とこみ上げてくる……――
 こ、こうしてはいられない……――
 急がなければ……そろそろと「うさぎ」の肩をつかみ、こちらに引くと膝から崩れて、とっさに下がった自分の足元に倒れ込んでしまった。寒色のカーテンの向こうで、夜は冷え冷えと深まっている。下の階の住人から苦情を言われたくはない……うつ伏せの首からハングマンズノットを緩め、ショートヘアが絡まらないようにロープを外して、えいやっと力任せに仰向けにする。冷たく閉じたまぶた、ぽかっとした口が、いかにも魂の抜けてしまった抜け殻だった。自分は「うさぎ」の両手首をつかんではしごから離し、リビングのドアを開けてから両足首をつかんだ。
 漏れてはいない……――
 ショーツの、股のところは染みてもいない。薬を飲む前に排泄を済ませ、吸水パッドをつけてもらってよかった。さすが、何体もの「うさぎ」を仕留めたベテランの動画は役に立つ。そのまま腰を落とし、ずる、ずる、とフローリングを引きずって……体重は50キロもないはずだが、見た目よりもかなり重い……腰を痛めないように、という動画のアドバイスに従って、慎重に沓ずりを乗り越えさせる。腰痛になって、仕事に支障が出るようなことになったらまずい……そうして一旦手を離し、三点式ユニットバスのドアを全開――後ろから「うさぎ」を抱きかかえる。間取りが狭く、不慣れということもあって、血の気のない素足を冷蔵庫や流し台にぶつけてしまった。
 はあ……――
 大きく息をつき、額の汗を軍手で拭った自分は、両膝を浮かし、浴槽の縁に腹を載せた「うさぎ」を見下ろした。くの字に曲がったその姿は、浴槽の底に頭をぶつけそうになっている。ブラジャーのホックをぎこちなく外し、弛緩した腕から抜いて、その後にやせた尻や大腿部から引きはがすように吸水パッド入りショーツを……それらを衣服や靴下、サイズの小さなスニーカーと一緒にごみ袋に入れ、あらためて丸裸の「うさぎ」を見ると生唾がわいてくる。
 サンダルを履き、裸体をざっとシャワーで流し、軍手を外して、リビングから取ってきたスマホを汗ばんだ手で操作――数え切れないほど視聴し、ほとんど頭に入っている解説動画が再生される。
『まずは、血抜きから始めます。――』
 聞きながら、自分は準備に取りかかった。ヘアキャップをかぶり、ビニール手袋をはめ、あらかじめ念入りに洗った洗面台に解体道具を並べて、ステンレス製のボウルを「うさぎ」の顔の真下に差し入れる。換気扇のスイッチを入れることも忘れなかった。
 払った分の、元は取るぞ……――
 こちらの言い値で承諾し、電子マネーで受け取ってすぐ「うさぎ」はどこかに送金して、しかるのちに橋からどぶ川に自らのスマホを投げ捨てた。命の代金の使い道など知るよしもない。どうせ借金の返済か何かだろう。どのような事情があろうと関係ない。「うさぎ」を食べられれば、それでいい……――
『時間が経つほど、品質は低下していきます。作業は速やかに行いましょう』
 「うさぎ」の両足をまたぎ、ショートヘアをつかんで頭をのけ反らせ、自分は握ったペティナイフで頚動脈を突き刺した。ぐいと刃を抜くや黒ずんだ血があふれ出す。動画で見たまんまだ。血はだらだらと垂れ、やがて下のボウルにたまったので、キッチンで食品用ラップフィルムをかけて冷蔵庫へ……戻ると浴槽の底は赤く汚れて、傷口からまだあふれていたので、自分はビニル手袋で受けたそれをごくっと、湧き水のごとく飲んでみた。
 なるほど……――
 独特のくどさはあるが、悪くはない味だ。若い血液はアンチエイジングが期待でき、とりわけ女性には人気があるという。ぐいと口元を拭い、唇をなめて、自分は片刃ノコギリに持ち替えた。
 青ざめた襟首に刃を当て、すうっと息を吸って、ぎこちなく切り始める。押し、引きするほど血があふれ、下あごをぬらぬら伝って先からしたたっていく……解説動画で何度も見ているが、いざやってみると血臭でえずきそうになってくる。がっと刃が引っかかり、抵抗が強くなった。頸椎に達したのだ。しっかり腰を入れてやると、やがて支えを断たれて頭がだらっとなる。髪をつかんでさらに切り、とうとう頭部は体から離れた。
 「うさぎ」の生首を隅に置き、右肩の付け根に刃を当てる。右肩から切り落とし、右肘、右手首を切断……同じ手順で左腕も切り分ける。左手首にはためらい傷があり、ため息を漏らした自分はその上から思い切りよくやった。
 熱い息を吐き、腰を伸ばして……リビングに戻って「うさぎ」が使ったコップを片付け、ローテーブルとクッションをどかしてブルーシートを広げた。そして缶のエナジードリンクを一気飲みし、軽くストレッチをして右太ももの付け根を切り始める。休んでいるわけにはいかない……右膝、右足首を切り離し、左下肢も同様に……替刃も準備していたが、使わずに済んだ。ばらされたフィギュアみたいなそれらを抱え、ブルーシートの上に並べていって、浴槽の縁に腹部を載せたままの胴体が残る。手も足も、首から上もない、ずしりとしたそれを抱え、ひっくり返した自分の目が、やせた乳房と下腹部の荒れ野をとらえた。さっきのシャワーで濡れた肉は、早くしてほしがっているようだった。
 そのつもりだ……――
 血まみれの首をペティナイフで切り開き、むき出しにした食道を結束バンドで縛る。次は肛門部を、と屈んだところ、固く閉じたものが目に入った。指をねじ込み、こじ開けてやろうとしたが、ぬくもりのないそこは閉ざされたままだった。悪趣味だなと苦笑した自分は、その下をぐるっと切ってべろりとむき、肛門部にナイロン袋をかぶせてから結さつした。
 スキナーナイフに持ち替え、下腹部をアーチ状に切り、さらに胸の方まで開く。あらわになった内臓を引きずり出し、むおっとする臭気ごとほとんどをごみ袋に入れる。胃や腸なども今回は見送っておこう……ごみ袋の口をきつく縛って、軽くなった胴体と心臓などをブルーシートの上に加え、汗でべたつく手をビニール手袋から抜いてスマホをつかむ。
 カメラを起動させ、角度を変えて何回も撮影し、その中から一番良いものをSNSに投稿したところ、たちまち反応があった。キン、キン、キン、と金属的な通知音が続く。どうやってハントしたのか、どんな「うさぎ」だったのか、殺したときの状況は……矢継ぎ早の問いかけは、エナジードリンクよりも効き目があった。
 もう、ひと頑張り……――
 ビニール手袋をはめ、解説動画を流しながら、まず右大腿部に刃を入れ、皮膚をはぐと黄色い筋子っぽい層が見える。脂肪だ。そのさらに下からは、鮮やかな赤身の肉……切り取り、食べてみる……舌から染み入る、とろりとしたコク……トロのようでもあるし、牛や馬の肉にも似ているような……それにしてもやはり、以前通販で購入した肉切れとは鮮度からして違う……この「うさぎ」は栄養状態が良くなさそうだったが、この味ならまずまず……自分はよくかみ、味わって飲み込んだ。
 解説動画に手取り足取りされ、皮膚をはぎ、脂肪をそぎ取り、骨から肉をはがしていく……途中、砥石で刃を研いで両手足、胴体、頭部を解体し、ビニル袋で分け、今日明日の分は冷蔵庫、その他は中古で購入した大型冷凍庫に詰め込む。頭髪など不要なものは新しいごみ袋に放り込み、ようやくブルーシートの上には、いくらかの血と脂、肉の切れ端などがあるばかりになった。
 自分はロフトへのはしごに腰をかけ、ヘアキャップを外してSNSをチェックした。
 おっ……――
 一躍有名人になった、と言えば笑われるだろうが、普段注目されることのない自分にはそれに近かった。プチとはいえ、バズっている。こんな経験は初めて……これでようやく認められた、一人前だと感じられた。レスは興味や賞賛が大半、残りはいまだに「うさぎ」を仕留められない者の妬み、もしくは「子猫」――女児や「子犬」――男児などの方がいいという連中だった。好みはそれぞれであって、「外来種」をターゲットにする者も少なくない。個別に応答はしていられないので、経緯を簡単にまとめて更新する。SNSで募集し、コンタクトしてきた相手と交渉して……途中で連絡が取れなくなったり、待ち合わせ場所に現れなかったりとあっての、ようやく仕留めた「うさぎ」だった。
 これで食費も二週間くらい浮く……――
 募集は継続しているから、またかかったらさらに助かる。後始末が大変ではあるが……明日は可燃ゴミの日、忘れずに出さないと……――
 さて、と重くなりかかった腰を上げ、自分はブルーシートなどを片付けてから浴槽掃除に移った。臭いが染み付かないよう底面や内側面を洗剤で洗い流し、ぐたっとへたり込んで……思った以上に疲れた……明日も稼がなければならないのに……――
 そうだ……――
 前のめりに立ち上がって、自分は冷蔵庫に向かった。新鮮なうちに食べよう、スタミナをつけるんだ。切り分けた右大腿部の肉に塩、こしょうを振り、オリーブオイルを熱したフライパンでまずは強火、それから弱火で焼いて裏返し、側面もこんがり焼き色をつけて、香ばしく、よだれを誘うにおいが広がっていく。もも肉のステーキ、出来上がり……――
 いただきます……――
 コンロの前に立ったまま、フライパンの上にフォークを突き立てる。心地よい歯応え、満ち足りていく肉の味……生肉も良かったが、旨さを引き出されたこれこそ絶品……自分で仕留めた獲物だから、美味しさもひとしおだった。
 自分は「うさぎ」を、人を食っている……――
 そのことが、自分を一段と高揚させ、うっとりとさせていく。舌と胃袋が、もっと、もっと、とせがむので、もう半切れ追加し、それでも食べ足りなかったので乳房の片方を火にかけた。切り口から薄黄の脂肪が溶け出し、小振りの乳首がわななく。ピッチャーに移した血をマグカップに注ぎ、コンロの脇に置いて、フライパンに顔を突っ込まんばかりに自分はかじりついた。
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