第2話

文字数 1,381文字

 果たしてベンゾーは河川沿いの工事現場に停留してあるショベルカーのキャタピラーの隙間でおびえていた。何にその野望を打ち砕かれたのか分からなかったが、すっかり警戒心の塊になってしまったベンゾーは、飼い主にも爪を立てる勢いで、ミオは根気強くなだめ、チュールでおびき寄せてからすごい勢いで抱きしめた。フギャフギャフギャー! ベンゾーは耳の毛を逆立てて嫌がりながらも、チュールだけはしっかり舐めた。
「ミオ、ベンゾーの声が聴こえたの?」
 ミオは細かく何度も首肯した。
 猫の心の声とはどんなものか、言語に支配されていない思念など僕には想像できなかった。
「あのね、ゴムの膜に思いっきり空気をぶつけて無理やり振動させたような音なの。なんかウシガエルっぽい感じ。流石に何を主張したいのかとかは、ぼんやりとした感覚しか伝わらないから、コミュニケーションは取れなくって。でも今日は虫の鳴き声くらいしかなかったでしょう。虫の思念はちっちゃかくてマッチの擦過音ていどなので、逆に遠くまでよく聞こえたの。良太君もお姉さんも作業に集中してくれてたから、わたしも心の声に耳をすませることができました。すごく嬉しい」
 本当によかった。ミオが笑顔なだけで僕も嬉しい。
 しかもこれ、好きバレしてないっぽいし。
「あ、うん。好きバレしてないよ」
 ミオの目は真ん丸だった。
「さっきまでは…」

 ミオと僕とは小・中・高とずっと同じ学校だった。僕は小学校三年生の時に父親の仕事の関係で町に越してきた。僕の家の前の道が広い農道につながった先の、右も左も佐藤姓の部落の中にミオの家はあった。
 そのせいで、僕はまったくミオと仲が良くない時から、ミオが田んぼの中を帰っていく姿を見ていた。秋の田、冬の田、春の田、夏の田。特に夏の田の中を帰るミオが印象的で、昔はハンチング帽に合わせてパンツルックが多かったから、遠目には男の子のようで、そんなに活発な印象はないのだけれど、僕がミオを呼び、ミオは帽子を右手で押さえて振り返る。ああそうか、印象派の画家が日本を好きだってことと、日本人が印象派の絵画を好きだってことは、同じことなんだ。そんな田んぼも、もう今では何ヘクタールもソーラーパネルになってしまっている。

 ミオは美化委員と園芸委員を兼任していた。放課後になると延長ホースを二つ分ジョイントさせたシャワーヘッドを校門の傍までゾロゾロと伸ばし、寄贈の花水木から順番に水を撒き始める。満天星躑躅(どうだんつつじ)百日紅(さるすべり)、山法師、馬酔木、紫陽花、馬酔木、紫陽花。緑色の如雨露(ジョウロ)に水を入れて、ペチュニア、サルビア、マリーゴールド。
 その途中で空き缶があれば拾い、落ち葉が散らかっていれば掃き集めた。ミオが熊手を持っているだけで、セーラー服が巫女装束に見えたといえば大げさになるだろうか。
 この時僕はどこにいたんだ? 
 好きバレする前はいっしょに手伝ったりしてたけど、たしか、好きバレした後は思いっきり全速力で逃げ回られていたんだ。僕は美術部にイーゼルを借りて、独学で水彩画なんて始めたりしていた。ミオの咲かせた花たちを、下手くそな二次元に変換させて、いったい何がしたかったんだろう。ほったらかしにした画用紙にはミオの付箋が毎日一片。
『雑』『へた』『薄い』『濃い』『影』『光』『水』『絵の具』
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