第2話:子供たちの進学、アル・ゴアの環境問題提起

文字数 1,806文字

 たまに、株の立会を見せたり、その緊張感あふれる株売買の現場を見せた。その時、浩一は、怖いと言うよりもファイトが沸いてきた。そして、ここで大金を稼ぎ、でかい男になると心に誓った。中学になると、社会で経済の仕組みや金の循環に興味を持ち勉強した。しかし、大学に行くよりも、できるだけ早く株をやりたいと言う気持ちの方が強い。そろばんも継続して中学3年で、そろばん2段の免除を取った。

 合格時には、おめでとうと言われ、老舗のすき焼き屋に、浩一だけを連れて行って祝ってやった。高校は、亀戸の東京都立江東商業高校に1989年合格して通学を開始。一方、妹の芳江は、兄よりも成績が良く、特に国語、英語、社会がトップクラス、数学もそろばんの英才のおかげで良く、学年でも常に上位にいて、母は、誇らしく感じた。その後、私立の名門校に入りたいと言い青山学院か慶応女子高校に行きたいと思い始めた。

 そのために進学塾に通い始め、めきめき成績を上げていった。1990年春、慶応女子高校への合格確立が、かなり高まると受験を決意。1991年1月、慶応女子高校を受験して合格。アメリカでは、民主党のアル・ゴアは、1993年1月20日に第45代副大統領に就任し、気球温暖化問題に積極的に発言し行動した。彼がこうなったのは、約30年前に1960年、ハーバード大学に入学した頃にさかのぼる。

 学生時代のアル・ゴアは、地球温暖化と公害問題に興味を持った。1959年、ロジャー・ルベールとハンス・スースは、地球温暖化を知るためには、大気と海洋の二酸化炭素濃度をもっと精密に測定する必要性を訴えた。この話を知るとアル・ゴアも地球温暖化問題に、更に興味を持った。振り返ってみると、レイチェルは、1960年代に環境問題を告発した生物学者。アメリカ内務省魚類野生生物局の水産生物学者として自然科学を研究。

 農薬で利用されている化学物質の危険性を取り上げた著書「沈黙の春」・「サイレント・スプリング」は、ベストセラー。その後のアースディや1972年の国連人間環境会議のきっかけとなる。そして人類史上において環境問題そのものに人々の目を向けさせ環境保護運動が、開始される。「沈黙の春」本で、農薬の残留性や生物濃縮がもたらす生態系への影響を公にし、社会的に大きな影響を与えた。

 カーソンの指摘により、生体内に蓄積し食物連鎖により濃縮され安全性に問題が発生する可能性のある農薬には基準値が設けられ規制されるようになった。このような規制は米国だけでなくて世界中の先進国に広がりを見せる。近年まで続く環境保護思想の源流の内の一つにもなった。日本でもカーソンの指摘どおり、当時は安全だと思われて牛乳に含まれていたBHCの危険性が認知された。

 またカネミ油症事件や四大公害病などの大規模公害も明らかになる。同じく当時は無害だと思われていたPCBの野放図な使用やメチル水銀の生物濃縮の危険性が認知された。そして化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律など様々な規制が生まれるに至った。従来の規制では直接的に化学物質と接触して被害を及ぼすような毒劇物の製造・使用等の規制や排出ガス・排出水等の規制だけだった。

 しかし、新しく生まれた規制は長期間にわたって影響を調べるようになった。そのため人体に残留してじわじわと健康に被害を及ぼすリスクに対応。これまでの化学物質の安全性に関する考え方を根本的に覆した。この活動を見て清水浩一は、アメリカでも、こう言う人が、副大統領になるのだと感心。その動向を注視した。民主党のアル・ゴアという名前が、上がり、やがて、副大統領候補として、立候補した。

 彼は、1965年にハーバード大学で、政治学を専攻し卒業した。その後、1969年の6月にハーバード・カレッジ学士号を取得して卒業。アル・ゴアは、アメリカ合衆国南東部出身で小さな農場をもっていた。この1970年頃からアル・ゴアのライフワークとなってる地球温暖化問題について世界的な啓発活動を行う。世界規模で地球温暖化防止の講演をし、その様子を映画にした。当時、この活動は、衝撃的だった。

 アル・ゴアが、地球温暖化問題に興味を持ったのは、大学生の頃、1970年代からロジャー・ルベール博士との影響で「地球温暖化問題」について関心を持つようになった。そして「沈黙の春」の著者、レイチェル・カーソンを尊敬した。
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