5 再訪

文字数 3,547文字

 白川沿いの県道まで戻る頃には、雨は殆ど止んでいた。
 コーヒーでも買って一休みしようとコンビニに入り、トイレを借りたところで、ハンカチのないことに気がついた。霊園の応接室に置き忘れたみたいだ。
 車に戻り、待っていた妻にもコーヒーを渡し、言った。
「霊園にハンカチを忘れた。そんなに思い入れのあるものでもないから、ハンカチがあったら処分するよう電話で言おうかな?」
「まだ近くだから戻ったほうがいいんじゃないの? 処分してもらうのだって手間をかけさせるし」
「最近、忘れ物や、捜し物がなかなか見つからない、なんてことが増えてきた」
「わたしも。特に若い頃しっかりしていた人ほど認知症が進むというから気をつけて」
「これからできないことが増えてくるんだろうな。ロムの病院通いだって、今だからできたと思う。ペットをもう飼いたくないと思うのは、ロムを失うような哀しい思いをしたくないからだけど、十年、十五年ちゃんと世話していけるか、自信が持てないせいもある」
「これからのこと、いろいろ考えなければいけないのはわかっている。でも、今は何か力が抜けちゃって。しばらくは無理かな」
 
    ※
 少し休んでからコンビニの駐車場を出て、来た道を戻っていった。
 ケヤキの木のところまで来ると、朝通った左側の道は、さっきまでの雨のためか木の枝が両側から垂れ下がっていて通りにくそうだったので、右側の道を進んだ。雨が止み視界が広がる中、道路は朝に比べ、嘘のように走りやすく感じた。
 霊園まで戻って来た。建物は、雨上がりの澄んだ空気の中、昼過ぎの明るい光を浴び良く見えるようになったせいか、朝より少し黒ずんで見えた。建物脇には、最近人気の白い箱型の軽自動車が停まっていた。
「女性の母親が帰ってきたのかな」と思った。
 
 妻を車に残し、私が建物に入ると、カウンター奥のガラス戸を開け、黒い上着を着た年配の女性が出てきた。
 午前中対応してくれた女性の顔立ちに良く似ていて、母親にしては少し若いと思ったが、用件をゆっくり尋ねる話し方が、火曜日に予約を受けてくれた女性の口調そのままだった。
「先ほど、たぶん娘さんだと思うのですが、お世話になった者です。忘れ物をしたようなので取りにきたのですが?」
 女性は、少し間を置いた後で
「お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」とゆっくり尋ねてきた。私が名前を伝えると、表情を変え、
「十時に予約されていた方ですか? よかった。なかなかお見えにならなくて、ご自宅にお電話をしてもつながらず、途中で事故にでも遭われたのではないかと心配していたのです」と僅かに口調を早めて言った。そして、
「私どものほうはすぐ始められますが、いかがいたしますか?」と聞いてきた。
 私は混乱しながら
「予約は取れていなかったのですが、娘さんに急遽対応していただいて火葬はもう済んでいるので大丈夫です。応接室にハンカチを忘れたと思い、取りに戻っただけです」と言った。
 女性は、元のゆっくりした口調に戻り
「失礼ですが、他のところと間違っておられませんか? 私どもの施設では、今日はまだ火葬をしておりませんし、私に娘もおりません」と言った。
 私が何も言えないでいると、女性は急に何かを思い出した表情をして、
「先ほどハンカチとおっしゃいましたよね」と言い、ガラス戸の奥の部屋に戻っていった。
 しばらくして、女性が箱を持って現れ、中からハンカチの入った透明のビニール袋を取り出し、
「お客様がお忘れになったのは、もしかしてこちらのハンカチですか?」と訊いてきた。
 私が「それです」と言うと、女性は驚いたような、ホッとしたような表情を見せ、
「私も信じられないのですが、私はお客様に十六年前お会いしているようです」と言い、ビニール袋を裏返した。右隅に、十六年前の今日と同じ日付と、私の名前が書かれたシールが貼ってあった。
 そして、女性は「昔のは、まだデータに移してなくて」と言いながら、箱の中からファイルを取り出した。そこには、私が今朝書いた用紙も、シールと同じ日付のスタンプが押され、綴じられていた。
「十六年前って、さっき火葬してもらったばかりですよ。今も妻が車で骨壺を抱いて座っています。ちょっと待っていてください」と私は言い、車に戻った。

 私からやり取りを聞いた妻は、
「からかわれているんじゃないの?」と言った。
「そう思ったんだけど、からかってくるようなタイプの女性でもないし。それに、妙につじつまの合う部分もあるし」と私は言い、妻とともに骨壺を持って建物に戻った。
 骨壺を見て女性は、
「以前使っていたものです。最近はもっとおしゃれなものを使用しています」と言い、「中を見せていただいてもよろしいでしょうか?」と続けた。
 私が了承すると、女性は壺の前で手を合わせた後、蓋を開けた。そこには、少し黒ずんだ骨が、冷たく入っていた。壺一杯だったロムの骨は、七割くらいに嵩が減っていた。

     ※
 三人でいろいろ話をし、私や妻が経験したことや、女性の記憶をつなぎ合わせると、一応次のような流れとなる。
・私が今週火曜日の午後十時過ぎに霊園に電話をかけ、女性が土曜日午前十時の火葬の予約を受け付けた。
・今日土曜日、私と妻は予定どおり霊園に向け出発したが、着いた先は十六年前の霊園だった。十時の予約は入っていなかったが、今より十六歳若い女性がロムの火葬をしてくれた。
・その間、現在の霊園では、十時に予約した私たちが現れず、女性が心配していた。
・十六年前の霊園を私たちが一度離れ、忘れ物を取りに再び戻ったら、そこは現在の霊園だった。

 到底信じられない話だが、十六年間保管していたというハンカチや、ロムの骨の変わり様を目にすると、一笑に付すことはできなかった。
 最初「あり得ない」と思っていたみんなも、最後は、私と妻が「本当に十六年前の世界に行ってきた」と思うようになっていた。
 
 応接室で、女性の出してくれたお茶を飲みながら、しばらく雑談した後、
「実は十六年前からお客様のこと、ずっと気になっていたのです」と女性は再び話し始めた。
「お客様がいらっしゃったあの日、『母は不在』と申しましたが、本当は入院しておりました。そして、お客様が帰られた後、症状が悪化し翌日亡くなってしまったのです。ハンカチは直ぐ見つけていたのですが、そんなこともあって、ご連絡が遅くなってしまいました。電話を差し上げてもつながらず、郵送しても住所が見当たらない、と返ってきてしまったのです」
「今住んでいるマンションは十年前に新築されたものですし、現在の電話番号も以前のものと違っているので連絡できなかったのも当然です。それにハンカチは特に思い入れのあるものでなく、電話して処分するよう頼もうかと思った程度のものです。ご心配させてしまい申し訳ありませんでした」と恐縮して私が言った。
「それは全然結構だったのですけれど、気になっていたのは、そのことだけじゃないのです。あの日、お客様が火曜日に予約したと聞いて『母が受付の処理をしていなかったかもしれない』と申したと思いますが?」、私が頷くと、
「母の葬儀を終えた後、落ち着いて考えると、母は火曜日の朝に体調を崩して入院していたので、その日の夜に予約を受けたのが母のはずがないのです。それで、実際、誰とお話しされたのかお伺いしたいと思っていました。」と言い、さらに続けた。
「また、ありえないとはわかっていましたが、もし受けたのが本当に母だったとしたら、そこには何か意味が必ずあると思ったのです。火曜日に入院して以来一度も意識を取り戻すことなく逝ってしまったので、伝えたいことが何かあったのではないかとずっと気になっていました。忘れ物は、いつもなら五年くらいで処分するのですが、そういったこともあって今日まで保管しておりました」
 そして少し間を置き、
「お客様の予約をお受けしていたのは、十六年後の私だったのですね」と続けた。
「そういえば、お客様の後にも、二、三年に一度くらい、受付した記録がないのに『予約した』と言われるお客様がありました。いつもたまたま炉の予定が空いていたので対応できましたけれど、ひやひやでした。 ……ということは、これから二、三年に一度くらい、予約しても来られないお客様が出るということかしら」声のトーンを少し上げ女性は話した。
 
 その後、女性が建物を案内してくれた。どこも私が午前中見たときと同じようにきれいに管理されていたが、それからの年数を感じさせる部分もあった。窓から見える墓地や納骨室の棚もだいぶ埋まってきていた。骨壺の前に並ぶ写真や花、様々な「思い出の品」を眺めながら、私も妻も、ロムとの日々を思い出していた。
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