其の拾壱

文字数 4,773文字

 わたくしが、一体何を言われているのか、はじめの内は、よくわかりませんでした。すると弥平さんが立ち上がって、にこやかに笑いながら言うのです。「命が惜しくないってなら、俺に抱かれるくらいは屁でもねえだろう」言葉の意味が、突然、岩の塊のように、どすんと胸に落ちてきました。恐ろしさで目がくらみ、キーンと耳鳴りがします。明るい陽を浴びている木々や稲穂の群れが急に色をなくし、深い水底の影のように、重く、暗くなったように思われました。「そんな金はいらねえし、あんたを殺しても面白くも何ともねえ。ただ、今いっとき、俺に抱かれとけと言っているんだ」弥平さんは気持ち良さげに空を見上げながら続けました。「あんたの兄貴が丹七さんの娘にやったことを、俺があんたにやり返すだけの話だ。道理が通っているじゃねえか」大きな目がぐりんと動いてわたくしを見ました。「ま、無理にとは言わねえ。あんたが嫌ならこの話はなしだ」弥平さんは、そう言ったまま彫像のように動きません。ただ目だけが、鬼の目だけが、影の中で光っていました。わたくしは、震えながら、その目を見返すことしかできませんでした。すると弥平さんが言いました。「だが、俺の前から尻尾を巻いて逃げるなら、死ぬだの生きるだのと二度とほざくなよ。甘やかされたブタ嬢様らしく、縁側でお手玉遊びでもしてやがれ」情け容赦のない、地獄の閻魔様の声です。わたくしは、ただ歯をキリキリと食いしばるばかりで、前にも後にも進めません。今逃げれば、わたくしは、意気地のない裏切り者になり果てるのです。もうおねえさまに顔向けができません。かと言って、男の人の乱暴に身を任せるなど、おぞまし過ぎることでした。弥平さんは、「どうした。帰らねえのか」と呆れたように言うと、箱を大股に跨いでわたくしの前に立ちました。「いいんだな」口元にいやらしい笑いが浮かびました。「ま、牛殺しとなさぬ仲になったと知れれば、あんたはもう誰にも相手にされまい。俺が嫁にもらってやってもいいんだぜ。俺はあんたの兄貴と違って嘘はつかねえ」恐ろしい言葉でした。わたくしは、暗闇の中を果てしもなく落ちてゆく心地がしました。それでも足に根が生えたように、その場から動けないのです。今から思うと、弥平さんは、本気でわたくしを手籠にしようなどとは思っていなかったのでしょう。無理難題を言って、わたくしを追い払うつもりだったに違いありません。でも、どうしたことか、目の前にいる小娘は、一向に逃げようとしないのです。弥平さんは苛々した顔になり、猪のようにフンと鼻から息を吐くと、やにわにわたくしをがっちりと抱きしめました。開いた胸襟から汗の匂いがむんと襲いかかってきました。「どうだ、お得な取引だろう」ぎりぎりと腕が締まり、熱風のような息がかかります。わたくしが思わず顔を背けると、上から馬鹿にしたような声が降ってきました。「それとも牛殺し相手じゃ嫌かい?」わたくしは目を閉じ、体をぎゅっと縮めながら思いました。(これは、私が受けなければならない罰なのだろうか。)弥平さんが言うとおり、わたくしは、おねえさまがおにいさまから受けた仕打ちを、そのままこの身に受けようとしていたのですから。わたくしは、おねえさまと同じ地獄に堕ちるのでしょうか。だとしたら、それは、よいことなのではないかしら?
 その時、暗闇の中で、真っ赤な光が閃きました。「馬鹿者! 賢しらぶって頭を垂れている場合か!」一文字に落ちる雷のような、鬼の叫びでした。爛々と光る二つの目が、わたくしを睨みつけています。「お前の体が、魂が、踏み躙られようとしているのだぞ。鬼なら全力で抗え!」鬼の激しい怒りが押し寄せてきて、わたくしの全身を包みました。わたくしは目を開き、にやにや笑っている男の顔に言葉の(つぶて)を叩きつけました。「私を抱きたいなら抱きなさい!」弥平さんがたじろいだ顔になりました。わたくしは、体に巻きついていた腕を払いのけると、弥平さんに向かってぐいと首を突き出しました。「そのかわり、あなたも私のクソ兄貴と同類になるのよ! それでいいのね!」わたくしの鬼の目が、弥平さんの目をぐりぐりと突き刺しました。わたくしの喉から、ぎゅっと雑巾を絞るような声が漏れました。「私をなぐさみものにして楽しいならそれでいい。男って皆んなそういうものなんでしょうからね。でもあんたの嫁になんてならない。誰の嫁にもならないわ!」涙がポロポロと溢れてきました。怖いからでも悲しいからでもありません。悔しくて悔しくて、憎くて憎くて、涙が止まらないのです。歯がぎしぎしと鳴って、隙間から呪いの言葉が流れて出ました。「私はこれから一生、あなたを恨んで、憎んで、蔑んで生きてやる。絶対に許さない。でも、あなたには屁でもないんでしょう。おにいさまがあさ子さんにしたみたいに、私を足蹴にして、女を足蹴にして、笑って生きていくのでしょう!」こうしてお話ししていても、とてもわたくしの口からついて出た言葉とは思われません。鬼が、わたくしの声を借りて喋っていたのです、弥平さんは、言葉もなくわたくしを見つめています。「何をカカシみたいに突っ立ってるのよ!」わたくしは、虎のように叫ぶと、自分の着物の襟をぐいっと押し下げて、肩をむき出しにしました。「ほら、さっさと私を抱きなさい。牛殺しだろうと大臣だろうと、男なんて皆んな同じ畜生だわ。それを我慢して抱かれてあげようっていうのよ!」すると、呆気に取られていた弥平さんの目に怒りの火が点り、煮えたぎる溶岩のような声が、喉を割り裂くように出てきました。「お前みたいな甘えた餓鬼が、俺にわかったようなことを抜かすな!」言葉が終わるか終わらないかのうちに、わたくしは吹き荒れる嵐のような力でもみくちゃにされました。ごつごつした手が襟首をつかみ、わたくしの体をどうと地面に叩きつけました。痛みで息もできません。それでもわたくしは闇雲に手足を振り回して抗いました。弥平さんは無言のまま、わたくしの肩をがっちりと抱きすくめ、鼻と唇を、頬といわず首といわず胸といわず、ごんごんとぶつけてきました。わたくしは目を閉じて、体をぎゅっと丸め、両腕をかき抱いて身を守りました。もう、それしかできることがなかったのです。祈りの言葉が、思わず口をついて出ました。「おねえさま…」
 すると、弥平さんの動きが急に止まりました。かと思うと、わたくしを羽交締めにしていた腕が離れ、大岩のようにのしかかっていた重みがふっと去りました。そのまましんとして、風が葉擦れを起こす音だけが聞こえています。わたくしが、何ごとかと目をあけ、楽になった体を起こしますと、弥平さんの姿が見えないのです。いえ、恐る恐る首をめぐらせてみると、弥平さんは、少し離れた柿の木の根元で、頭を抱えてうずくまっていました。座り込んだ姿は、石像のようにじっと動きません。それからどれほどの時間が経ったのでしょう。わたくしが、ただ息をつめて、じっと見ておりますと、節くれだった腕の間から、暗く、疲れ切った目が覗きました。丹七さんが、お祭りの夜に見せた目と同じ目です。怒りが全部去って、悲しみだけが残った目でした。「何を見ている。早く行っちまえ」力のない、ため息のような声です。わたくしの中から、恐れの気持ちは消えていました。「どうして、私を襲うのをやめたの?」そろそろと近寄りながら尋ねると、弥平さんは側に転がっていた木の枝を掴んで乱暴に放り投げました。「それが何になる!」思わず、心に浮かんだことが、声になりました。「弥平さん、おねえさまが好きなんでしょう」大きな目がぎょろりと動いてわたくしを見ました。「おねえさま?」「あさ子さんのことよ」わたくしと弥平さんは、しばらくの間、無言で見つめ合いました。涼しい風が、わたくしたちの上を吹き過ぎて、乱れた髪を揺らし、柿の木の葉っぱをしゃらしゃらと鳴らしました。弥平さんが目を逸らしました。「お前が知ったことか」でも、弥平さんの中の鬼は黙ったままで、わたくしに別の言葉を伝えていたのです。だから、わたくしは言いました。「私もおねえさまが好きよ。おねえさまのためなら、死んでもいいと思っている」太い二つの眉が八の字に寄って、互い違いに上がったり下がったりしました。弥平さんはしばらくの間、わたくしをギョロギョロと見つめながら、何か考えているふうでした。やがて大きな手が木の箱を指差しました。「これが欲しいってのは、そういうことなのか」わたくしは無言でコクリと頷きました。弥平さんが立ち上がり、わたくしを真上から見下ろして尋ねました。「で、どう使おうっていうんだ」すると、まるで水が流れるように言葉が出てきました。「奥の間にばら撒いて、おにいさまの祝言を邪魔してやるの」不思議なことです。おねえさまにも丹七さんにも決して漏らすまいと思っていた秘密を、赤の他人の弥平さんに平気で喋ってしまったのです。弥平さんの顔色が変わりました。「正気かおい…」そう言ったきり、次の言葉が出てこない様子です。「そうよ」私が大真面目に頷くと、弥平さんは、しばらく呆れ顔をしていましたが、フンッと鼻を鳴らすと、下を向いて言いました。「おい、ナカノモンは肥溜めのクソじゃねえぞ」「うん、わかっている」わたくしは木の箱の前に行き、蓋をそっと撫でました。「さっきまで、私もそんなつもりだったけど、たぶんこれは、そういうことじゃないんだわ」半分はひとりごとです。「じゃあどういうことだ」弥平さんがしかめ面をして近寄ってきました。「ねえ、ナカノモンを、もう一度見たいのだけど」とわたくしが頼むと、弥平さんは「いいけどよ」と言って蓋を横にどけました。また、不思議な匂いがぷんと鼻をつきます。わたくしは、夢に出てきたお化けそっくりの、薄紅色をした塊を、そっと両手の上に乗せました。ほのかな甘い香りと、つるつるとした手触りと、まだ少し残っている温もりが愛おしく、わたくしは思わず目を閉じて、頬にぴたりと当てました。「おい、あんた何をやっている」と声がかかります。わたくしはうっとりしながら答えました。「これはきっと、おねえさまの魂なんだわ。そんな気がするの」何の返事もありません。目を開けると、弥平さんが口を半開きにして、まじまじとわたくしを見ていました。「だから、このお化けたちに、仕返しのお手伝いをしてもらうのよ」たぶん、その時のわたくしは、朗らかに笑っていたのです。弥平さんは地面を向いて「イカれてやがる…」と言いました。そして深いため息をつくと、またわたくしを見て言いました。「だが、俺がこれをあんたの屋敷まで持っていくわけにはいかねえ。あんたこれを一人で担いで帰るっていうのか」わたくしはハッとしました。弥平さんの言う通りでした。行商の肉売りたちは、その頃、穢れた者だとみなされていたので、村の中を通り抜けることができなかったのです。かと言って、わたくし一人でこの大きな箱を背負って帰るのは無理な話でした。だいいち、目立ってしょうがありません。「どうしようかしら…」弥平さんは、急におろおろし始めたわたくしをよそに、顎に手をやって、しばらく何か考えているふうでした。やがて、大きな手がパンと音をたてました。「よし」弥平さんは、わたくしが手にしていたナカノモンを箱の中に戻すと、蓋を閉めながら言いました。「しょうがねえ。今夜俺がこっそり持ってきてやる。あんたは裏口の前で待っていてくれ」わたくしは小躍りして喜びました。「いいの?本当に?うれしい!」すると大きな手がにゅっと伸びてきました。「え、なに?」とわたくしが尋ねると、弥平さんは目をまん丸にして怒鳴りました。「金だ金!」
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