其の七

文字数 3,261文字

 あの晩、おねえさまを床に寝かせてから先のことは、よく覚えていません。わたくしに残っている記憶は、おねえさまに手を握られたところで途切れてしまい、次はもう翌朝なのです。わたくしは家族と一緒に朝餉の膳を前にしておりました。庭から差しこむ斜めの光に照らされて、鍋の汁がたてる湯気が青く立ち上っています。その向うに父と母が並んで座り、おにいさまはわたくしの斜め前ですまし顔をしていました。昨夜の浅ましい振舞いがまるで嘘のようです。母がしみじみと言いました。「こんな風に、四人でご飯を食べるのも、これが最後かしらねえ」父は珍しく上機嫌で、「これから賑やかになるぞ」と楽しげに言ったかと思うと、おにいさまに向かって「そら、お前がしっかりせねばならんのだ」とおどけた声をあげました。おにいさまは「はいはい」と言って、箸を口に運んでいました。平凡で、安らかで、希望に満ちた、一家団欒の景色です。でも、わたくしは、ここはもう、自分がいるべき世界ではないのだと知っていました。わたくしの前にあるのは、あやかしが作り上げた偽物の舞台なのです。薄っぺらい書き割りをぺろんと剥げば、後ろには地獄の業火が燃えているのでした。すると、父も母もおにいさまも、鬼や狐の類いが人の皮をかぶって、下手なお芝居をしているようにしか見ません。まるでお化けの世界です。そのお化けの世界の中で、わたくしはひとりぼっちなのです。
 わたくしは、なるべく誰とも話をしないようにして、逃げるように女学校の寄宿舎に戻りました。おにいさまの婚礼はお彼岸の予定でしたから、来月の半ばにはまた家に戻らなければなりません。学校で過ごしたのは、ほんのひと月たらずでした。その間、わたくしは、昼間は上の空で過ごし、夜はいつ果てるとも知れない、重苦しい夢の中で生きていました。以前はあれほど楽しかった勉強も、同じ歳の女の子たちとの語らいも、何もかもが、かさこそと音を立てる枯れ葉か、蝉の抜け殻のようなものに変わってしまいました。ここもまた、おねえさまを無情に追い出した、憎いお化けの世界の一部なのですから。少女たちのさんざめきも、オルガンの音も、先生たちの威厳のある歩き方も、所詮はあやかしのお芝居なのです。わたくしの家と何も変わりはありません。わたくしは、昼も夜も、お守りのように、おねえさまの姿を心に浮かべていました。まばゆいばかりに輝く、あの白い肌です。その印象(イメエジ)は、わたくしに勇気を与えてくれました。わたくしがこの世にいるのは、ただ、おねえさまのためなのだと、わたくしは、何度も自分に言い聞かせました。でも、夜ともなると、その白い肌が全く違う顔をして迫ってくるのです。夢の中で、白いものが、わたくしを追いかけてきます。いつか聞いた、あの恐ろしい叫び声をあげながら。形も定かではないお化けは、わたしのすぐ後ろに追いすがると、風呂敷のように広がって、わたくしを呑み込んでしまいます。わたくしは、柔らかく、温かい闇の中で、もみくちゃになりながら悲鳴をあげます。するとわたくしの声は、わたくしを追いかけてきた叫び声と、もう区別がつかないのでした。
 心の動きは、知らないうちに表に出るものです。同級の女の子たちは、わたくしを遠巻きにするようになりました。すると、ひとりの同級生が近づいてきました。その人は少し変わっていて、白い野菊の群れのような少女たちの間で、ひとりだけ大人の雰囲気を漂わせていました。先生の態度を公然と批判したり、派手な色のリボンを髪に結んだりと、今で言う、不良の走りのような女の子でした。わたくしは、その子があまり好きではありませんでしたが、彼女がこっそり持ち込んできた「平民新聞」を、皆で回し読みしたりということはあったのです。わたくしたちも、小娘だてらに、思えば随分と大胆なことをしたものです。その方は(みどり)さんという名前でした。お昼休みに、わたくしが、窓際の席でぼんやりと外を眺めていると、翠さんが「ねえねえねえ」と声をかけてきました。彼女は、大柄な体をわたくしに寄せて、目をキラキラさせながら言うのです。「たか子さん、あなた最近、面白いことを考えているのでしょう」「面白いこと?」わたくしは鸚鵡返しに尋ねました。わたくしの気分と、あまりにかけ離れていたものですから。すると翠さんはあっけらかんと言いました。「そうよ、あなたそういう顔をしているもの」「どういうこと?」と尋ねると、彼女は一歩下がり、わたくしの顔を値踏みするような目で見て、「だってあなたは、革命家の目をしているわ」と言うのです。「カクメイカ?」あまりに突拍子もない言葉に、わたくしがきょとんとしていると、翠さんが顔を近寄せてきて、小声で言いました。「うん、あなたは世の中に絶望しているもの」その言葉は、西洋芝居の暗殺者が振るう短剣のように、わたくしの胸深く突き刺さりました。翠さんは、不意打ちが大成功したことに気がつくふうもなく、話を続けました。「絶望していると、死ぬか殺すか、革命を起こすしかないじゃない」
 わたくしはそれから、翠さんと何度か二人きりでおしゃべりをしました。お昼休みに校舎裏で落ち合ったり、就寝前の勉強の時間に、示し合わせてこっそりと会ったりしたのです。翠さんは、宝のように大事にしていた「平民新聞」を持ってきて、そこに載っていた「共産党宣言」のあれやこれやの言葉を指差し指差し、とても難しいお話をするのです。わたくしには半分もわかりませんでしたが、それが世間を騒がす危険思想なのは知っておりました。それでも彼女の話に耳を傾けたのは、わたくしの逃げ場のない心に、一時(いっとき)、気持のよいそよ風が吹くような心持ちがしたからです。「私の家だって地主だから、いうなればブルジョワなんだけどさ、やっぱり私たちも、プロレタリア階級と連帯しなきゃならないと思うのよね」翠さんは尖った顎を持ち上げて、斜め上を見ながら言いました。かと思うと、難しい言葉ばかりが並ぶ紙面の上に屈み込み、せっぱつまったような顔で言うのです。「ほら、マルクスは、ブルジョワ階級の没落は不可避だと言っているわ。だったら、泥舟からはさっさと逃げなきゃ」そんなふうに、翠さんは、大きな瞳をくるくるさせながら、夢物語のようなお話を、尽きない泉のように喋り続けたのです。彼女は何度も何度も言いました。「戦わなければだめよ、たか子さん」それは、その通りだったのです。わたくしの敵も、考えてみれば、このお化けの世界全部でしたから。でも、わたくしと翠さんとでは、肝心な所が違いました。わたくしには、世の中を変えるなどという、大それたことは考えられません。ただ、おねえさまが大好きなだけで、ただ、おにいさまたちが憎いだけなのです。それだけなのです。そんなわたくしが、一体誰と連帯すればいいのでしょう。それでも、翠さんのお話は、わたくしの迷った心に、一筋の道を作ってくれました。わたくしは、おねえさまのために、ただ、おねえさまのためだけに、世の中全部を敵に回す、ひとりぼっちの革命家にならなければならないのでした。
 わたくしは、婚礼の準備のため、間もなく家に戻りました。翠さんとのおつきあいはそれきりです。ずっと後になって、風の噂で、翠さんが大逆罪で捕まり、獄死したと聞きました。激しい生き方をされた方なのです。何かの折に、翠さんが、ぽつりと言いました。「思想は、恋じゃないかしら」その言葉を、わたくしは忘れることができません。ただ一時、すれ違っただけの間柄といえば、それだけなのです。それでも、翠さんが巻き起こした風は、確かにわたくしに向かって吹き、その前と後とで、確かに何かが変わりました。わたくしの革命は、翠さんの夢見た革命と違って、とてもささやかなものです。わたくしの活動家としての使命は、ただひとつ、おにいさまの婚礼の場所を、母屋から離れに変えること、それだけでしたから。でも、それだけのことが、小娘のわたくしには、途方もなく難しかったのです。
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