其の拾弐

文字数 5,004文字

 家に戻ってみると、大勢の人たちが右に左に走り回っていました。見知った人もいれば、今まで会ったことのない人もいます。おにいさまの婚礼を明後日に控え、誰も彼もが浮き立つような顔をしていました。わたくしの目には、そんな様子が皆、薄暗い陰絵のように映りました。弥平さんとの間に起きた、あまりに激しい出来事が、ぎらぎらと輝く太陽のような熱い塊になって、わたくしの胸の中に居座っていたからです。すると、上機嫌だったかと思うと急に癇癪を起こす父も、お手伝いさんたちに何くれと指図をする母も、神妙な顔をして、年長の村人たちから婚礼の作法を教わっているおにいさまも、台所と井戸の間を忙しく行き来するちよばあさんも、まるで白黒の活動写真のように、遠く、のっぺりと見えるのです。そこには、いくらか滑稽な感じもありました。
 夜になると、家の中は早々と寝静まりました。わたくしは布団に横たわりながら、じりじりと夜中が来るのを待ちました。これから天地の全てに背くような、大それたことをするのです。このわたくしが、です。とても信じられないことでした。真っ暗な空の中を、一筋の糸を辿って登ってゆくような、そんな心細さです。それでも、全部が避けられない運命なのは確かなことでした。わたくしが乗っている馬車は今、断崖に向かってひた走っているのです。もう降りることはできません。
 やがて階段の下から、柱時計が鐘を打つ音が聞こえてきました。ボーン、ボーンと、容赦なく時が進んでゆく音は、数えると十一ありました。弥平さんと約束した時刻です。わたくしは、寝床からむくりと起き上がり、そろそろと部屋を抜け出しました。まるで見えない糸に操られているように、体がふわふわと前に動いてゆくのです。勝手口から裏庭に出ると、半欠けの月が空に浮かび、あたりをぼんやりと照らしていました。わたくしは井戸の脇を足音を立てないように抜けて、裏木戸をそっと開けました。すると低い声がしました。「遅えぞ」見ると、小道を挟んだ反対側の暗がりに、朧な人の姿がありました。後ろを流れる小川が、かすかな月の光に照らされ、コポコポと音を立てています。細長い影は、鬼火のように揺れる光を背にして、すっくと立っていました。「弥平さん」わたくしが小さく声をかけると、弥平さんは私の前にやってきて、後ろを指差しました。「これで足りるかい」何やら小山のようなものが、道の脇の草地に置いてあります。近寄って見ると、それは大八車で、上に大きな木箱が五つも乗っているのでした。わたくしが驚きで口もきけないでいると、弥平さんがのっそりとやって来て、隣に立ちました。「ありったけかき集めてきたが、お嬢さんはこれをどう運ぼうっていうんだい」これを全部、奥の間に運ぶのは、容易なことではありません。わたくしが困り果てながら、「どうしよう。桶に掬って、少しずつ持っていこうかしら」と言うと、頭の上から大きなため息が聞こえました。「おいおい、そんなんじゃ夜が明けちまう」わたくしが何も言えないでいると、不意に声がかかりました。「なあ、俺が手伝ってやろうか」わたくしが「そんな…」と言いかけると、弥平さんは早口で言いました。「これは商売だからな。あんたにもらった金なら車十台でも釣りがくる。それぐらいやらないと俺の気がすまねえ」「でも、もし見つかったら大変よ」とわたくしが言うと、弥平さんが笑い混じりに言いました。「俺は平気さ。あんたは困るかもしれないが」炭のように真っ黒な顔の中で、月の光を映している目だけがかすかに見えました。そこにどんな思いが浮かんでいるのかはわかりません。「じゃあ、お願いするわ」とわたくしは言いました。こうなるのは最初からわかっていたことなのだと、わたくしは思いました。
 勝手口と奥の間は、廊下一本でつながっています。灯明やカンテラを灯すと家の者に気づかれる恐れがありましたから、わたくしは木箱を担いだ弥平さんの先に立ち、息を潜めて真っ暗な廊下を進みました。これからわたくしがしようとしていることは、あまりに突拍子もないことでした。もし誰かに見つかったら、申し開きの言葉も見つからないでしょう。物取りをして捕まる方がまだましでした。黙って後ろをついてくる弥平さんだけが、この世でたったひとり、私を理解してくれているのです。つい半日前までは赤の他人でしたのに、思えば不思議なことでした。幸い、誰にも見つからずに、わたくしたちは廊下を五回行き来しました。わたくしが襖を閉めると、弥平さんが持っていたマッチを擦り、部屋の両脇に並んでいた灯明台に次々と火を点しました。今まで真っ暗だった部屋の中が、急に眩しいほどの明るさになりました。床に敷かれている毛氈が血の池のように輝き、白木の三方に載せられたお供えものや、あちこちから届けられたお祝いの品々が、灯明の光を静かにはね返しています。下座に棺桶のような木の箱が、五つ並んでいました。わたくしが弥平さんに危ないからもう帰るように言うと、弥平さんは首を横に振って言うのです。「いや、俺はあんたがここで何をするのか見ていたい」ゆらめく赤々とした火に照らされて、わたくしを見つめる弥平さんの顔は、真剣そのものでした。「でも、これは私の問題だもの」と言い返すと、弥平さんはまたゆっくりと首を振りました。「違う、これはあんただけの問題じゃない」わたくしと弥平さんは、黙ってしばらく見つめ合いました。不意に、弥平さんが下を向きました。「いや、俺が馬鹿だった」そして、思いを吹っ切るように顔を上げました。「確かにこれはあんたの問題だ。帰るよ」諦めたような笑顔です。悲しい笑顔でした。そのまま廊下に向かって歩き出します。わたくしの心はもう決まっていました。だから、弥平さんの背中に向かって、「いいえ、ここにいて」と言いました。
 弥平さんが木箱の蓋を開けると、不思議な香りがもわっと広がりました。昼間よりも甘みが強くなっていて、生臭さが混じっていました。お化けたちが、ゆっくりと、死に向かっているのです。弥平さんがすまなそうに言いました。「一度川で洗い直したんだが、今日は暑かったからな」わたくしは箱の底の暗がりに手を伸ばして、形も定かではないお化けの塊を一掴み掬い取りました。たぷたぷとした手触りと一緒に、灰色の袋のような姿が目の前に現れました。わたくしは、灯明の火でぬめぬめと光っているお化けをじっと見ました。柔らかく、力なく、頼りなげです。まるでわたくしの分身でした。「頼むわよ」目を閉じて、頬擦りした後、足元の毛氈の上にそっと置きました。お化けはぶよぶよと平たくなって、真っ赤な床の上でゴロンと寝返りを打ちました。わたくしは思わずクスッと笑いました。おねえさまの仇を討つ最初の一太刀にしては、ちょっと拍子抜けです。もう一掴み、箱から取り出すと、それは長い長い管の姿をした肌色のお化けでした。床に下ろして引っ張ると、部屋の真ん中くらいまで届くのです。わたくしが蛇のようなお化けに向かって手を合わせてお祈りをしていると、弥平さんがじれったそうに言いました。「お嬢さん、それじゃ明日の夕方になっても終わらねえぞ」そして木箱の端をよいしょと持ち上げました。縦に立ち上がった木箱から、お化けの群れがどっと流れだします。血の色をした毛氈の上に、赤黒い小山ができあがりました。天辺近くでもぞもぞと動くものがあります。襞だらけの紫のお化けが一匹、重なり合っている仲間の上を、ぬるぬると這い回っていました。よくよく見ると、それは凸凹したお化けの山肌を滑り落ちているだけだったのです。それにしても、まるで生きているようでした。弥平さんが言いました。「俺が全部まけておくから、あとはあんたが好きにやればいい」弥平さんは残った木箱を下座から上座へと並べて、順繰りに中身を床にあけてゆきました。毛氈の上は、たちまちお化けたちの川になりました。どろどろと渦を巻く、色々な形のお化けたちは、まるで磁石のように、わたくしの目をつかんで離さないのです。そうです、あの者たちは、確かに生きていました。甘い死の香りをふりまきながら、身じろぎもせず、揺らぐ灯りをてらてらと映しているばかりでしたが、それでも、見えない目でわたくしを見つめ返し、物言わぬ言葉で、わたくしに何ごとかを語りかけています。夢に出てきた恐ろしいお化けたちが、すっかり親しげな顔をして、わたくしの足元にうずくまっているのでした。わたくしはせせらぎに足をひたすように、お化けの流れにそっと踏み入りました。裸足のくるぶしを、冷んやりとしたお化けたちがくすぐります。わたくしはなんだか嬉しくなって、くつくつと笑いながらお化けの流れの真ん中まで足を進めました。見回すと、一面に広がった臓物が、互いにもつれ合いながら、燠火のような赤黒い光を放っています。すると、目の前のお化けたちの姿に重なりあって、別の景色が見えてきました。真っ赤に咲き誇る花の群れです。明るい陽の光に照らされて、見渡す限り広がっている曼珠沙華の原でした。活動写真のトリックや、蜃気楼のような幻とは違うのです。わたくしの目が見ていたのは、確かに死んだ牛の臓物でしかありません。でも、そのお化けたちが、その姿のまま、同時に、鮮やかに輝く曼珠沙華の花なのでした。ゆるゆると滅びに向かう者たちから匂い立つ、気だるく甘い香りが、そのまま、むせ返るような草いきれなのです。昨夜迷い込んだ不思議な花園が、お化けたちの群れに形を変えて、今、わたくしの目の前にあります。でも、あの時と違って、そこにおねえさまの姿はありません。ただ、わたくしと、無言のまま咲いている真っ赤な花たちがいるばかりです。急に、何とも言えない寂しさが襲ってきました。「おねえさま…」わたくしは、見えない人をかき抱くように両手を広げて、夢と現の間に咲く花々の上に倒れこみました。柔らかな草地と甘い香りがわたくしを受け止めます。わたくしは、花の群れに顔を埋めて、思い切り泣こうとしました。でも、不思議なことに、わたくしの体から出てきたのは涙ではなく、ケタケタという笑い声でした。わたくしが泣きたくても、わたくしの中の鬼が笑っているのです。それは、腹の底からの高笑いでした。
 すると、変な声が聞こえました。うう、といううめき声です。わたくしは我に返って起き上がりました。すると臓物の川のほとりで、弥平さんが肩を震わせて泣いていました。眉間に深く皺を寄せ、足元のお化けたちを睨みつけるようにして、大きな目から、はらはらと涙を落としているのです。「どうしたの、なんで泣いているの」とわたくしが尋ねると、弥平さんは「うるせえ!」と叫んで、その場にどっかりと座り込みました。わたくしが近くに寄ると、弥平さんは頭を落としたまま、両手の拳を握りしめて咽び泣いています。涙が頬を伝い、ぽたりぽたりとお化けの上に落ちました。わたくしは、弥平さんの角ばった肩に手を置いて聞きました。「大丈夫?」「あんたにゃわかるまい」弥平さんが掠れた声で言いました。「俺が今までどんな思いで生きてきたか、どんな思いでここに来たのか、お嬢さんにゃわかるまい」すると低い声が言いました。「いいや、わかる」わたくしの口を借りて、鬼が喋ったのです。涙のたまった大きな目が、はっとわたくしを見ました。今度はわたくしが言いました。「わかるわよ、弥平さん」弥平さんは目をぎゅっとつぶりました。きつく噛み合った歯がガチガチと鳴り、肩が震えだします。「畜生、どうしてこんな…」言葉が途切れて大きな嗚咽に変わりました。わたくしは、思わず弥平さんの背中に抱きつきました。「つらいよね。つらいよね…」
 その時です。「何の騒ぎじゃ」と声がして、襖がガタンと開きました。見ると、カンテラを手にしたちよばあさんが廊下に立ち、抱き合うわたくしと弥平さんをまじまじと見つめていました。「お嬢さ…」と言いかけたまま、声が続きません。ランプの灯が仰天した顔を照らしています。フクロウのようにまん丸になった目がわたくしから離れ、後ろの床を見ました。「ひ…」ちよばあさんは喉から笛のような声を立てると、ぺたんと尻餅をつきました。一瞬の後、怪鳥のような悲鳴が廊下に響きわたりました。「だ、誰か!」
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