其の九

文字数 4,589文字

 翌朝、わたくしは、とてもさわやかな気持で目を覚ましました。昨日までの重苦しい気分が嘘のようで、頭の中も、目の前も、どこまでも明るく透き通っているのです。昨夜のできごとが、わたくしの心と体を、すっかり新しく生まれ変わらせたのでした。あの時、私が見たものが、どこまでが本当に起きたことで、どこからが夢なのかはわかりません。もしかしたら、夢ですらないのかもしれませんね。ずっと後になって、わたくしの心がこしらえた、まやかしのできごとなのかもしれないのです。わたくしは、ただ、土手の上から、丹七さんとおねえさまの姿を見守っていただけなのかも知れません。でも、今となっては、それはどうでもよいのです。確かなのは、その朝、わたくしが、まったく新しい気持で目覚めたことなのです。
 わたくしは、起き抜けに、誰もいない廊下をそろそろと歩き、奥の間に行きました。障子を開けて覗いてみますと、薄暗い部屋の真ん中に毛氈が敷かれていました。床の間の前には、方々から届けられたお祝いの品々や、鐘木にかけられた綺麗な反物などが並んでいます。婚礼はあと三日の後でした。それまでに、何とかして、祝言を離れであげるように仕向けなければならないのです。おねえさまが、一体どういうつもりで、おにいさまの婚礼の場所を変えたいと望んでいるのかはわかりません。詮索する気持ちもありませんでした。わたくしは、ただ、それをやりとげれば、おねえさまが喜ぶということだけを知っておりました。それで十分だったのです。その他に、ぼんやりした予感もありました。ものごとが、もし、おねえさまが望むように進めば、たぶん、このまやかしの世界が、天地逆さまにひっくり返り、わたくしたち鬼が大喜びするような何かが起きるのです。もちろん夢物語です。朝になってもなお、昨夜の夢が続いているのです。わたくしは、太い柱の間に伸びている黒ずんだ梁を見上げました。薄闇の中、屋敷に積み重なった何百年もの月日が、わたくしをじっと見返しています。すると心の中の鬼が不敵に笑いました。わたくしは、「まあ見ていなさい」とつぶやいて、障子を閉めました。どうしていいのやら、まだ何もわかりませんでしたが、不思議と不安はありませんでした。体の底から、ごつごつとした、たのもしい力がわきあがってきて、足をどんどん前に進めるのです。わたくしは(鬼の力だ)と思いながら、黒光りする廊下をきゅっきゅと踏んで、自分の部屋に戻りました。
 朝の食事では、わたくしはいつになくもりもりとご飯を食べ、おかわりまでしてしまいました。「あらまあ、はしたない」と母が呆れ顔で言うので、わたくしは、「だってこれから忙しくなるのでしょう。わたしだって頑張るわ」と言って、力こぶを作るように腕をふりあげました。父が大笑いして「おまえが頑張ってどうするのだ」と言うと、おにいさまも「じゃあおまえに紋付を着てもらって、俺が杯を運んでやろう」と冗談を言いました。「馬鹿ねえ」と母が笑いました。今までずっとふさぎ込んでいたわたくしが、急に溌剌と振るまいだしたので、皆もうきうきと喜んで、まるでお家に突然春がやってきたかのような賑やかさです。わたくしも、決して心を偽ってお芝居をしていたわけではないのです。鬼になり切ってしまうと、鬼の心はさわやかです。自分が滅ぼし去ろうとしている相手に、気まぐれな情けの心を向けたとしても、そこに何の苦しさがありましょう。おにいさまとも平気で軽口が交わせます。わたくしが「ほら、おにいさまも、もりもり食べなさい。今日も忙しいんでしょ」と言うと、おにいさまは箸を置いて天井を見上げました。「菜っ葉の漬け物は飽きたよ。ああ、また牛が食いてえな」すると、たまたま後ろに通りかかったちよばあさんが足を止め、目をつり上げて言いました。「これ、これから祝言をあげる方が、そんなことをおっしゃるものではありませんぞ」その頃、都会ではだいぶ当たり前に牛肉を食べるようになっておりましたが、田舎ではまだまだ、穢れたものだという考えが残っていたのです。わたくしも、その時分では、まだ牛肉を口にしたことはありませんでした。ロシアとの戦争が始まって、兵隊さんが肉を食べるようになってからは、この辺りでも牛を食べる人がふえてきました。でもそういう人たちは、近所に知られないように、行商からこっそり肉を買って、納屋で食べたり、仏壇の扉を閉じて食べたりしていたのです。すると母が、わたくしを見て眉を顰めました。「これ、お前は何を笑っているのだい?」気がつくと、わたくしは自在鉤をゆるゆると登ってゆく湯気を見上げながら、にんまりと笑っていたのです。鬼の笑いでございました。
 わたくしは、ちょっと散歩にゆくと告げて家を出ると、お社さまの境内を小走りに駆け抜けて、おねえさまの家に向かいました。幸い、誰とも会いませんでした。でも、その時のわたくしは、ひとの目など少しも気にしてはいませんでした。両側にぽつぽつと曼珠沙華が咲いている狭い石段を下りて裏庭に出ると、おねえさまの家は雨戸を閉め切ったままでした。わたくしは表に回って戸を叩きました。「おはよう。たか子よ。丹七さんはいる?」すると目の前の板戸がするすると開き、お猿さんのような顔が覗きました。「おやまあ、お嬢様、どうされました」驚いたような目で尋ねる丹七さんは、いつもの丹七さんで、昨夜のことなどまるでなかったようです。わたくしはかまわずに、暗い土間にすべりこみました。奥でおねえさまが布団に横たわっているのが見えました。まだ眠っているようです。わたくしは、きょとんとしている丹七さんに耳を寄せました。「ねえ、丹七さん、この間おにいさまが持ってきたお金があったでしょう」小さな肩がピクリと動きました。「それがなにか…」丹七さんは顔をこわばらせて、探るような目でわたくしを見ました。おにいさまが投げつけたお金のことを、妹のわたくしが遠慮もなく口にした時、丹七さんに一体どんな思いが過ったことでしょう。今となると、恐ろしいような気がいたします。でも、その時のわたくしは、どこまでも世間知らずな小娘でした。わたくしは、丹七さんの腕をつかんで言いました。「ねえ、あれを全部、わたしにくれない?」大きな目が、まじまじをわたくしを見返しました。「おにいさまの祝言を、離れでやってもらうのに、お金がいるの」すると丹七さんの瞳の奥で、稲妻のような光がキラリと閃いて消えました。かと思うと、丹七さんは下を向いて、低い声で聞きました。「それは、どのように使われるのですか?」「それは…」わたくしは答えに詰まりました。今度のことは、わたくしひとりの胸の内に隠しておきたかったのです。わたくしは、自分ひとりで全部をやらなければならない、おねえさまや丹七さんの助けは借りるまいと独り決めにしておりました。それでも丹七さんのお金だけは当てにしていたのですから身勝手もいいところです。すると丹七さんが顔をあげ、急にしどろもどろになったわたくしを見返しました。いつになく厳しい顔でした。「あの金は、いつか木村様にお返ししようと思って取ってあるものです」私の目の前で、小さな鬼が、静かに怒っています。「ですが、お嬢様の思いつきに差し上げられるようなものではありませんぞ」もちろん、丹七さんの言う通りなのです。天を駆けるようだったわたくしの心は、あっさりと地べたに叩き落とされました。「ごめんなさい…」わたくしは、自分の愚かさと未熟さを突きつけられて、ぎゅっと目をつぶって、ぶるぶると震えるばかりでした。すると奥で声がしました。「父っつぁん」はっと振り向くと、おねえさまが床から体を起こしていました。目をつぶったままの顔が、薄暗がりの中で白く浮きあがっています。まるで能面のようで、何の思いも読み取れません。わたくしは、おねえさままで怒らせてしまったのではないかと、心臓も止まる心地でした。すると薄桃色の唇が動きました。「たかちゃんにお金をあげてしまいなさいな」丹七さんが「だがお前…」と言いかけると、おねえさまが遮るようにして言いました。「たかちゃん、お金は、わたしのために使ってくれるのでしょう」わたくしは上がりかまちに駆け寄って言いました。「そうよ、おねえさま」すると陶器のようだったおねえさまの顔がほぐれて、わたくしに向かって笑いかけました。「ありがとう」目は閉じたままですが、昨夜の不思議な光の下で、わたくしに見せた笑顔と一緒でした。「ありがとうね、たかちゃん」わたくしは、なつかしいような、悲しいような思いに胸を貫かれて、ただその場に立ち尽くすばかりです。「お嬢様」後ろで丹七さんが言いました。「せめて、どう使うのかだけは教えてくださらんか」するとおねえさまが頭を上げて言いました。「父っつぁん、そんなお金は惜しくなんてないでしょう」「もちろんだとも」わたくしが、襟元からすっと伸びた首の線に見とれておりますと、丹七さんが傍らにやって来ました。「しかし、お嬢様が持って出歩くには、金額が大き過ぎます。何かと危ないこともあるのではないですか」わたくしは「大丈夫よ、丹七さん」と答えました。もう迷いはありません。するとおねえさまが言いました。「わたしは、たかちゃんに全部を任せることにしたのよ。信頼してあげなさいな」わたくしは、しみじみとうれしさを噛みしめました。おねえさまは、わたくしの心の内を、全部知っておいでなのです。その上で、全部をわたくしに任せてくださるのです。丹七さんは、少しの間、じっと考えている風でしたが、やがて、下を向いたまま「ようござんす」と言いました。そしておねえさまの枕元を通り過ぎて部屋の奥にゆき、木の櫃を開けました。丹七さんは無言のまま、わたくしの前にやってきて、ごつごつした手を差し出しました。受け取った壱円札は、数えると十枚ありました。わたくしが「ありがとう、丹七さん」と礼を言うと、丹七さんは「くれぐれも気をつけてお遣いください」とだけ言って、わたくしに背を向けました。そして雨戸をガタガタと外し始めました。「たのむわよ、たかちゃん」声に振り向くと、おねえさまはもう笑っていませんでした。(鬼の顔だ)とわたくしは思いました。怖くはありません。鬼が、仲間の鬼を見る目です。わたくしも、鬼として答えました。「まかせておいて。祝言は絶対に離れでやらせるから」その時、わたくしはハッと気がつきました。真顔のおねえさまの顔が、少し歪んで見えるのです。そう言えば、お祭りの日に会った時にも、そんな風に見えた時がありました。するとおねえさまが立ち上がって、こちらに歩いてきました。細い腕が、わたくしに向かってすっと伸びました。わたくしが両手を差し出すと、頬に柔らかい胸がぎゅっとぶつかりました。わたくしはおねえさまにきつく抱きしめられました。その力はとても強くて、身うごきもできないほどです。わたくしはその時、はっきりと悟りました。夢の中でわたくしを追いかけてきたお化けの正体は、おねえさまだったのです。すると耳元で、かすれた声が言いました。「もう、たかちゃんがいれば、わたしは幸せなの」わたくしは目を閉じて、温かい暗闇の中で、(ああ、今死んでもいい)と思いました。
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