其の参

文字数 5,053文字

 その夜、皆が寝静まったころ、わたくしは、自分の部屋をそっと抜け出し、玄関の脇にある、ちよばあさんの小部屋に行きました。ちよばあさんは、床にランプが一灯だけ点った三畳の部屋で、正座してわたくしを待っておりました。わたくしも、ランプを挟んで、ちよばあさんの前に正座をいたしました。ちよばあさんは使用人に当たるとはいえ、お互いにこんなにかしこまった行儀で相対したことは、今までにないことでした。ちよばあさんは、大きなため息をひとつついて、「むごいことじゃ」とつぶやくと、おにいさまとおねえさまとの間に起こった出来事を、言葉を選び選び、わたくしに話して聞かせてくれました。
 その時の気持を、どう申し上げればいいのでしょうか。まだ何もわからぬ子供だったのです。わたくしは、おにいさまとおねえさまが人目を忍ぶ仲になったこと、おにいさまの悪い遊びのせいで、おねえさまが病気にかかり、光を失ってしまったこと、おにいさまが無情にもおねえさまとの縁を切ってしまったことなどを、まるで異国の芝居でも見るような心地で、ぼうっと聞いておりました。でも、ひとつのことは、はっきりと分かりました。わたくしもまた、この冷たく酷いお芝居の舞台にあがっていて、そこから逃げられないのです。その思いが、お腹の底のあたりで、鉛のように重い塊となって、暗い沼の下に、どこまでも沈んでゆくような心地でした。ちよばあさんは、わたくしのそんな気持ちを察したのでしょう。恐ろしい話が終わると、皺のよった額をぐっと近寄せて言いました。「こんな話はしましたが、嬢さまには何の関わりもないことですぞ。大人のことは、大人がなんとかすることじゃ。あさ坊のことも、このばばだって子供同然に思っておる。みんなで面倒を見ればいいことじゃ。だから嬢さまは、今まで通り、にこにこ笑って、何も心配しないで、ご学業をがんばりなさるとええ。ばばに全部、まかせなされ」「でもおにいさまは、おねえさまに、なんでそんな酷い仕打ちをしたのかしら」とわたくしが尋ねると、ちよばあさんは、顔をしかめて「殿方は考えなしに、よくそういうことをするものじゃ。嬢さまにはまだ早い話ですがの。これは知っておいたほうがええ」と低く呟くように言いました。そして咳払いをして頭をあげると、そこにはいつもの朗らかな笑顔がありました。「さあさあ、すっかり話が長くなりましたぞ。もうお休みなされ。ぐっすり眠って、明日の朝には全部忘れてしまいなされ」ちよばあさんは、よっこらせと立ちあがって、わたくしに部屋に戻るよう促しました。
 その時でございます。かすかな、高い叫び声が、どこか遠くで聞こえたのです。わたくしは、はっとして、部屋にただ一つあった、小さな格子窓を見やりました。丸い窓の外は、全くの暗闇でございます。風もなく、虫や蛙の鳴き交わす声もない、しんとしたしじまの底を、叫び声は、聞こえるか聞こえないかのあわいで、時にすすり泣きとなって這いまわり、時に呪詛の叫びとなって高まるようでした。それは、前の晩に、お社さまで聞こえた声と、同じものだったのです。「何か聞こえない?」突然立ちつくして、震える声で尋ねるわたくしを、ちよばあさんは怪訝な目で見守り、自分も少し耳をそばだてましたが、「さあ、なにも」と答えて、心配そうにわたくしを見るのでした。それでも、わたくしが窓の外を見つめたまま、凍りついたように動かないでいますと、「嬢さまはお疲れになっておる。なに、気のせいでございますよ。さあ、ばばがお部屋まで送っていきましょう」と言って、わたくしを抱くようにして、部屋から連れ出したのでございます。叫び声は、暗い廊下を歩いている内に、だんだんと小さくなり、やがて聞こえなくなりましたが、それでも、何かべったりと濡れた冷たいものが、わたくしの背中をどこまでも追いかけてくるような気配が、いつまでも残っていました。
 自分の部屋に戻ってからも、わたくしは、なかなか寝つくことができませんでした。しんとした闇の中で、床に横たわっておりますと、どこか向うから、かすかな悲鳴が聞こえてくるような心地がしてまいります。わたくしは、これは気のせいなのだ、本当は何も聞こえてはいないのだと、無理やりに目をつぶるのですが、浅い眠りにおちると、今度は夢の中で、形のない、白いものが、恐ろしい叫び声をあげながら襲いかかってきて、はっとなって目を覚ますのでした。

 わたくしは、その後おねえさまに会うこともなく、学校に戻りました。同級の少女たちの、相も変わらぬさんざめきの中で、何ごともなく日々が過ぎてゆきましたが、時々、皆が寝静まった夜中に、どこからかあの叫び声が聞こえたような気がして、はっとして目が覚めることがございました。そのような時は、わたくしはもう眠ることができず、暗闇の中で目を見開いたまま、じっと聞き耳を立てるのです。そうしていると、いつも思い浮かんでくるのは、おねえさまは今、どうしているだろうということでした。すると、しんしんと胸が痛んできて、涙がこぼれて来るのです。物憂げにうねる、寒々しい思いのなかで、小さい頃の楽しい思い出がふと、ともし火がぽっと点るようによみがえることもございました。でも、その後には、もっと大きな悲しみが、うねりのように押し寄せてきて、わたくしは、枕に顔を押し当てて、泣き声を押し殺しました。わたくしは、おにいさまに宛てて、何度か手紙をしたためて、おねえさまのことを詰問いたしました。でも、一度も返事が戻ってくることはありませんでした。
 そうこうしている内に、校舎の門の脇にあるお花畑では、桜が散り、躑躅(つつじ)薔薇(ばら)が咲き、紫陽花(あじさい)が宝石のような花々を開いたと思うと、すぐに茶色くしおれて襤褸(ぼろ)のように垂れ下がりました。日差しが強くなり、木々の緑はますます黒々と生い茂って、やがて蝉が鳴き始めました。こうしてお盆が来て、わたくしはまた、家に戻ってまいりました。わたくしが帰ったのは、お社さまの盆踊りの前の日でございました。おにいさまは、一日遅れて帰ってくるとのことでした。
 夕餉の時、父はいつもより口数が少なく、母は、なんとなくそわそわとしておりました。普段なら、わたくしが帰ってきた時、父や母は、学校での様子などを聞きたがって、うるさいぐらいでしたのに、二人とも、なぜか黙りこんでいて、おかしな雰囲気でございました。わたくしが、何ごとだろうかと思いながら、お膳の前で座っておりますと、それまで黙ってお酒を飲んでいた父が、母に軽く目配せをして、お猪口を置きました。そして重々しく言うのです。「たか子、お前に知らせておくことがある」わたくしが、何事かと顔を上げますと、父は「良雄の縁談が決まった。相手は深津の康子さんだ。お前も何度か小さい頃に会っているだろう」と続けました。わたくしが、驚いて何も言えないでいると、父は何か苛々したような早口で言うのです。「祝言の日取りももう決まっている。来月の二十一日だ。お前には盃を運ぶ役目をやってもらうから、そのつもりでいるように。学校には休みの届けを出しておきなさい」そしてまた、黙ってお酒を口に運びだしました。母は、父の言葉を引き継ぐように、「少し急なようだけどね、とてもおめでたい話なんだよ。あした良雄が帰ってくるから、お祝いを言っておあげ」と言って笑いました。わたしが、なおも黙っていますと、母は、「おまえもね、いつまでも子供のままではいけないのだからね。すぐにおまえにだって、どこかいい人の元にやられる日が来るんだよ。今からでも、心構えはちゃんとしておかないとね」と言って、ごはんを食べ始めました。父は、お猪口を片手に持って、ずっと黙ったままでした。
 わたくしは、じりじりと胸が灼かれるような焦りを感じました。怒りや悲しさではなく、ただ、焦るばかりなのです。世の中は、この宇宙は、お膳の前でうなだれているわたくしを、たったひとり置き去りにして、無情にも、自分の勝手な理屈でガラガラと歯車を回し、ずんずんと先に行ってしまうのです。今までわたくしが大切にしてきたもの、わたくしが美しいと思ってきたものの全部が、誰の気にかけられることもなく、冷たく野辺に打ち捨てられようとしておりました。それも、わたくし自身の親兄弟の仕業なのです。わたくしには、目の前で食事をしている父と母が、まるで心というものを持たない泥人形のように見えてなりませんでした。そして、わたくしもまた、冷たいからくりに絡めとられて、おねえさまの人生を打ち拉ぐ役割を演じなければならないのでした。おねえさまを裏切ったおにいさまに、このわたくしが、三三九度の盃を運ばなくてはならないのですから。

 つぎの日は、朝から盆踊りの準備で、お社さまも、わたくしの家も、大賑いでございました。玄関が広く開け放たれて、注連縄(しめなわ)が飾られました。土間には大きな樽がいくつも置かれて、出入りをする誰彼となく、お酒がなみなみと注がれた升が振舞われました。それは今までも、毎年見られる景色だったのです。でも、ひとつだけ、いつもと違うことがございました。今までなら、祝い事があるたびに、丹七さんが真っ先に駆けつけてきて、あれこれと物事を整えてくださったものですが、その日は、笑顔で敏捷に走りまわる、お猿さんのような姿が見られなかったのです。ちよばあさんは、若い女中たちに、なにくれと指図をしながら、つい、「ああ、丹七さんがいてくれたらねえ」と言ってしまい、慌てて口をつぐむのでした。
 お日様が傾いてきて、お社さまの杉林の向こうに隠れようとしている時分に、おにいさまが人力に乗って帰ってきました。わたくしは、それを二階の窓から見ておりました。おにいさまは、玄関の前に止まった人力から下りると、村の人々が、口々に「おかえりなさい」と言うのに、まるで目に入らないかのように、スタスタと家の中に入ってしまいました。そのまま奥座敷に引っ込むと、おかあさまと何かを話し合っているらしく、なかなか出てきませんでした。やがて、日がとっぷりと落ちて、太鼓や笛の音や、人々の笑い声が、にぎやかに聞こえてきました。わたくしは、自分の部屋で物思いにふけっておりました。ちよばあさんがお社さまに行くときに声をかけてくれたのですが、わたくしは、とても浮かれてお祭りに出かけるような気持ちにはなれなかったのです。
 すると、乱暴に階段を上ってくる足音がして、わたくしの部屋の前を通りすぎました。かと思うと、隣の部屋で、どさっと何かが畳に投げ出される音がしました。わたくしが襖を開けますと、おにいさまが、ごろんと仰向けになって、天井を見つめていました。傍らではトランクが放り出したままになっています。「よお」おにいさまは、わたくしの姿を見て、ひとこと声をかけると、また上を向いてしまいました。わたくしが「おにいさま、手紙は読んでくださったの?」と尋ねると、おにいさまは、「ああ、あれか」と言ったきり、目をつぶってしまいました。そのまましばらく、どちらも口を開きませんでしたが、私が立ち去ろうとしないので、おにいさまはしぶしぶ目を開いてわたくしを睨みつけました。「なんだ、俺は疲れているんだ」わたくしは、今まで心の中で、何十回、何百回となく繰り返した質問を投げかけました。「おにいさま、あさ子さんとの約束はどうなるの。あさ子さんを放っておいて、他の人と結婚するの?」「約束?馬鹿なことを言うな。それはあいつがひとり決めにしてただけだ。俺があんな女に結婚の約束をするわけがないだろう」おにいさまは、吐き捨てるように言うと、ごろりと横を向いてしまいました。「だって、おにいさまがあさ子さんに悪い病気をうつしたって言うじゃありせんか」なおもわたくしが食い下がると、おにいさまは横を向いたまま言いました。「何を言う。あんなやつ、誰にうつされたかわかったもんじゃない。俺だって迷惑しているんだ」そして、ぐるりと振り向いて、「おいそれだけか、とっとと出ていってくれ」と声を荒げました。わたくしも、泣き出したくなる心を必死で押さえて言い返しました。「あさ子さんは、目がみえなくなってしまったのよ」おにいさまは、やにわに立ちあがり、「俺が知ったことか。女が余計なくちばしを挟むんじゃない」と怒鳴ると、むりやりにわたくしの肩をつかんで部屋の外に追い出し、ぴしゃりと襖を閉じてしまいました。
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