第九話 天井のない牢獄

文字数 3,649文字

 日本では、女性の就労は多いが、管理職や生涯雇用やフルタイム労働の比率は少ない。ノーベル経済学賞を受賞する研究者が言わなくとも、そのとおりだ。
 日本社会には格差がある。ジェンダーも、その社会階級のひとつだ。肉体的なライフステージで男と同じようには労働しにくいということも、たしかにある。ただそれよりも、人の扱いが分断されていて、社会階級として実装されている。例えば「正規雇用」と「非正規雇用」、「フルタイム就労(シュウロウ)」と「パートタイム就労」、「新卒採用」と「中途採用」……。その越えられない壁、つまり、格差で分断されていて、だから生涯収入にしたって大差がある。
 現場で労働している人のほうが給与水準が高くないとおかしいと、私は思う。それこそ、ごみの収集をやっている人はもっと高給取りでなければならない。介護職とかにしても、もちろん、そうだ。それなのに、経営層や管理職のほうが高給取り。フルタイムのほうが時給換算で高いことのほうが多いはず。上下関係の差別があって、上がっていった人数の少ない「枠」のほうが待遇がよい。しかも、入口ですら同じではない。例えば「総合職」と「一般職」みたいに。「新卒」と「中途」にしても。
「男」か「女」か。シスジェンダーかトランスジェンダーか。どこの家に産まれたか。そんな入口で格差がある。選べない、越えられない壁だから、互いに不幸だ。政治家の息子にしても、皇位継承順位の序列に入っても、そこに縛られる。
 男でもなければ、ゆえあって避難してきた、ミサにも私にも、そんな壁が立ちはだかっている――。

 *

 パレスチナの、ガザ地区を拠点にしている、いわゆるハマス。その正式名称は、私は(おぼ)えていないけど。ともかく彼らがイスラエルに奇襲をかけて一般人を無差別大量虐殺していったらしい。だからいま、イスラエルが人質奪還と自衛のためにガザ地区を攻撃している。
 ハマスはガザ地区の都市部を要塞化している。空爆が繰り返されてきたガザ地区は、防空壕(ボウクウゴウ)も地下施設も建設されている。ハマスの地下要塞だ。
 ガザ地区というところは、人口密集地帯である。都市部にいたっては極端な過密で、住宅が密集している。その人口の八割くらいは避難者とその子孫だそうだ。中東戦争で避難してきた人が多いという。もう半世紀とか七〇年とかいうレベルだから、ガザ地区に人生の拠点ができてしまっている。
 そうした避難者をはじめ一般人が、イスラエルによる攻撃に巻き込まれて命を失ったり住居を壊されたりしている。つまりハマスは一般住民を「人間の盾」にしているのだけれど、イスラム原理主義者の彼らからしてみたら、一般人もイスラムのために戦って当然だということなのだろう。
 ガザ地区は「天井のない牢獄」だそうだ。種子島より小さいくらいの面積があるらしいけれど、そこの住人が外に出られないように壁が張りめぐらされている。ドナルド・トランプがメキシコとの境界に「国境の壁」を建設しようとした話を聞いたときは途方もないと思ったけれど、ガザ地区にはそれが実際にあるのだ。避難してきたけれど、こんどは出られない――。
 そんなガザ地区の一般住人は、ハマスとイスラエルの抗争に巻き込まれて振り回されている。

 中東戦争にしてもそうだけど、イスラエルとパレスチナの対立はもう長期間で、根深い。ユダヤ人がパレスチナに引っ越して現代のイスラエルを建国したわけだけれど、その地が宗教的に彼らの「故郷」だからだ。
 ユダヤ人は昔からずっと、迫害を受けてきて、のけものにされてきた。世の中からヘイトされてきた。宗教が、だから生活習慣も人生設計も異なっている彼らは、社会のマジョリティから排除されてきた。あまつさえ、ホロコーストのようにナチスドイツからにしても、ロシアからにしても、大虐殺されることさえあった。彼らは避難を繰り返してきた。「()なし(ぐさ)」だ。だから、安住の地を望んでいたのだ。そうしてシオニズム運動が進められて、当時はイギリスが統治していたパレスチナを「開拓」して住み着いた。だからイスラエル建国も、戦時中までの帝国主義があったから「合法的に」できたわけで。けれどこれは、パレスチナの先住者からすると「侵略」ってことになる。
 迫害の歴史。ユダヤ人に対して、イスラエルに対して、欧米人は引け目がある。英米は国際的に、イスラエルができるように承認してきた。それに米国は「移民の国」だから、ユダヤ系も多いし、米国人のマジョリティも同じようにネイティブアメリカンを侵略した過去がある。
 それにたぶん内心では、ユダヤ人を敵にまわしたくない。そんな漠然(バクゼン)とした恐怖、ジャニーズ事務所じゃないけれど「ユダヤ人は面倒くさい」という本音をもっている人も少なくないんだろうと思う。それが迫害に出ることもあれば、「よそで暮らしてほしい」と。それは日本永住コリアンに対するヘイトと似たような感じなのかもしれない。朝鮮戦争にしても(いま)だ終戦していなくて南北分断したままだから、帰るところなぞないコリアンも多いと思う。七〇年以上も経ってもう、「帰国するのもいまさら」で、これはなんだかガザ地区の住人と似たような感じだ。
「国際連合」も、第二次世界大戦の主要戦勝国が主導権をもっている「国際社会」。国連がフィクサーになっても、イスラエルが有利になるように決めてしまった。その責任を感じているからか、ガザ地区で援助を続けてきた。そのおかげで住人は生きていけて人口もふえてきたのだけれど、その国連の援助は結果的にはハマス支配に得になっている。

 ともかく、「放浪(ホウロウ)(たみ)」だったユダヤ人は、安住の地としてイスラエルに来た。ヘイトされてきた(すえ)の郷里。
 けれど、そこに住んでいたパレスチナ人は追い出された。玉突き的に、パレスチナ人のほうが流浪(ルロウ)になってしまう。
 さらにはイスラエルとアラブの対立、米英とソ連の対立、それが激化して中東戦争が繰り返された。そこには原油利権のかねあいもあったけれど、それはおいておくとして。
 中東戦争で多くの避難者が出た。彼らが逃げ込んだ避難先のひとつがガザ地区だった。

 イスラエル人にも「認知の(ゆが)み」があって、宗教上の「真実」としてこの地に暮らせるのが当然だと思っている。そのイスラエルの一般人からすれば、追いやられたパレスチナ人に対してはナイーブなんだろうと思う。彼らにとっては、イスラエルのほうが善で、正義なのだ。そんなナイーブに、無頓着(ムトンチャク)に日常生活を謳歌(オウカ)している一般人を、ハマスが殺戮(サツリク)した。「9・11」、アルカイダが米国人にキレたときみたいに。
 たしかに一般人も「有権者」として政治に関わっているんだけれど、だからって殺されていいことになるんだろうか。ただ、他人の不幸に対して無神経でいるのもよくないと思う。

 けれどでもでも……自分が恵まれていないからといっても、他人から奪ってもいいのだろうか? 他人を不幸にしたら、自分は幸福になるとでもいうのだろうか? 残念な思考パターンだと思う。

 一般人がそんな応酬(オウシュウ)のなかに巻き込まれている。ガザ地区のパレスチナ人も。ガザ地区の「牢獄」で暮らすのも楽しいことではないけれど、だからって、引っ越し先なんてない。なんだかんだいっても、生活の本拠がそこにできちゃっている。「牢獄」で暮らさざるをえない。世の中の都合と構造に翻弄(ホンロウ)されながら……。

 *

 私たちも「天井のない牢獄」で避難生活を過ごしている。生活状況も、ガザ地区ほどではなくたって、それなりに劣悪。この状況をひっくり返せる見込みなんてない。格差があるし、元手(もとで)はない。スタートラインにも立てない。永遠のワーキングプア。いや、いずれ労働もできなくなるんだろうけど。
 日本は海に囲まれている。国外に移住するのにしたって、元手と伝手(つて)が要る。海は「壁」だ。
 この日本社会の構造にぶん回されていても、この「牢獄」で暮らすしかない。なんだかんだいっても、寝泊まりする居所(キョショ)はできていて、「なにをいまさら」になってしまう。もう、行くところは、ない。

 *

 いやそれはもう誰にとっても、ひとごとではない。地球は「天井のない牢獄」だ。地球以外のどこで暮らすというのだろうか?

 けれど人類は、今までにも、今も、資源を浪費して、二酸化炭素とかを出しまくってきた。
 (とき)20XX年(ニセンエックスネン)。核戦争で荒廃したわけでも、放射能汚染でイスカンダルにコスモクリーナーを(もら)いに行くわけでもないけれど、人類社会のシステムは今もこうして地球を過熱させている。高すぎる二酸化炭素濃度がすぐに薄められるとも思わない。
 逃げ場なんてない。
 私たちは、自らつくりだした社会システムに翻弄されるしかない。そしていつ誰が大災害に襲われて、命を失うとも、住居を失うとも、しれない。
 バトル・ロワイヤル。カタストロフのロシアン・ルーレット。運次第。ロシアの砲撃をくらうウクライナ人や、イスラエルの榴弾砲(リュウダンホウ)をくらうガザ人とおなじで。

 天井のない牢獄に暮らしている。
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