腐ったミカンの方程式 その6

文字数 2,677文字

 地下深くにあるミカン党のアジトは第三新足立区と呼ばれ、いくつもの階層に分かれていた。秘密の職員会議が行われている教室の一階下に大人の保健室がある。そこに常駐している養護教師の山路満子、通称ミッちゃんが、カウンターに座ってバーボンのグラスを傾けていると、ガラガラと戸が開いた。「あらご無沙汰」と声をかけた先に、戸口の縁に手をかけてゼーゼー喘いでいるゴールデン・エイトがいた。彼は何も言わずによろよろと店内に入ってくると、仕切りのカーテンを開いて医療ベッドの上に倒れこんだ。ミッちゃんはバーの丸椅子から滑り降りて傍らに行った。「どうしたってのよ」ゴールデン・エイトが両手で顔を押さえながら言った。「またアレを聞いちまった。アレをたのむ」「ハイハイ、アレね」ミッちゃんはロッカーから白衣を取り出し、ラメラメの衣装の上に羽織った。やさぐれた酒場の女から養護の先生に早変わりした彼女は、薬品がしまってある棚からアンプル剤を取り出すと、エイトの腕をまくり、青緑色の薬剤を注射した。すると荒かった息がおさまり、真っ青だった顔に血色が戻ってきた。「あんたも因果な体になっちゃったものねえ」白衣を脱ぎながらミッちゃんが声をかけると、ゴールデン・エイトは、「うるせえ」と言ったまま天井を睨んでいる。彼の体は「体当たり教育」という単語を聞くだけで拒絶反応を起こしてしまうのだ。皮肉なことに、発作を押さえる抗生物質は腐ったミカンカビを精製して作られている。カビに含まれる成分が神経に作用して、余計な使命感を中和するのだ。だがこれを過剰摂取すると腐ったミカン化するリスクが高くなる。エイトは綱渡りのように日々を生きていた。「ほらほら、こっちにもっと効く薬があるわよ」ミッちゃんはことさらに明るい顔で、ワイルドターキーの瓶を振った。
 「ふう、沁みるぜ」「私の真心が?」「俺に女は要らねえ」「あらご挨拶」二人がカウンターに腰掛けて昭和的な会話をしていると、またガラガラと戸が開いた。「お邪魔しますよ」颯爽と入ってきたのは若い男だ。白ジャケットの背中にギターをぶら下げている。流しの歌手のようだが、彼は新米の英語教師だ。名前を岸(あらた)という。彼はエイトの後ろに立ち、開口一番、「センパイ、背中が煤けてますねえ」と言った。ミッちゃんが思わず身構える。ゴールデン・エイトに向かってそんな言葉を吐けば、三秒後には同じ口が血ヘドを吐いて地べたを転がるものと相場が決まっていたからだ。だがエイトは背中を丸めてカウンターに向き合ったままだ。「おやおや、歩く凶器と言われたあなたが随分大人しいじゃありませんか。拍子抜けだな」エイトはグラスを持ったまま言った。「何しに来た」すると新は「ちょっとセンパイに挨拶をと思いましてね」と言いながら、長い髪をかき上げた。ミッちゃんは素早く品定めをした。(同じナルでもエイトとタイプが違うわね。)新はギターを構えてさわやかに笑った。「ゴールデン・エイトさん、あなたの時代は終わったんです」彼は、細い体をよじってギターをジャンッとひと弾きした。「エイトの名は頂きますよ。今日から俺が、新たなエイトになるんです」ジャカジャカジャカジャンッとギターの音が高まる。「そう、今後は岸新ではなく、ニュー・エイトと呼んでもらいましょう!」ミッちゃんが堪忍袋の緒を切らした。「帰りな!ここは大人の保健室だよ!ボーヤはおよびじゃないんだ!」「ハイハイ」新は両手をあげて降参のポーズを取ると、エイトの背中に向かって言った。「センパイ、そういうことなんで、ひとつよろしくお願いしますよ」彼はエイトの背中をポンと叩くと、大股で部屋を出ていった。高笑いが廊下に響いた。無言のままのエイトにミッちゃんが言った。「あんなこと言わせておいていいの?」するとエイトは「いや、これからはあいつらの時代さ」と言ってグラスを空けた。「もう俺の出番はねえ」「そんなこと言っちゃってえ」ミッちゃんは肘で脇を小突く。「わたしは知ってるわよ」彼女は上背を反らせてグラスの中身をぐいっと飲み干すと、歌うように言った。「あんたはまだ切り札を隠してる。そういうイヤな男なのよ」エイトは「買いかぶりだな」と言って苦笑した。「俺はもう抜け殻さ」

 数日後、教室に職員たちが再び招集された。マッド早乙女が発明した秘密兵器のお披露目である。電子機器とサングラスを組み合わせた装置で、これをかけて敵を見ると、AIが映像を解析して相手の重量と接近速度を割り出し、同時に1008ニュートン秒の衝撃を与えるのに必要な速度をリアルタイムで表示するのだ。名付けて「体当たり教育スコープ」である。「よいかの」とマッド早乙女。白衣の老先生は、サングラスを装着して一同を見回した。「速度オーバーの場合は表示が黄色になり、逆に速度不足の場合は赤色になる。ジャストは青のゼロじゃ。この装置でタイミングを計り、正しい相対速度を保ちながら腐ったミカンどもに衝突すれば、やつらの体表を被うカビが死滅するはずじゃ」居並ぶ教師たちも皆サングラスを装着している。彼らはお互いに顔を合わせ、同僚の姿の上に重量がオーバーラップ表示されるのを見て、感嘆の声をあげた。「早乙女先生がちゃんとマッドドクターしてるぞ!」「やっぱり今は20XX年だったんだ!」「キャーやめて、私を見ないで!」教室全体が、もう腐ったミカンたちに勝ってしまったようなウキウキ感に支配された。ところが新米教師の自称・ニュー・エイトは、ひとり離れて教室の後ろに座り、アンニュイにギターを鳴らしていた。美術教師の名取悦子が近寄ってゆき、彼にサングラスを差し出した。「ほら、あなたのよ」すると(あらた)は片手を振って払いのける仕草をすると、節をつけて歌った。「いらない、もういらない」エッちゃんが「どうしてよ」と尋ねると、新は手を止めて、髪をなでつけながら言った。「それ、負けフラグっすよ、むしろ」そしてポロンポロンと弦を爪弾きながら続けた。「そんなもんに頼らなくても、俺みたいな人間には土壇場でフォース的な何かが発現することになっているんです。流れとして」エッちゃんはギターの上に身を傾けている新人教師をまじまじと見つめた。(この男、意識が高い…)胸騒ぎが彼女を襲う。(さすがエイトの後を襲おうってだけのことはあるわね)エッちゃんは天井を見上げ、かつての恩師に心で呼びかけた。(坂井先生、もとい、ゴールデン・エイト、あなたは今、どこで何をしているの…)ゴールデン・エイトは一階下の大人の保健室で今日も飲んでいた。
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