第2話

文字数 3,599文字

上原聡嗣(あきつぐ)。世間様の目にうつる彼は常に誠実で寛容な人物でしたし、実際はそれで相違ないのですが、本質はむしろ諦めの早さというか、とかく(いく)つかのことを除いて執着に無縁なところにあった。身に降りかかる彼是(あれこれ)について大体早々まあこんなものだろうと決めつける節があるのです。現代人にとってはこれがかえって難しい。ゆえに相違ないところになるのでしょうが清楚な出で立ちに隠れこれまでにからくりをあばく人間は現れませんでした。
 さすがに親の死となれば途方もない悲しみに暮れるはずであったのに、上等な桐の箱と、ご立派な白い菊たちと、額縁に入った写真が三位一体となってひとつの造形物と化してしまえば沁み入るよりも出来栄えに感心するのが今夜の聡嗣だった。読経の最中も美しく伸びた背に浴びるご不幸の視線とは裏腹、庭にもこしらえられた大袈裟な竹細工の飾り物や流水の仕組みを知りたくて(じつ)は意識が散漫(さんまん)としていたのです。(のき)やひさしの方々に備え付けられた強烈な投光器(とうこうき)の光たち。大量の電力消費にメーターがくるくる回っている。お焼香を終えた部下らや遠縁の者たちがその軒先でたばこを吸いながら傘を差すほどでもない霧雨の中でもはや桐箱の中の康稔(やすとし)とは全く関係の無い毎日の些細な小話を持ち寄って煙の肴にしていました。スラックスの下から黒茶とりどりに光るローファを粒々に濡らして。親指の爪ほどの雨蛙が壁についていた。
 細やかなパーマをかけた黒髪をミストが覆っている。骨っぽい男。(みのる)は遅々にやって来た。喪主の聡嗣が次男坊なら長男はこの稔。広間に上がってすぐ父親の遺影と視線を交えたか唇を左右非対称、独特のかたちに歪ませているのがちょうど頭を上げた拍子に飛び込んで来た。後ろには妻のマリヤが。そしてさらに後ろ、この時は背を向けて靴を揃えていました姪の壽榮(スエ)。聡嗣はひと目で姪と分かった。既知も知らず知らず中学に上がっていたあの子の制服姿を見るのは今夜が初めてだった。肩の線が落ちている。大き目に見積もった制服の紺に走る臙脂(えんじ)のラインが煙と読経によく似合う。肌の白さは兄に似たか、しかし目鼻立ちは母親のをもらっていました。稔はぶっきらぼうな態度で列に並び、ひと通りのポーズをこなせばすぐさまスラックスのポケットに両手をしまって折り返してゆく。上原。当たり障りのない家庭では無かったものですから。他人行儀でも足を運んで下さっただけでもありがたい。極めようとも最後の最後は非情になれないのが兄の受難だと聡嗣は云います。
 稔の家はそう遠くありません。自動車でも、電車を乗り継いでもそうです。ですが聡嗣は別室に仕出しを支度しておくよう指示をしましたので、お手伝いのヨシは手筈通りに彼ら三人を広間から遠い一番小さな部屋へと案内しました。がらんとしているが、元々は稔と聡嗣が幼少期に使っていた部屋。むしろ寛げたことでしょう。人が死をいたむ日にも毛ガニの半身や刺身を喰う。食べ切れず、里芋と饅頭を残し一切れのオレンジを口にして蓋をしたスエ。彼女は賢く、好奇心旺盛な性格をしていました。初めて立ち入ったこの広い屋敷の中を、自由自在に、歩き回りたくて仕方なかったのです。桐箱の中身とは顔を合わせたこともないので無理もありません。掃除の行き届いた廊下は四角く敷地をぐるっと囲み、内側にお座敷などが繋がっていました。途中途中の物入れを無断で開けてみる。まあ大体は掃除道具かずいぶん昔に用済みになった季節飾りを保管する箱でした。夜はより更け、人がはけ、霧模様の雨も上がって月は未だ隠れている庭、手水鉢(ちょうずばち)の前でスエは聡嗣と対面しました。念のため叔父さまでしょうかと尋ねるスエに向かって聡嗣は頭を縦に振って答え、父とは似つかない明るさのある瞳に彼女を映しました。気質が滲み出ているのでしょう。
「このあたりは街灯が少なくて道が暗い。夜中は外に出ない方がいいですよ。」
「ごめんなさい。家の中を探検してただけで外に出る気はないの。」
「それなら安心です。余計なことを言いましたね。」
 裏は山。さっきまでの雨。急な坂。蛙の声が今度はどしゃ降りになってふたりの間に注がれます。よく聞こえないから中に入りましょう。どうしてもこの人は彼女を夜風には当てたくないご様子。門や庭の端々(はしばし)には古い庭園趣味を残しながら、玄関扉は木目のはっきりとした洋風のつくりになっている。つくづく不思議な屋敷でした。お金持ちの考える美しさを難しいと感じながらも松や薪に遮られて息づく洋館の佇まいには魅力を感ぜずにはいられないスエ。扉はちょうど顔がくるあたりのところにフックがある。きっとクリスマスにはリースをひっかけるのね、と独り言ちた。そうだね、と、黒い靴を脱ぐ背中が返事をした。
「この家のどこが一番気に入りましたか。」
「暖炉です。私の住んでいるアパートには無いから。火をいれているところを見てみたいわ。」
「冬にまた来るといいですよ。もう父は居なくなりましたから兄さんも許してくれるでしょう。コーヒーは飲めますか?」
「飲めます。」
「大人だね。」
 石が素材の床と大きなソファがふたつ。毛足の長いラグは家具を乗せるためのお皿ね。座っているように促されたがスエはこそこそと叔父をつけていきました。台所で大量の湯呑みを洗っているヨシの上へ長い腕が(かざ)される。阿吽の呼吸で頭を下げる老人の機敏な動き。棚にあるドリッパーや豆の入った袋をとる仕草は自分で入れるのを楽しみにしている、またそれを奪ってはいけない人の滑らかさ。細い管の口から注がれる熱湯、香ばしい湯気。スエはリビングに戻りながら叔父がどんな音楽を聴く人なのか、どんなスポーツをたしなむ人なのか、ロマンチックに思考を巡らせました。そして壁一面をになう掃き出し窓から暗い庭を眺め、今は空き家となっている犬小屋を見つけるにつけどれくらい大きな犬とこの広い庭を駆け回ってあの人は育たれたのかと胸をきらきらした光の粒でいっぱいにしたのです。真っ黒なコーヒーは深い青の陶器に満たされていました。砂糖もコーヒーミルクもありましたが、スエはこれを純粋なまま飲み干すべきだと心に決めた。何となくここの腰かけとテーブルに似合わない風合いの(かご)──たぶん、おみかん(・・・・)とかを入れておく方が似合うんじゃないでしょうか──に個装されたフィナンシェとマドレーヌがみっつずつ入ったものを叔父が置きます。ただご存知の通りスエは仕出しを食べ残してしまう腹の具合だったので、それらには最後まで手をつけませんでした。
「相続争いになるんですか。」
「難しい言葉を知っていますね。」
「大きなお屋敷ですもの。お父さんは叔父さまとあんまり仲が良いように見えませんので、そう云うふうになるのかと思って。」
「嗚呼、それはちょっと誤解だ。あのね、兄さんと私は仲違いしたわけではありませんよ。明日骨になる父とあなたのお父さんの折り合いが悪くてね。だから家を出て行ってしまったんだ。私は兄さんのことが好きだったので淋しい思いをしました。今もそうです。」
「帰って来て欲しいですか?」
「そうだね。でも兄さんは、あなたとマリヤさんの三人で暮らす方が好きなんじゃないかな。」
「叔父さまは、一人で淋しいんでしょ?」
 洗い物を終えたヨシが台所から顔を出しました。小さな肩は叔父の身幅半分にも満たないように見えます。孫もスエよりよっぽど大きいと云います。目尻は蔓延(はびこ)らせた染みとは不釣り合いにまだまだ張りがある。もうお休みくださいと促す聡嗣に風呂は冷めない内にと勧めてまた台所の方へ引っ込んで行きました。
「ヨシが居るからね。そこまで淋しくはありませんよ。早くお風呂に入らないといまみたいに叱られてしまうけどね。」
「お母さんみたい。」
「彼女からすれば私なんて子供同然さ。」
 スエは次に犬小屋のことを質問しようとしましたが、遠くから怒っている人のそれに似た早足スリッパの音が近付いて、来て、ぱっと止んで束の間リビングと廊下を繋ぐ扉が開いて未だ黒いワンピースのマリヤがスエを呼びました。お風呂に入る準備をしなさいと。ついさっきまでの話があったものですから、スエは大口をあけて笑い、その顔がまるで今そこに立っている母親とそっくりなのでまた聡嗣も目尻をくしゃくしゃにして立ち上がりました。彼が今日一日たっぷり浴びた煙の匂い、それがシャツやソファ生地の揺れに合わせて散らばる。二十三時を過ぎていた。稔、聡嗣、そしてマリヤとスエ。順番通りに入った風呂場にはバスタオルと新品ではない長袖のパジャマがありましたが、ホテルよろしく袖を通すマリヤを背にスエは下着の上からバスタオルを羽織って、一応、廊下をじっくり観察してから一目散に仕出しを食べたあの部屋へ走ったのです。父親はすでに寝入っている。髪は洗面所で乾かしてあるので、まっすぐ布団に入って枕元に抱いていた制服を放り投げました。
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