第3話

文字数 1,974文字

 スエはガムテープをはがす瞬間、両親の背後で息をとめていました。今にも金切り声を発してしまいそうだったから。私はこの日が来るのを待っていたのかもしれない、と、つけてもいない日記にしるすならの一文に酔いしれる。家電量販店から連れ帰られた段ボール箱の中には品物が身動きをとれぬよう計算し尽くされた発泡スチロールと肝心要の品物は真っ白なファクシミリが半透明なビニルに包まれていた。今か今か。冷蔵庫の前や自室や──ちなみに、スエはさっきまで宿題の最中でした──リビングを何周か巡り、ようやく使い勝手を覚えた父親が説明書を手離すまでの我慢くらべでした。まずは同じクラスで友人のK子──彼女もまた立派な家に住んでいます──と些細なやり取りをし、要領を得たなら機器が乗せられた棚の引き出し一番上の電話帳から叔父の電話番号をメモにとりました。広い台所の片隅にあった白い親機の姿を思い浮かべます。埃()けにかけられたレースの布地は誰の趣味なのでしょうか。スエは祖父だけならず祖母の顔も知りません。彼女が生まれる前に、それどころか、両親が交際するよりも前にお里へ帰ってしまったそうです聡衣(さえ)というひと。マリヤは空になった箱を潰して掃除機で散らばった段ボールの欠片や埃を吸っている。真っ白だったベランダのカーテンが今は夕焼けのせいでピンク色に。稔はテレビをつけ、マグカップに注いだお酒を電子レンジで温めていた。新製品の賑わいが去りいつもの土曜日に戻る感じ。スエは自室の学習机に向かってはじまりの文言を想像したもののパッとした文句が浮かばず、マリヤがシチューの具材を切っている間に先にお風呂を済ませました。本当に頭の良い人は嗅覚でわかるもの。そんなお方へ差し出す言葉には常に緊張が走るべきだわ。スエはいつもより長く湯船に浸かりました。晩ご飯。薄切りのきゅうりとたこが三杯酢に浸かっている。別の皿にはマグロとイカとタイのお刺身がぺったり並んでいたので少なからず母も浮かれていたのでしょう。この家につまを敷く感覚はありませんが、やっぱりお刺身は家族三人、誰にとってもご馳走でした。

 日曜日の朝こそ唯一朝刊をいっぱいに広げてゆっくり読むことが出来る。だから好きだった。聡嗣は、いわゆる寝溜めをするタイプではないものの日曜の朝食は一時間遅らせる。そうすれば慌ただしいヨシの足音もない。あれはあれで味わい深いものではあるけれども、どうも働かせている実感が強くなり子供の時分から得手不得手を問われるなら後者であった。暑くなってくると庭の手入れをさぼってしまう。引いても引いても草は力強く生い茂ってくるし、ヨシも歳だからまあ、あまり無理をさせたくない。
「あら。」
 仕事や売り込み以外のそれは初めてだと、朝食の余韻で口をもごもごさせながら台所ののれんをくぐったヨシはほころんだ。叔父さまへの〝へ〟に斜めの線が二本入っている。女学生らしい丸い字はされど性根は硬い字を好むような不格好さが愛らしい。

 叔父さまへ
  先日は美味しいコーヒーをありがとうございました。
  叔父さまの家は海に近いので、夏休みにもう一度遊びに行きたいです。
                                スエより

「簡潔でわかりやすいね。会社の連中に自慢してやりたいよ。」
「まあ。」
 なんて憎らしいことをおっしゃるのかしら。と、口には出さなかったけれど。ヨシはリビングにあるパンくずと目玉焼きの油だけになった皿をついでに下げていった。彼女は本当に無駄がない。酸性雨だの地球温暖化だのが昨今しつこく耳にするワードではあったが夏は毎年ある程度の差分を除いては変わらないような気がする。夜は良い風が吹く。そして聡嗣は海に出た。車を置いて徒歩の道のりで。浜には気の早い連中や年中通して波乗りに忙しい者たちがちらほら。車道沿いにしばし進んでふたたび陸側へ細道を折れて小さな店。昼どきならではのガーリックが香ばしいが、クリームの効いたリゾットが彼のお気に入り。食後のエスプレッソ。表面が不規則にでこぼこしたプリン。読みかけの本はほどほどに。休日は、席を早々(はやばや)と譲るのがマナーでしょう。また同じ店に来てしまった。ヨシへ土産のドレッシングを支払いの際に追加して、それを小脇にえっちらおっちら坂を登る。私は街にすら無頓着だった。苦笑する。前髪をそろそろ切らねば。ただ、ご近所界隈、庭はどこも行き届いているのがお作法と云わんばかりの土地柄がしかし歩いてようよう垣根を見てみれば案外どこも根本は小柄な背丈の草だらけじゃないか。夏は憎らしさ二倍の坂がとんと愉快な復路となった。汗の染みたハットを外し、あと半分、仰ぎながら健康のために歩きましょう。役立つ体でなくなったとき、さっと死ねたら御の字だが、そうもいかんのが身に沁みるひとり者。

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