第6話

文字数 4,691文字

 聡嗣(あきつぐ)の考える平和とは、自らをろくでなしにすることだった。彼は生育の途中で全てに平等であることが道徳であると愚直に考えそして孤独になった。ただの八方美人じゃん、ちゃんちゃん。とはいかないのが人生。だからと云って誰も彼の胸中にある海溝の底に到達したり、まして光差す(すべ)を持たなかった。嗚呼、幸か不幸か浮気者な上原の家にあってこれは特異な人となり。反面教師と云う言葉もありますが──そのような経緯(いきさつ)があって、物静かな顔に似合わず右脳で人をえらぶ兄の(みのる)を聡嗣は密やかに敬っていました。最後まで献身的であろうとした母へ、家族の誰にも与えなかった分量の愛情を一心に向けていたのが兄だった。母が出てゆけば、想像通りに兄も出ていった。聡嗣が高校を入学するとき、式に来たのは父でも母でもなくヨシだった。
 兄は就職と同時に家を出た。音信不通の時期が続いたが十二年の空白をおいて入籍と転居を知らせるハガキが届いた。ヨシに宛てたものだった。聡嗣は父親には事実を伏せるよう受取人に重々云い付けすぐさま彼らの部屋を訪ねた。鉄板一枚の階段と白ばかりの塗装。大っぴらに干された女性の下着すら当時は視界に入らなかった。必死になって駆け上がったわりに扉の前で怖気づいてしまったのを鮮明に憶えている。夏が近づいていた。じっとしていれば行楽日和の陽気であったが、息を切らした聡嗣の襟は汗が滲みて絞れるほどだった。呼び鈴を押してすぐに玄関を開いた女性がマリヤだった。兄の名前を伝えると、当時はまだそちらの方が流暢だった英語で座卓の前に座るよう促された。氷の入ったレモン水はまさにオアシスだった。兄は、まるで緊張も後悔も、まして心配する素振りすら見せず現れ、缶ビールのプルを引いた。西に傾き、離れた海めがけて沈みに向かう太陽がテレビの音声を連れてあかくうつろう時合(じあい)だった。淡々としたアナウンサーの読み口、外で草刈りをしている老人のラジオ、もっと遠くの家が吊るしている風鈴、蚊取線香のこうばしさ。全てがやがて夜の清涼感となって焦燥や過ぎた日々の絶望を穏やかに洗い流してくれました。稔はいつまでそこに座っているつもりなのかと意地悪くぼやきもしたが、どうやら近々産まれるらしい娘の顔は是非とも見に伺いたいと聡嗣も大概あさってな返事をした。マリヤはウエルカムだと歯を見せる。人肌へ触れることその素晴らしさを謳歌する彼女の笑い声は騒々しいが濁りけがない。聡衣(さえ)─彼らの実母─ともヨシとも全く異なる、命そのものが鋭い光を放ち、ときにこの身を突き刺すかのような女性。マリヤ。性にはむしろ無頓着な方であった聡嗣が初めて他人のセックスを自発的に空想したのがこの時だった。すっかり暗くなった階段をくだりながら、今更中途半端に道路へはみ出したままにしていた車を目の当たりにして小走りにタイヤをのぞいた。駐禁は切られていなかった。


 十代はかえってたくましいとそれは衰える側になってこそ振り返ることが出来る。仕事から帰っても明るいのが真夏の特権か余暇が延長される錯覚に聡嗣もどちらかと云えば夏が好きだった。計画的に割り振った分量の宿題を終えたスエがヨシ曰く午後は庭の草を率先して引いていたのだそうだ。いま、リビングのソファで寝息を立てている彼女の前には空のコップがひとつ。聡嗣が子供の時分からこの家にある硝子コップだった。紺色のショートパンツから伸びた足は平均的なものでしょうが日に焼けていくらか長く見えました。つやつやと輝くのは火傷した表面が彼女の行いに抗って治癒するあかしかけれど冷える部屋にこうも薄着であって風邪のひとつも引かないのはやはり羨ましいとも。嗚呼、そう云えばこのエアコンもそろそろ買い換えなければならないと聡嗣は思い至る。壁付けの操作盤、電源ボタンの感度がどうも悪い。
「可哀想だけどそろそろ起こしてくれないか。あまり寝すぎると夜眠れないからね。」
「若い子は大丈夫だと思いますけどね。スエちゃん。スエちゃん。」
 魚を煮浸けさせると抜群のヨシ。帰るたびに良い香りのする家は歳を重ねるほどに有難みを増すがシミの手が年々浮腫んでゆくさまにそう遠くない終わりの日を想像する。誰かに代わらなくてはならない話は幾度かしてきた。しかし続けられるなら通って欲しいと頭を下げてきた聡嗣だった。寝起きのスエにヨシは歯磨きを促して、その間にワイシャツからポロシャツへ着替える。柔らかい襟は肩を軽くする。陽の高い時間の汗を存分に吸ったシャツも明日には乾いて、アイロンにかけられるのでしょう。夕陽と呼ぶにはまだまだ高い太陽の下で散歩をする。いつか犬を連れて歩いたように、毎日、ほとんど、決まった道のりを。坂をくだってまっすぐ海に出る。浜沿いにしばらくいって、駅前の方へ入る。観光客に混じって商店街を物色するけれど甘い物は禁止にします。夕食は美味しく食べるのが礼儀ですから。
「お母さんは私がとっても賢いと思っているの。そんなことないのに。でも、とりあえず公立ならどこでも良いと思う。学区のことなんて全然知らないと思うから。私はなりたいものがないんです。行きたいところもないし。それに、そんな私がバレたとして、平気でいられるお友だちもいない。」
「K子ちゃんはどうしたんだい。」
「仲良くしてます。だから志望理由を話したくないの。K子は頭が良いから。馬鹿にされたら嫌いになっちゃうもの。」
 行きはよいが帰りはあくびを何度もかみころしていたので、日課にせよ散歩はやっぱりお休みするべきだったような気がしてくる。やんわりと否定したヨシの正しさが胸に迫る。散歩におさまる程度の近所。この街の知識や小話を真剣に聞いているポーズを解かないところが彼女の賢い要素だった。ガムよろしく頬をもごもごさせているけれど叔父の顔を見るには緊張を残している風合いの彼女は聡嗣に見つかっていることに気づかない。単純に甘やかせない微妙なとしごろだったので、結末としては黙って最後まで歩かせるだけでした。草引きが一気に進んだ庭は本来の広さを見せびらかしていた。スエはそうすることで犬小屋についてやっと訊ねることができたのです。
「大きな犬だよ。三毛猫みたいな色をした。独り身の私がいま新しい子を飼ってしまったら、世話はヨシがすることになる。だからあの()は、ずっと空き家のままなんだよ。」
「捨てられないのかしら。」
「そうでもないけどね。ぼんやりと、そのままになっているよ。」
 スエは筋肉質の体躯をしていました。スポーツだけは自慢して良い程度にまんべんなく出来るそうだ。食事も出されたものは好き嫌いなく食べ、いただきます、ごちそうさま、を、声に出せる娘だった。金曜日の夜だったこの日は彼女が手入れをした庭で手持ち花火をして遊んだ。明日の海も結局ふたりきりなのでとても夜までは時間を持て余すと踏み、聡嗣がバケツに水を汲んで掃き出し窓を開いたのだった。土曜日曜は終日いまはひとりの家に帰るヨシ。アルミ箔で包んだ握り飯を台所に残していったが明日を待たずにスエは梅干しのをひとつ食べ、テレビを見るうちに煙の匂いを髪に染み込ませたまま眠りこけてしまったので、冷房は切らず朝までそのソファで眠らせておくことにした。空調と寝息だけのリビングで冷たいビールを飲んだ。常夜灯の中にも目を凝らせば暗闇の庭で燃え残る蚊取線香の煙が白く立っているのが見える。


 さて肝心の土曜、朝の光景にさっそくスエの心が躍った。例えば家の中で自分だけの基地─素材は様々であると思う。キャンプに使うテントや、段ボール、大きな袋の中など。─をこしらえたときや、台風が夜中に通過するときに夜通し玄関先で外を見ているような類の非日常に類似した興奮。涼しい部屋の中にも香り残る真夏の湿った火薬の余韻や、昨夜の格好のまま一人がけの椅子で眠っている叔父、丸められたアルミ箔がテーブルの上に転がっているさま。こんな怠惰(たいだ)、スエが生まれなければ上原の家におとずれなかったでしょうね。余計に彼女は興奮するのです。この上ない静寂の非日常に。身じろぎですぐに叔父は目を覚ましました。彼はスエが云うよりも先に朝の挨拶をしたので、妙に、なぜだかどうしてこれが恥ずかしく「はい。」と返事をして洗面台へそそくさと逃げたのでした。おはようございます、でしょう、普通。実力テストで赤点をとるより恥ずかしいな、でも、歯磨きの後のつめたいおにぎりは一層美味しく感じられます。叔父は氷を入れた水筒を準備しました。スエは折りたたみの椅子をふたつ車の後ろに積みます。水色と黄色と白とピンクのパラソルはあとから叔父が。息が肩にかかったわ。男の人の匂いがするの。お父さんとは全然ちがう。
「水着は中に着ておきました。」
 駐車場から人の群れは変わりなく、なるべく道路に近い隅の方に陣地を設けたふたりはすぐ浮き輪を膨らませて海に浸かりました。冷たいは冷たいけれど真夏の海の冷たさは生温いに限りなく等しいので、足先がひんやりするまで大人の泳ぎで沖に連れ去ってもらいます。もう底なんてすっかり見えません。
「お父さんもこうやって沖まで引っ張ってくれたことがあるの。でも私がよそ見をしている内に浮き輪の下に潜って隠れるからいつの間にかひとり流されてしまったのかと思って泣きながら必死になって泳いだんです。」
「それは恐かったね。」
「本当に恐かったのよ。家に帰るまでお父さんとはひとっことも口をきかなかったもの。お父さんはごめんなさいが出来ないの。ああもう思い出したらむかついてきちゃった!──けど、あれから海水浴には行かなくなったから、やっぱり今日は海に来て正解でした。とっても楽しいわ。」
 手足がふやけてから上がる浜の白い砂は鉄板も顔負けの熱々さで、盗まれず無事波打ち際にあったビーチサンダルを履こうが容赦なく隙間に入り込んできた。昨夜にも、朝にも食べたアルミ箔で包まれたおにぎりとしっかり火の通った卵焼きは冷蔵庫の冷たさがちょっぴり芯に残っている。潮風よりも他人たちがバーベキューをする煙の匂いが強かった。日陰で冷たいお茶を飲むスエにそれとはまた別のジュースを買って与える叔父がいた。こんなふうに。圧倒的な支配のなかでこそ叶う自由のもと日本じゅう様々な景色を見ることができたらどんなに幸せでしょうかと、そう遠くないうちに叶う夢を見たスエ中学最後の夏。鼻緒に当たる皮フが案の定剥けたので絆創膏を恵んでもらい、なかなか進まないコインシャワーの列に並んで、素手で全身くまなく洗った。帰りの車はぐっすり眠った。お股のところにたくさん砂がたまっていたのには驚いたな。後部座席の荷物は翌日降ろした。叔父はせっせと砂だらけのガレージにほうきをかけました。若くて安い人を雇う頭がない人だから自らの愚かさを背負って生きる者の標本然として黙々とやっていました。あれもまた意固地になっている可哀想な大人です。スエのよりいっそう焦げた肌はマリヤの影を濃くしました。ふたりして幾度か通ったコーヒー豆のお店でチーズケーキ─ディスプレイにはないので、事前に注文しないと買えないでしょう─を受け取り、兄家族の住まうアパートに着くや聡嗣はスエよりも早足に鉄板の階段をあがって行きましたが彼らの関係はへんちくりんでスエとケーキを玄関に押し入れて聡嗣自身はその境界を跨がずに錆びた戸を閉めるのです。稔の健在を垣間見る瞬間にだけ本物の感情を拾わせる叔父をスエはうんと妬きました。あの日のよう、今日が終わるくらいまで、口をききたくなくなってしまうくらいに。

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