第1話

文字数 792文字

 枝葉のざわめきはひと時、さざ波となってスエの胸に押し寄せる。窓を開けば潮風がやわく吹き込む叔父の家。浜からひと駅分くらいか。それも、路面電車やバス程度の、ちょっと短い間隔が表現として適切な距離に建っていました。やや小高くなっているからこそ海はまっすぐ飛び込んでくるのでしょう。殆ど寄らなくなってしまった駅前の景色。見様見真似(みようみまね)のおめかしは思い出すだけで恥ずかしいもの。あの頃、彼女の若い胸は降り立った瞬間からいつもいつも高鳴っていて、興奮と緊張、幼気(いたいけ)な下心も全部ひっくるめて只中(ただなか)は薔薇色の日々だったのです。毎日は会えない恋を一番はじめに知ったのがよくなかった。あっけない娘は瞬く間に夢中になってしまった。嗚呼、今は、十度目の結婚記念日を迎えた体を木製の寝椅子に置く。背に触れる硬い木の感触。雨風にかまわず出しっぱなしにしておくための隙間。日光は白い壁に反射してより(まぶ)しく、空気は昨夜の雨を受けて潤いに満ち、澄んでいた。
「まるでおなじね。今夜はとてもお星さまが綺麗よ。」
「来たことがあるみたいな言い方だね。」
「叔父がお金持ちだったの。子供の時よ。出不精なお父さんの代わりに夏休みはこうやって軽井沢へ連れ出してもらったり、冬休みに蔵王でスキーをしたこともあるわ。お父さんは嫌いじゃないけど、お父さんよりずっと、たくさん、素敵なところを教えてくれたの。由弥子さんたちは?」
「まだかかるみたいだよ。どうせ昼過ぎになるだろうし、何か食べに出ようか。おかあさんはパンが食べたいんだっけ。」
「あの子たちは昨日からカレーと言ってきかないわ。パンは買って帰りましょ。」
 ピクニックだって、なんだって出来ちゃいそうな広い芝。ぽつんと寂しい広葉樹が落とす影。山が整え冷やした清らかな風に、なにもかも吹かれている。さっきまで休みなしに走っていた車も、夫の短い髪も、芝の上を駆け回る子供たちのキュロットの裾も。
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