第7話

文字数 4,873文字

 スエとK子、彼女らの関係が白紙当然の破綻に至らず、スエ成人後も年に一度や二度のやりとりをする仲に収まっているのはスエもK子もある種互いに互いを劣った者として認識している節が、あるからかもしれない。勿論(もちろん)、さすがに、それを口に出すなどして明らかにすることはない。夏期講習で同じセミナーに申し込んでいたAは成績からスエと同じ教室に割り振られる頻度が高かった。男の子が女の子に近づく手口はいつの時代も、大体、誰しも似通っている。手始めに教科書を忘れることから。知っている人に見せて欲しいとお願いするごもっともな口実を使って隣に座り、翌日からもずっとそこにいる。多くの人間はなぜか、自由を与えられながらも毎日のこととなれば同じ席に座りたがる習性がある。不真面目な男子ではなかった。むしろ野球を嗜む同世代の男の子らの中では静かで精錬な鼻筋に偽りはなく、ゆえに理科の教科書をわざわざ家に置き忘れる行為のしらじらしさが増すのだが、この嘘臭さと真面目さのアンバランスな具合がどうにも、おませなスエから云わせれば可愛らしく、彼女は拒まず最後まで彼を隣に置いた。海水浴で焼けたスエの肌が生ぬるく感ぜられるほどAの肌は焦げていた。だけに、手の平の白さが妙で、この明度の差がプリントを(まく)るたびに入れ替わるさまをスエは横目で毎日観察していた。Aは野球の話もした。スエにはさっぱりであったが結果としてその年の夏の甲子園大会は彼の話す通りの学校がいいところ(・・・・・)まで残っていたので知識としては非常に信憑性のある研ぎ澄まされたものだったのだと振り返ることができる。彼は自転車、スエは徒歩で通っていた。夏期講習以降も続けるのかとAは問うたが、行かせてやるのは夏期講習だけの約束になっている旨をスエは正直に答えた。そう、あけすけなく答えたが、受け取り手が富めば富むほど家庭の金銭事情を想像させる少女らしい軽率な文言だった。Aはスエを花火に誘った。
 夜の海辺を求めて夕暮れのうちから目指している道中、叔父の家からは毎日の散歩コースだった海岸沿いのガードレールに腰を落ち着けつつ、ここ陣取るなら叔父と来るべきだったと駅を降りた時点から散漫になっていたスエだった。花火自体は素晴らしいものだった。母はお祭り騒ぎのたぐいが大好きだが相反(あいはん)して父は人混みすら億劫がった。ここまで間近(まぢか)で鑑賞したことのないスエは首をだるくしながらも打ち上げ花火は本当に〝頭上へ〟打ち上げられているのだなとしみじみ芸術的認識を改めた。Aは最中に黙ってスエの手を握るが、振りほどくわずらわしさよりも全ての化学反応を見届ける方が彼女にとって重要だった。理科の教科書が好きだった。金属の粉によって炎の色が変わる実験のカラーページを今すぐにでも開きたい。母がはりきって買った浴衣の不愉快な圧迫感も、その下にぐっしょりとかく汗についても、最後の巨大な尺玉が炸裂すれば空気ごとまるで胸から背中側へどんと押し出された。
「びっくりしたね。」
 誘いでもなんでもなかった。とにかくこの、未経験の衝撃についての感想を述べたに過ぎなかったのに、Aの経験則か騒動がそれを良し(・・)の号令にしたのかスエに許可をとらず唇をひっつけた。これが悲劇の開幕だった。スエは半狂乱になって叫び、Aの肩や腕のあたりを叩き最後に(スネ)を足蹴にして山側へ向かって駆け出した。Aは彼女の家とは見当違いな方面へ向かう姿をまのあたりにして、大変なことをしでかしてしまった、最悪の自体が起こってしまうかもしれない、と真っ青になって立ち尽くしたあと無我夢中で近辺(きんぺん)を小一時間探したが見つからず、いよいよ深夜になるので、公衆電話で彼女の家へ電話をかけ─まさか衝動でキスをしたなんて白状する勇気もなく口論になってしまったとそれらしい理由にすり替えてしまったが─スエの母親が父親に仰いだ指示の通りに自力で探すのをやめ、自転車は乗らずに押し、時間をかけて、真っ直ぐ帰った。Aは年頃なりに辛抱強い子であったが、道中はぐずぐずとうつむいて、泣いてしまっていた。彼の両親にとっても非常に珍しいことであるものですから目を腫らした息子に何があったのかを帰るなりすぐ問いかけた、が、Aは断固として口を割らず、なんでもないと繰り返したそうだ。

 野山を駆け上がるイメージ。裸足で土を蹴り、草をかきわけ、木々の隙間を抜ける。実際のところは固められたアスファルトの上を草履で駆けずり家々のそれなりに整った植木を憶えた通りに右へ左へ数回折れた程度であって、それでもスエの合わせ目は大いに乱れ、右と左が前でまっすぐに揃ってしまいそう。門が見えた。はやく助けて。インターホンを無視して植え込みの隙間から玄関扉へまっすぐ走る。ヒロインは握りこぶしで戸を激しく叩く。助けて。助けて私の。
「これは驚いたな。」
 叔父さま。ぐじゅぐじゅの顔で泣きついた少女、の時期を過ぎ、大人へは未だ至らずのひと。二階に増築したサンルームからフィナーレを見送りあとは眠るだけだった薄いパジャマの背にシワが寄る。他人に抱き締められたのは一体何十年ぶりのことか。抱き留める側であったことは果たしてあったか。こんな、危なげなものだっただろうか。晴れ着だったんじゃないのか、赤い柳の浴衣は。肩に手を置く。可哀想に。芯から凍えているようだ。
「叔父さま、叔父さま。どうか家に招き入れてください。群衆のなかに潜むオオカミが、私を喰い荒らしてしまいそうなの。悪い獣が、なにも許していないのに、勝手ばかりしてくるの。恐くて、恐くて、ここまで逃げてきたんです。」
「落ち着いて。君は先に冷静さを取り戻すべきだ。」
「冷静になっても!もう遅いんです!」
「たくさん汗をかいて──海から走ってきたのかな。結い髪が台無しだ。お風呂を貸してあげましょう。それからコーヒーを飲んで、そのときに、なにがあったのか、聞かせてくれるかな。──さあ、上がって。勝手はわかっているでしょう。自分で支度をして。」
 玄関につま先の毛羽立(けばだ)った一足の草履。廊下へ、怠惰に落ちてしまった帯と浴衣。スリップ。茫然としてうつろな足取りと泣き腫らして重くなった瞼の陰影と赤み。母さん、なぜ女性はさだめに不幸を背負っているのでしょうか。ひとのみちの苦に男女の境は無いものと信じたいのに。深いわだち(・・・)から抜け出せないようです。この先も。きっと重い罪を、(総嗣(わたし)は)おかしてきたのでしょう。今夜は一段と苦くなるたばこの煙へ溶ける独語(ひとりごと)は誰に届くこともありません。透明になって部屋を満たすだけです。シャワーが止んで、折れ戸が開く音、静寂の家にはバスタオルの仕草もリビングの耳まで届く。煙がはけた舞台はさぞ星が綺麗なことだろう。今夜は雲のない空だったから。沖には明るい月がいずれ沈む。月曜の朝を呼び込んで。
「叔父さまは最高よ。叔父さま以上の人なんてどこにもいないわ。いいえきっと、叔父さまも、人間なんかじゃないのよ。」
「そうだね。君を襲った狼とかわりない。」
「違うわ。でも、今は、私も未熟ですから、見破ることはできないみたい。」
 スエは肌の色にほど近い下着をつけていました。彼女が裸足で踏んだあとは床に湿り気の輪郭を三秒の間だけ残します。濡れ髪が聡嗣を捕らえたのでした。父も母もコシのある青黒い髪を持つ者ですからこれ以上魅力的な凶器があったでしょうか。ゆえに白い地肌が艶めかしく柔い光りをいだく。肩紐の長さを調節するためのプラスチックの薄い部品や粟立(あわだ)つ乳房を包むカップと接続するためのフック、こんな些細な映像記憶を聡嗣は息をひきとるまでくっきりと残すことになる。キスをしてください。どうして断れなかったのでしょうか。これもまた、お墓まで、全く、絶対に、人知れず、持ち込むことが出来たのならば、わだち(・・・)がより深くなることもなかったのでしょう。あれこれ話の尽きない昼間は大きく見えておぞましく小さな女人の口でした。揚げ物を買い食いした余韻はあるのに乙女をかき乱した青年の香りは一切残っていない。聡嗣は悪い子の手を掴みました。おませな娘は悔しいとも恥ずかしいともつかぬ目で睨む。これは相互理解であり証人のない幼稚な宣言であるが、聡嗣とスエの間に生じたちからの差がいま明らかになった。

                     

 スエとクラスメイトの間には隔たりがあった。この隔たりを大人たちの中には賢さと称してむしろ褒める者たちもある一方で、それに甘んじているスエには孤独を強める火種でしかなかった。しかし彼女はこのからくりに気付くことが出来ない。潜在的に他者を(さげす)んでいるのだ。月曜の朝に目覚めて叔父の居ぬ家でお騒がせな娘はヨシとともに卵焼きの切れ(はじ)とウインナーソーセージの余りで朝食をとった。以前はダイニングテーブルとして家族に囲われていたらしい台所の机で。ヨシは云った。スエはスエでまた、稔とも聡嗣とも違う青春を過ごしているのだと。自らが死の床につく寸前まで彼女はこの出来事を素晴らしく陽気な語り口でする昔話として家族友人に披露したそうだ。スエを迎えに来たマリヤは大声で叱ったり(なじ)ったりしなかった。Aと口喧嘩になったのならどちらが根本的に悪いのかとだけ昼に立ち寄ったスーパーの片隅、フードコートの生温いラーメンをすする合間に問いかけたから、嗚呼そう云う塩梅になっているのかとスエは察してきっぱり「A君が悪い。」と返事をした。夕方頃にはAの母親がそれなりの数が入ったカンカン入りの焼き菓子を持って頭を下げに来たので事態は早々におさまった。
「何時に着いたんだ。」
「────わからない。花火が終わってちょっとしたぐらい。」
「ならもっと早く電話だけでも寄越せってあの世間知らずに云ってやれ。」
 父親からも、それだけだった。

 知ってか知らずかK子は不機嫌になった。とんと口数が減ったAとスエの間柄を喜ぶどころかむしろ(いぶか)しんで沈黙の間があればそれについて詰ろうとするものだから週に一度、大概が火曜日か水曜日だった放課後の付き合いもわずらわしくなりはじめた。ところが交友の多いK子は豊かな経験からスエよりも一枚うわてだったので、スエの愛想の無さが教室の中でも絶え間なく滲み出てきた短い秋のさなか、愚かなのは自らであると云ってスエを納得させるだけの成熟した忍耐力で以って関係を途絶えさせず、彼女らは卒業の時まで自他ともに─その定義こそ曖昧ではあるけれども─友人であった。スエの心は知らずともAがスエに好意的なことはK子こそが適切に理解していた。どこか、自らの知らぬところで破綻(はたん)したそれを大手を振って喜べぬのが恋だ。恋をするのは、誇り高くあることだ。泥臭い戦場(いくさば)に身を投じてなお、魂を研鑽(けんさん)するのが正しい恋だ。Aとスエの進路は変わらずK子だけが世間に名の通る門をくぐる。学び舎は離れるが、彼らはだからこそ学生らしい口約束で交際の関係を結ぶことが出来た。
「蔑まれたっていいわ。誰にどんな陰口をささやかれたって、私はA君が好きなんだもの。」
(わかるわ。私だって、どんなに苦しくても叔父さまが好きなんですもの。)
 スエが唯一、K子から一歩下がった立場で口を閉じられたのはこの時だった。共感も手伝った。同情にも近かった。反面教師のようでもあったし、不治の病を宣告されるさまにも例えられるかもしれなかった。K子がいじらしく、可愛い人に見えた。春はせわしなかった。紺のセーラー服がブレザーに変わった。今度は肩も身幅も寸法が狂っていないから、すらりと美しい佇まいに自らがそうなったと空目してしまうほどさ。わざわざ休日に三人で都心に繰り出して買った通学鞄にはついに持たされた携帯電話が入っていた。持たせるわりには月のパケット通信料は三千円までね、と釘を刺すので二日に一度の充電で間に合うほどしか開くことはない。スエにはむしろ、もう、あんなふうに、叔父の家まで一目散に走って寝泊まりするような、門限破りの刺激的な経験を困難にする文鎮(ぶんちん)でしかなかった。だから彼らは昼に会った。


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