第5話

文字数 1,415文字

 宿題を持ってきました、赤本もあります。夏期講習にも参加します。玄関を開くなりスエがまくしたてるのでヨシは玄関先で戸を開いたまま義歯の留め具を光らせて笑いました。受験生は大変ね。大人よりずっと大変よ。リビングでは叔父が濡れ髪を拭いている。朝方は草引きをしていたそうで鼻の頭が焼けていた。外でやったよう、勉学に励む上で遊びに来たと早々にまくしたてるスエに叔父は口を挟まず一通り喋らせ、確かに約束をしましたよ、とだけくくって氷の入った冷たい麦茶をヨシから受け取った。受験生は大変ですね。
「あなたが居るあいだはなるべく早く帰ってきます。ですから、夕方は散歩に出ましょう。海は明るい内が良いので土曜日に。友だちを呼んでもいいですよ。まずは部屋に荷物を置いておいで。お寿司を食べに行きましょう。ヨシも支度をして。」
 リビングを抜けて廊下を真っ直ぐ。一番奥まで。祖父の葬儀で使った部屋はすっかり夏の別荘になっていた。寝間着代わりの体育着。三着の服。クーラーの効いたリビングとは打って変わってむっと古い畳の匂いが煮えていた。障子、それから縁側の戸を少しだけ開いてスエはポシェットを斜め掛けにして来た道戻る。新しい部分と古い部分。よく見ればちぐはぐに手入れされている叔父さまのお(うち)は見れば見るほど面白い。直近で髪を切ったか叔父の襟足は寒々しいほどだった。彼の運転する車の後部座席、左手に臨む海の景色はそれはもう素晴らしかったはずなのに、ヘッドレストの隙間から生え際を垣間見(かいまみ)るのにスエは夢中になっていました。彼が贔屓にしている店はやや陸側に入って細くなる坂の先、戸建ての一階。出迎えた女性は迷わず一番奥のテーブルへ三人を誘導する。
「おすすめでいいかな。」
 お財布に抗えるはずもないのにそう云った彼の中に僅かな父親の血筋を感じた。こんにちは。スエは挨拶が上手だった。
「ヨシさんのお孫ちゃんかい?」
「私の姪だよ。」
 冷たいビールもどうかと店主が挨拶に来たが、生憎今日は車なんだと返す叔父がついでに頼んでくれたオレンジジュースの瓶がとてつもなくお高いものに見えたのはどうしてだったのだろう。最近のニュース、景気の話、地域開発の話。寿司が届いて三人きりになってからは受験の話になった。それなりの公立。当たり前だけど一番ではないのに外側の大人たちは偉いね、頑張れと云う。スエはもう半年以上も前から始まっている繰り返しに飽きも飽きてうんざりしていたが叔父はそのようには云わなかった。そこに通ってその先何になりたいのか、どこに進みたいのか。想定外の問いに肝の据わったスエもどぎまぎして、けれどわからないとも云いたくない意地があって、それらが作った数秒の間に敗北して、そして透明な瞳に恋をした。絶対に敵わない者にしかもたらされない命の危機にスエは打ち震えたのだった。若々しく、純朴にうつったゆえに見くびっていた叔父が親しみから遠退いて愕然とするこの経験を、その素晴らしさを、どのようにすれば正しく表現できただろうか。鰯も鯵も絶品だった。健康的によく噛んで食べるヨシに遠慮なんてものはなく、しかし店を出る際には深々と頭を下げたのでスエは遅れてそれに(なら)った。車を出したついでに買い物に寄り、来週末のための浮き輪と花火を買った。あまり旅行をする家庭ではなかったスエは浮かれて駐車場を走る。なるべく綺麗なワンピースをとマリヤが選んだ花柄の、白い(すそ)が雄弁に少女を語っていた。
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