第22話 比良坂 動く

文字数 4,333文字

八月最終週の月曜午前十時少し前。シンメカ・ネシア社長の比良坂は、オフィスの社長室で、ノートPCに向かっていた。

パラワン銀行のネットバンキングに、シンメカ本社に知られていない二つ目のシンメカ・ネシアのIDでログインし、入出金記録を閲覧した。本日付でシンメカ本社からジャカルタ支店3875625に、十九万米ドルの入金が記録されている。

インドネシアルピアに換算されているので、二十五億ルピア強という、とんでもない数字になっている。耶蘇銀本店で先週送金処理したはずだが、海外着金にタイムラグが生じるのは普通である。

ネットバンクの送金画面に移動し、インドネシア国内銀行のムルデカ銀行、ジャカルタ支店のシンメカ・ネシア口座に、二十四億ルピア弱の振込処理をおこなった。振込手数料は月末締めで翌月十日に口座から引き落とされる。それに充当するにしては、一億ルピア強の残は大きい。

比良坂にとっては毎月定例の、月末の資金移動処理である。特段の緊張感も無く、比良坂は作業を終えてPC電源を落とし、外出した。


同時刻、と言っても時差で二時間進んでいる日本のシンメカ本社。

篠崎は月末支払のEB(ネットバンク)振込送信承認を前に、EBから紙出力した振込先全二百数十件の銀行、支店、預金種、口座番号、名義を、請求書記載のそれとの突合をおこなっている。打ち合わせ室で財務グループのコバヤシユミコに原始証憑(請求書)を読み上げさせて、黄色のラインマーカーで消し込むのだが、この作業の疲労度がバカにならない。
担当者、主任、課長というステップの個人レベルでチェックは行われているが、人間の集中力には穴があるらしい。部長の篠崎が最終の読み合わせチェックをすると、毎月必ず一~二件の誤りが発見される。先方が予告も無しに請求書記載の口座を変えてくることもあるし(この場合は知らんぷりして従前の口座に振り込んでも大抵問題にはならない)、新規取引先の口座情報が誤登録されて、そのまま決裁者の篠崎のところまで上がってくる場合もある。こればっかりは、人間のやる作業の不確実さとして最後まで残るリスクなのである。ミスの事前防止の最後の砦が経理部長篠崎であり、ここで見逃すと、次に発見されるのは、ちゃんとチェックしている支払先からの未入金のクレームなら早い方で、ルーズな取引先ではそのまま数ヶ月から数年誰も気づかずにいる場合もある。

篠崎が経理部長になってから読み合わせを実施しているので、誤振込は激減しているが、前経理部長の耶蘇OBの時代は、自らチェックすることなどなくそのまま送金処理されて、クレーム発生と修正が毎月の恒例行事だった。その前経理部長は二年前に六十五歳で定年、と言うが、再雇用契約の上限年齢に達して退職している。


正午、月末EB送信データの全件チェックが終了した。例月の平均どおり、二件の振込先口座番号誤りを修正し、振込の承認を二段階パスワードでおこなって、月末の山場は終了である。すぐに八月の月次決算が始まるが、束の間の軽負荷の時期となる。いつもは、ここで予算執行状況のチェックと対策などをじっくり考えるのだが、今月はそんな間も空けずに特命調査に集中しなければならない。

ふと気づくと、右横にケイコが佇立している。
「お昼ですよ」篠崎を見ろして微笑んで見せた。

最近のルーティーンとなった、ケイコのメニュー選択の監修つき昼食を採り、午後からネシア調査用クラウドサーバを開いた。

さきほどFTPされたばかりの、比良坂PCの画面を記録したストリーミングに目を奪われた。たしかにシンメカ・ネシアの利用するパラワン銀行のネットバンク画面であるが、シンメカ本社が把握していないIDと口座。そこへShinmecha Co.,Ltd JAPAN からの十九万米ドルの入金。さらに、そこから十八万米ドル相当をジャカルタのムルデカ銀行の、PT Shinmecha Indonesia 口座への振込指示。

篠崎は、キー操作ログを開き、このネットバンクのユーザIDとパスワードを書き取る。
久保田が用意した、こちら側のIPアドレスをネシアIPアドレスに欺瞞して通知する処理を施すと、比良坂が先ほど開いたネットバンクにログインをおこなった。そして、取りうる最長期間の入出金記録をCSVファイルでダウンロードすると、そそくさとログアウトした。次回ログインしたときに画面に表示される『前回ログアウト時間』を、比良坂に不審に思われるとまずいからだ。

 次いで、シンメカ本社からの十九万米ドル送金の出処を探る。篠崎本人はそんな海外送金をした覚えはない。すべての銀行口座を統括しているのは篠崎であり、ネットバンキングの権限も、篠崎にある。どのデータからも、送金の事実は無かった。

・・・・・おかしい・・・・・。

大金庫から通帳を取り出し、再度確認する。該当なし。

 考えあぐね、背もたれをリクライニングして天を仰いでいた午後三時。ケイコからチャットコール。

「どうしたんですか?」

「シンメカ本社から、ネシアの裏口座に十九万ドル入金しているんだが、こちらには海外送金の事実が無い」

「それじゃ、こちらにも裏口座があったということですね」

あ! 思わず膝を打った。

「部長、ヒザなんか叩いて、何か良いアイデアでも浮かんだのですか?」

顔を上げ、口でケイコが言ってきた。わざとらしい女。

「おかげさまで、思い当たった」チャットで返す。


「コバヤシケイコさん、三月の決算書類を取ってくれますか。銀行残高証明を見たい」

口頭で指示をした。経理部にもコバヤシ姓が三人いるため、全員フルネームで呼んでいる。篠崎のポリシーとして、男女とも、『さん』付けである。

 ケイコは椅子を百八十度回転させて自分の後ろのキャビネットに向くと、一応立ち上がり、一歩歩いて扉を開くと、『第五十八期 決算書類』の背表紙ファイルを取り出した。
本社から始まって、国内拠点十六箇所の現金期末在高の金種表の次、預金の残高証明を開いて篠崎の横まで行って手渡した。部長の横に立ったまま、残証を見つめている。

 篠崎は耶蘇銀行の残高証明を仔細に眺めた。

 預金種別に一枚ずつ。普通預金三口座、定期預金、短期貸付金、長期貸付金、当座貸越し。特に異常な点は見当たらない。ネシアの『隠し口座』のような、ゼロ残の口座など無い。また行き詰まった。再度腕組みをして、うなり始めた篠崎に、ケイコが静かな声で言った。

「部長、この残証、右上の銀行名の下、タイトルが『田上(たがみ)支店』になっています」

 田上支店は、シンメカの担当支店であり、すべての預金、融資はこの支店を通している。

・・・この娘、さすがUSCPA(米国公認会計士)だ。良く観察している・・・・

 篠崎は感心した。この残証は、いつも御用聞きのように顔を出す耶蘇銀田上支店の担当、コバヤシハジメに依頼している。前経理部長からの申し送りで、耶蘇銀行への残高証明依頼は、『支店担当に直接』ということになっていた。

 他の銀行の残高証明は、間違いなく、本支店すべての口座・貸付金が網羅されていた。それに対し、耶蘇銀行は担当支店のみの残高証明だ。

「コバヤシケイコさん。突然だが、耶蘇銀行窓口に行って、担当のコバヤシさんは通さず、直接残高証明を依頼してください。七月末付でいいから。『支店・口座指定』ではない、『すべての取引』で。あ、それから私服で行ってください」

 ケイコは経理部でも、会計グループなので、銀行回りをしない。財務グループでも、よほどのことが無い限り窓口には行かず、大抵は耶蘇銀田上支店の担当者コバヤシに来てもらい、融資でも海外送金でも、書類を渡して依頼している。
 従って、ケイコは行員に面が割れていない。それでも作業着で行かれると、左胸に社名の刺繍が入っているので目立つ。それでなくても女性に作業服姿で社外をうろつかれるのは見栄えの良いものでは無い。
 税務署に行く時などは、作業着姿のUSCPAである。どこかの工場の製造ラインのおねーちゃんが、社長(オヤジ)のお使いで来たと思われていることだろう。

 ケイコは耶蘇銀行のサイトから落とした残高証明申請書に所定事項を記入して、篠崎に銀行印を押下させると田上支店に向かった。残高証明書は今日明日でできるものでは無い。シンメカ経理部長あてに、直接郵送してもらう。

 ケイコを送り出すと、ネシアのパラワン銀行裏口座からネットバンクで取得した入出金明細の解析を始めた。可能な限り多くのデータと思ったが、仕様的に十三カ月分しか取れていない。

・・・・・ん?

 パラワン銀行の裏口座に入金してくるのは、シンメカ日本だけではなかった。Himeki MFG. Co.,LTD JAPAN からの入金が、この一年で三回あった。入金があるとすぐに一億ルピア強を残して振替をかけている。Himeki の入金分も含め、なぜムルデカ銀行のシンメカ・ネシア口座に。

 要所要所、つまりシンメカと同期させた四半期ごとに残がゼロになるように、残高すべてを、同じ銀行・支店の『PT HIRASA』という会社に送金している。
 芸の無い社名は、比良坂の名を取ったものだろうか。つくづく、こいつはアホだと思う篠崎である。いかにも現地企業という社名にすれば、多少はカモフラージュになるだろうに。

 毎回そこに振替えるのは、一万米ドル相当である。これが一件当たりのフィーなのか、単なるピンハネなのか。比良坂しかわからない。

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 四時半、ケイコは下だけ作業ズボン、上は自前のピンクシャツで戻ってきた。下だけ着替えたようだ。
 篠崎はネシアの受注売上・購買在庫システムから、過去すべての取引データを抜き取って、解析を始めていた。先週末に、ケイコが寮で釣り上げた、在庫管理委託倉庫へのメールとの突合せもできる。

「部長、行ってきました。『他支店の全口座』は、名寄せしないとできないそうなので、用紙もらってきました。今日FAXして、原本は明日持っていきます」

 口頭報告を受ける。その申請書とともに、残高確認申請の予備を五通、銀行印を押して作った。名寄せを待ってられないので、申請書を押し付けて、銀行に口座番号を記入してもらう。一応、支店の中では大口顧客(主に貸付金)である。多少の無理は利いてもらいたい。担当者にバレない程度に。
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登場人物紹介

地方都市で急成長中の精密機器メーカーの経理部長。

実は特命監査室長

技術憧憬癖があり、無線マニア、飛行機マニア。

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