第10話 ケイコ闖入②

文字数 2,462文字

 ケイコを座布団に座らせ、麦茶の二リットル入りペットボトルを冷蔵庫から取り出して、二個のコップとともにローテーブルに置く。ケイコは麦茶を注ぎ。次いで和菓子店でバラで求めたという、胡桃(くるみ)入りを標榜する菓子を2つ、テーブルに並べた。

「男ヤモメは冷たい麦茶ですか。緑茶は飲まないのですか?」

「急須は持っていないんだ。冬場は緑茶のボトル買って、レンジでチンして飲んでるよ。すまんが、今はストックが無い。ところで、本題だ。用件はなんだい? ぼくの生活実態についての尋問か?」

「尋問は終わりです。四十にもなって独り身の部長の、女性関係調査です。あまりに女っ気が無くて、調査相手のハニートラップにかかったら困りますから。まあ、安心しました。かつての恋人を想い続けて婚期を逃したかわいそうなオッサンだとわかりましたから。本題はこれから。不正関連のケーススタディを持っていると、以前おっしゃいましたね。それを見たいな、と思ったので」

「まだ三十九だ。かわいそうなオッサンで悪かったな。不正のケーススタディはあるんだが。期限切れとは言え、コンフィデンシャルなもので。あまり他人には見せられないな」

「まあ、そうおっしゃらずに」四つ足歩きでテーブルを回り込み、篠崎に接近する。会社では気にも留めなかった香水が、今日は妙に意識される。

「こっ、こら。近いぞ! 前いた会社を退職する時に記憶していたものを書き綴ったものだ。原本ではないにせよ、前職の秘密に属するものを、そうそう見せるわけにはいかない」

「十年経ってるなら時効ですよ。見せなさい」ずいっ! とさらに近づく。ケイコの纏った香水が鼻腔を刺激する。

「ちょっとまて、近すぎ。ドア開けてあるんだ、寮生に見られたらどうする」
 女性部下を部屋に引き込んだ、パワハラ・セクハラ上司と見られたら、進退に関わる。

「部長、中年男には珍しく息が臭くないですね。普通の男の人は中年といわず、一メートル以内で話すときは、鼻から息できないほど臭うんですけど」
 突然話題が転換したが、相変わらず、シノザキの目前二十センチにケイコの額がある。視線を合わせるのは躊躇った。

「ぼくを何だと思ってる。三十歳で歯磨きの奥義を極めたんだ。デンタルフロスと液体歯磨きはお友達だ。歯周病には縁が無い」

 ちょっと接近しすぎだ。間合いを取る意味で立ち上がると、本棚に向かい、秘蔵の不正ケーススタディを収めた八センチ幅のパイプファイルを、下二段目から引き抜いた。背表紙には、そのまんま、Fraud Case Studies と、テプラが貼ってある。

 ケイコがまだ篠崎のいた座布団に座っているので、ローテーブルを挟んでケイコ用に出した座布団に座って、ファイルを手渡した。ケイコは、先程篠崎が口を付けたコップの麦茶を、そのままグイッと飲み干すと、ファイルを捲り始めた。
 篠崎が新卒で入り、事業部の工場経理所属のまま、本社監査室に修行に出された三年間で集めた、伊達製作所古今東西の不正事件簿である。古いものから綴じているため、冒頭部に数件、シンメカで篠崎が摘発してきた事件が追加されている。

「昼飯は何にする?」
 
ケイコが熱心にファイルを読んでいるうちに、山あいの田舎町に正午を告げるメロディが防災無線の放送塔スピーカーから流れた。メシくらいご馳走してやってもいい。

「もうお昼ですか。ちょっと失礼」

 ケイコは読んでいるページに栞代わりにペンを挟んで閉じ、テーブルに置くと、冷蔵庫を開けて内容物を確認する。ミニキッチン横のパイプ棚に積まれたレトルト食品・缶詰や、調味料を一通りチェックしている。

「可愛そうな独身中年に、あり合わせで手料理を作ってあげます。一口のIHコンロだけでは寂しいですね。カセットコンロありませんか?」手作りの押し売りをするらしい。

「シンク下にあったかな? 気を遣わなくていいぞ。外食した方が楽だろう?」

「外食は生活習慣病の元です。バランスの良い食生活が健康の元! 良い仕事は健康から」

 ケイコは勝手な論理を述べると、冷蔵庫の残り物と缶詰で調理を始めた。
 冷凍野菜で栄養バランスが取れたと主張できるか疑問だが、篠崎が自分で作るよりはマシな料理と、生米は持っていないのでチンしたレトルトご飯で昼食ができあがった。料理の腕は悪くはないようだ。二人で向かい合った食事中も、ケイコはあれこれと独身男の食生活について、老婆心なのか、おせっかいなのか、意見を述べていた。

 結局、夕方の四時までケイコは居座って、ファイルや専門書を読み込み、時折思い出したように篠崎のプライベートを追及したかと思えば、社内の男女関係の現状を解説するなど、良く解からない娘だと言う印象を強くして、寮に乗り付けた赤のヴィッツで帰っていった。

ケイコが帰った部屋で、篠崎はケイコが漏らした言葉を反芻する。

『ハニートラップ』

 公表されている不正のケーススタディで挙げられる大物事件といえば、九州の地銀頭取にかけられたトラップだ。反社会勢力への不正融資に発展し、最終的に銀行は破綻まで追い込まれている。
 自分のような小物がトラップにかかったところで、馘首(くび)にすれば実害は無い。罠にかけるとすれば、不正実行者が調査を断念させるくらいの理由だが、仕事の遂行の妨げには変わりは無い。オンナには気をつけよう。

 オンナ。ケイコの笑顔が頭をよぎった。デスク上にはケイコが開いたまま立てかけて行ったミニアルバム。二十歳の自分と恵子が微笑んでいる。恵子にケイコの笑顔が重なる。
 微笑んだ口元と、額の生え際がそっくりだ。鼻はケイコの方が筋が通って美人かな。いやいや、何を考えているんだ、俺は。雑念を払うように頭をブルブルと振った。アルバムを閉じて机に収め、ベッドにうつぶせに倒れ込んで枕に顔を埋める。

即座に顔を上げた。

「くそっ! 本当にマーキングしていきやがった」
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登場人物紹介

地方都市で急成長中の精密機器メーカーの経理部長。

実は特命監査室長

技術憧憬癖があり、無線マニア、飛行機マニア。

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