文字数 12,240文字

 何用だ、と見目麗しい伊達男の口から、なんとも素っ気無く吐き出された一言に、山本(さんもと)は苦笑を浮かべた。
 その身なりは全くの平服ではあるが、そもそも貫禄のある壮年の男は、誰の目をも引いてしまう。案の定、筵小屋の影からは、好奇心の塊のような目が複数、こちらを覗いているようだった。あの立派な御仁は一体誰だ、と囁く声も幽かに聞こえる。
 どうして稼いだものか、いつだって羽振りの良いこの紳士は、芸に携わる者を支援することを至上の喜びとしているところがあった。そもそも知り合ったのもその所為で、かれこれ二百年ほどの付き合いである。その間には大店(おおだな)主人(あるじ)をしていたこともあったから、これで商才があるのかもしれない。
 この新時代に於いては、巧く立ち回った末に、しこたま資産を蓄えたらしい。立ち場としては中産階級ながら、上流階級からも一目置かれる資産家殿である。
 その財力を差し引いても、侍る若者が絶えないところを見ても判るように、これで山本は男女問わず惹き付ける。どの時であっても遊ぶ相手には不自由しないくせに、何故かここ百五十年ほど、解良(げら)に御執心という不可解な人物だ。
「そう、邪険にするものじゃない。今日はただの使いだ」
 泣きつかれてしまってね、と懐から書簡を取り出して差し出すさまを、解良は胡乱に見遣る。そうして、其処に走る文字を目にした途端、眉を開いたのだ。
「おまえさん、そちらとも繋がりがあったのか」
「私と(よしみ)を結びたがるモノは多いのだよ。おまえは少しも靡いてくれないが」
 愉快そうに緩む目許に不機嫌そうな一瞥をくれて、解良は書簡を引ったくった。ざっと目を通せば、どうやら嘆願書のようだ。是非、解良へ渡りをつけてくれと懇願して文章は閉じられている。
 基本的に、妖しの者たちは人の世へ、ひっそりと紛れ込んでいた。ヒト側で、それを知る者はごく僅か。けれど彼らは、賢く付き合えば礼が返ってくることを承知している。こうして山本と誼を結ぶのも、その所為なのだろう。ヒトには、どうしたって解決できないことがあり、それを治めてくれるモノは妖しの者たちでしかないと知っているのだ。
 その中でも解良は特殊で、こうして某かに頼まれては、せっせと拝み屋のようなことをしているわけだが。
 とはいえ、まさか神職に就く者までもがそこに名を列ねているとは。有難そうに神を祀る身で、それは如何なものかと思うのは、間違いだろうか。おまけに、彼らに解良が山本と繋がっていると確信されているのが、なんとも腑に落ちない。
 嫌な予感を全面に押し出して、解良は胡乱に山本を見遣る。
「……おまえさん、これらになんと吹き込んでるんだ」
「おまえが私の愛しい人だと? まさか。そこまで親切に宣伝してやる道理はないよ」
「どうだか」
「あれらは私を魔王と呼ぶからな、この世に存在する全ての妖しのモノと、繋がっていて当然と考えているんだろうさ」
 飄々と嘯くさまを胡散臭気に見遣って、解良はますます眉をひそめた。
「もしや、御坊とも繋がってはいまいな?」
「何の不思議があるのだね? おまえも、元々修験の者だろう」
 可笑し気に唇の端を引き上げて応じた山本は、ふと表情を改めた。頼めるかね、と真直ぐ問われて、解良は小さく鼻息を飛ばす。
 断られるとは少しも思ってもいないくせに、彼は毎回こういう言い方をするのだ。この尊大さが、魔王と持ち上げられる所以でもあるのだろう。知り合った当初に苦言を呈したところ、礼を弁えているのだと嘯いたものだった。
 仙石(せんごく)に言わせれば、始めから真正面に物申した者は、解良が初めてだったらしい。疎んじるどころか面白がった山本は、それからちょくちょく顔を見せるようになった。そんな関係も、いつしか可笑しな様相を見せて、何となく付き合いは続いている。
 己では好みから遠いだろう、と訝ったのは初めて口説かれた頃だったか。
 基本的に、山本が侍らせるのは男も女も線の細い若者が多いのだ。当人が偉丈夫であるから、そちらの方が絵になるのだろう。千両役者が何を言う、と笑い飛ばされたが、勿論当時もそんなに稼いでなどいないし、役者絵に描かれたこともない。描かせなかった、というのが正しいけれど。
 解良としては、なかなか気のいい人物であることだし、普通に友人付き合いしたいだけなのだがなァ、と呆れ半分で思っている。そう言ったところで、この奇妙な関係を楽しんでいるらしい山本は、少しも改める様子がないのだ。
「借りたままじゃぁ、目覚めが悪いからな」
「去年のあれか。私としては貸したつもりではないのだが、それでもいいさ」
 それでは頼んだよ、と踵を返しかけた山本は、ふと思い立った風情で足を止める。
「そうだ。先程、珍しいモノを見かけたよ。あの(ひと)には、私でも滅多に会えないのだがね」
「……なんの話だ?」
「大方、惹かれて山から下りてきてしまったのだろうさ。本当に、あの子は面白い子だな。思い出してしまわなければいいが」
 途端に、解良の表情が抜け落ちた。何処だ、と問う声に無言のまま指し示された先を確認すると、手に書簡を押し付けて駆け出す。その背に可笑し気な笑い声がぶつかって、解良は忌々し気に舌打ちをしたのだ。

  ◇◆◇

 刑部(おさかべ)くん? と訝しく瑶樹(たまき)が振り仰ぐ。その目がちらりと手拭を額突(ぬかづ)いた女を見遣り、知り合いかと問うてくる。
 勿論、知り合いであるはずはないし、寧ろ関わるべきではないと、先程から頭の何処かで警鐘が鳴り響いていた。見た目はただの女でしかないが、あれは安易に触れてはならないモノだろう。無難にやり過ごせるかわからないが、さっさと退散するに限る。
 なんでもありません、と彼女を促し遠離ろうとしたその背中へ、可哀想に、と。空虚な女は繰り返した。
「望んだものは何一つとて手に入らず、嘆くだけの女。喰ろうて、どうして手に入ろうか」
 歌うような細い声に、思わず足が止まる。目深に額突く手拭の所為で、女の顔立ちは判らない。声は若い娘のようにも聞こえるが、時折、老成した者のように嗄れる。唯一ちらりと見える赤い唇が、無機質に「可哀想に」と呟いた。
「あの娘は、都合の良い道具でしかなかったのだろう。彼らを喰った、その時でさえ」
 何だあれは、と瑶樹が訝しく眉をひそめる。少し前の刑部なら、彼女と同じ反応を見せたことだろう。けれど今なら、あれが何か理解ができる。そうして既に、捕まってしまっていたことも。
「あれは、何を得たかったのだろう。どうして、消えねばならなかったのだろう。あれは、只管(ひたすら)嘆くだけだったのに」
 ぐらぐらと頭の芯が揺れて、淡々と女に抉り出されているものが、思考の奥底に沈められたモノなのだと確信した。
「あれが何か、知りたくないかえ? 否、判っていましょうな。姫鬼風情が、なんと忌々しいこと」
 可哀想に、と女は呟く。
 ふと、気が遠くなった。異変に気付いたらしい瑶樹が、慌てた風情で刑部を呼ぶが、その音ですら厚い靄の向こうに感じられて、耳を素通りしていく。
 あらゆる感覚が鈍く遠離り、切り離されようとしている。
 そう思った瞬間、何かが背筋を滑り落ちた。その先に何かを見た時、全てを弾き飛ばすような強い声が、唐突に鼓膜を叩く。
(ゆずる)!」
 腕を引かれた途端、感覚の全てを塞いでいた靄が晴れて、となりに立つ男に気がついた。彼はそのまま、庇うように一歩前へ進み出ると、鋭い眼差しが女を一瞥し短く告げる。
「疾く居ね」
 小さく悲鳴をあげ、畏れたように身を翻した女は、滑るように逃れ行く。それを唖然と見送った瑶樹は、狐に抓まれた風情で「なんだったんだ」と呟いた。そうして、労し気に刑部の顔を覗き込む。
「大丈夫かい? 刑部くん。顔色が……」
「や、もう平気です」
 あの女性は、と尋ねると、瑶樹は道の向こうへ視線を向けた。
「もういないよ。影も形も見えない。少しの間に、何処かへ姿を隠してしまったらしい。一体、あれは何がしたかったんだろうね?」
 訝しく首を傾げるさまに、どうやら瑶樹は、あれが何か気付かなかったようである。一つ大きく嘆息して、刑部は傍らへ視線を寄越した。
 改めて見遣った今日の祖父は、着流しの襟に風が張り込まぬよう、添わせて臙脂の襟巻きをしている。外を出歩くには少々寒そうな姿を見るに、どうやら慌てて駆け付けたようだ。
「全く、おまえはのべつ幕なしに寄せつけるなァ」
 珍しいモノを、と嘆息して、掴んでいた腕を離す。その手が離れても、ふらつきもしないことに内心酷く安堵した。僅かに顔を覗かせた何かは再び沈黙したようで、意識の端に違和感だけが残っている。
「忘れてる間は、何事もなく平和だったんですよ」
 頭を振り振り苦々しく応じれば、彼は苦く笑ったようだった。
「名を呼んでくれるような友を、取り敢えず何処かで作りなさい。いつも儂が間に合うとは限らん」
「いやいや、友人というのはそういうものでもないでしょう。第一、今現在の俺の周り、どうなってるか把握してるのはそちらの方では?」
 半眼で告げれば、暫し言葉に詰まった様子で腕を組んで項垂れる。おそらく、面白いくらいに物の怪ばかりに周りを固められているのだろう。刑部としては、もうどちらでもいいのだけど。
 そうこうしている内に、訝し気に辺りを見回していた瑶樹が、気を取り直した風情で振り向いた。
「御機嫌よう、解良さん。毎回、思いかげないところでお会いしますね?」
 訝る瑶樹の言い種に軽く笑って、彼はちょいと通りの先を指差す。
「今、うちの一座がそこで興行を打っているんですよ」
「あぁ、なるほど。……うん?」
 ふと小首を傾げた瑶樹は、序でとばかりに口を開いた。
「つかぬ事を伺いますが、この辺りに伝わる昔語りを題材に、怪談を演じた一座はご存知ですか?」
「あぁ、(さとり)の。……弦。おまえ、それが原因じゃァないのか」
 半眼を向けられ、不貞腐れた風情で「知りませんよ」と吐き捨てる。
「投書に盗作の疑惑があったから、裏を取ろうかって話だったんです」
「それで本物を招いていては、世話がないな」
 本物?! と瑶樹が瞠目して喰い付いた。
「あの女性、物の怪だったのか!」
「えぇ、あれがこの辺りの覚。そういうモノは、そこかしこにいますよ。ただあれは、滅多に姿を見せないんですが」
 悪戯っぽく緩められた目許に、瑶樹は興奮気味に頬を上気させる。凄い、とはしゃぎかけた彼女は、ふと何やら思い出した風情で解良を見上げた。
「文明開化からこちら、世間が明るくなり過ぎて、混ざるしかないんですよ。最早、夜闇は隠してくれない」
 深い声に奇妙に気を引かれて、刑部はちらりと解良を見遣る。おそらく、後半は刑部へも向けられているのだろう。だから気をつけろと言いたいのだろうが、何をどうしたら遭遇しないで済むのかわからないのだから、仕方がないではないか。
「ふむ。他方では便利になったと喜ばれ、けれど他方では迷惑の根源ともなる。何とも悩ましい問題だな。ところで気になっていたのだけど、あなたは、やけに刑部くんと親し気ですね?」
「面白くないと?」
 そうは言ってない、と軽く眉根を寄せる。可笑し気に声を立てて笑う解良にため息を落として、刑部は面倒そうに口を開いた。
「小さい頃に、遊んでもらってたみたいです。最近まで、忘れてましたけど」
 助けてくれたのはその人ですよ、と付け加えると、瑶樹は明らかに目を丸くする。
 流石に、これを祖父だと告げるのは複雑だったのだが、当人は少なからず不満だったようだ。物言いた気な眼差しが一瞥して、ふいと逸らされる。
 その様子に、また盛大に仙石に愚痴を言うのだろうなぁ、と容易に想像できた。そうしてまた、刑部が苦情と言う形で仙石からその様子を聞かされるのだ。
 そのさまから、気のおけない間柄なのだと察するが、共に相当の歳月を渡ってきているだろうに、全く大人気ないものである。
 大体、見た目は刑部とそう変わらない若造風なのに、本当に祖父だと紹介されたいのだろうか。現在でも、己の容色を売りにした職で身を立てているというのに。
 刑部がため息を押し殺している一方で、瑶樹は何やら得心した風情で頷いた。
「なるほど、それで何となく似ているのだね」
「……似てますか?」
 幾ら血縁とはいえ、方や花形の役者である。似ているところなんて、背の高さくらいしか思い付かない。
 訝る刑部に軽く笑って、瑶樹はひらりと手を振って見せる。
「何となくだよ、凄く曖昧なところ。言ったじゃないか、何故か判らないけど見間違えたって。大方、影響を受けているんだろう」
 それにしても、と。しげしげと解良を見上げて、瑶樹はこくりと首を傾げた。
「本当に、あなたは人にしか見えませんね。物の怪というのは、案外あなたのような存在ばかりなんだろうか」
 臆することもなく真正面に尋ねられて、解良は愉快そうに片眉を持ち上げる。どうやら面白がっていることは、応える声音にも表れた。
「さて、それは属するものにもよるでしょう。ところで、そろそろお名前を伺っても?」
「あぁ、そうか。失礼しました」
 百合草(ゆりくさ)瑶樹です、と差し出された手を握り、彼は人好きのする笑みを浮かべる。それを横目に見ながら、刑部は内心嘆息した。
 刑部の周囲に関して疾うに承知しているだろうに、どうやら知らぬ振りで通すつもりのようである。そもそも端から、彼女へ事細かに知らせる気はないのだろう。……不本意そうな顔をしたくせに。
芳彬(よしあきら)と申します。世間には解良芳彬(よしあき)の名で通していますが、どちらでもお好きにお呼びください」
「それでは、世間に倣って呼ばせてもらいます。あぁ、私のことは、どうぞ名でお呼びください。市井でこの姓は煩わしい」
 ひょいと肩を竦めてみせれば、そうでしょうね、と解良が苦笑する。そうして、ふと懐中時計を引張りだして、「そろそろ」と視線を落とした。
「戻らないと拙いので。件の一座には、渡りをつけて差し上げましょう。それでは、道中お気をつけて」
「有難うございます。いずれまた、舞台を見に行きますね」
「是非。じゃぁな、弦」
 またいずれ、と応えれば、ひらりと手を振り踵を返す。颯爽と立ち去るその背中を見送った瑶樹は、ぽんと刑部の背中を叩いて踵を返した。
「それでは、私たちも戻ろうか。ところで、刑部くん? 君の名が、どうかしたのかい?」
 こくりと不思議そうに小首を傾げるさまに、刑部は隠しもせずにため息を零す。聞いていないようで、どうやらしっかり聞いていたらしい。
「いえ、どうやら魔除けの(まじな)い? みたいなものらしくて。呼ばれないと意味がないみたいですけど」
「ふむ。それでは、たまに私が呼ぼうか?」
 結構です、と即座に応えると、彼女は少々気分を害したように口角を下げた。
「しかし、また先程のようになっても困るじゃないか。呪いというのは、そういうことなんだろう? それに、解良氏が良いのに私が駄目というのは納得できない」
「やっぱり面白くなかったんですか」
 真顔で尋ねれば、ますますむぅっと口角を下げる。そうして、憤然と胸を張って堂々と宣言した。
「当たり前だ! 私は、君の相棒なんだぞ! その私ですら遠慮していたというのに……! こうもあっさりと呼ばわるのを目の当たりにするこの複雑さを、君は全く理解していない! 何か、問題は出会ってからの歳月か! それとも親密さの度合いなのか! 一体、あと何年経てば」
「あー…、わかりました。もういいです、お好きにどうぞ」
 降参、とばかりに両手をあげて遮ると、一度口を噤んだ瑶樹は、ため息をついてみせた。
「刑部くん、君の身の安全に関わることだろう。投げ遺りはやめたまえよ」
 軽く眉をひそめて説教がましく言う彼女を不思議そうに見下ろして、刑部は素朴に疑問を口にした。
「瑶樹さん、よくもこんな話を素直に信じますね? 自分で言うのもなんですが、胡散臭いにも程があるじゃないですか」
「こんなことで偽りを口にしても、君に益など一つもないじゃないか。そもそも、呼ばれたくないんだろう?」
 きょとりと目を瞬かせて、至極真っ当なことを言われてしまい、「それもそうですね」と相槌を打つ。すると彼女はにこりと笑って、そうだろうとも、と満足げに頷いた。
「それに、私は君の名は好きだよ? 弦くん。奇麗な響きだし、ずっと呼んでみたかったんだ。でも君は、あまり自分の名を好んでいないだろう? 良い名なのに勿体無いなと、常々思っていた」
 理由はどうであれ堂々と呼べるのは嬉しい、と愉し気に笑う。その笑顔に、たかが名前に拘る自分が馬鹿馬鹿しくなってしまった。
 過去には、居丈高な年長者から、理不尽な叱責を受けたことがある。実際、正しく読まれないこともままあるのだ。序でに、微妙そうな顔をされることも。
 こんな大男に似合わないのは百も承知だが、それは刑部の責任ではない。けれど、この名を好ましいと思う人が呼ぶのなら、幾らか耳に心地よいのかもしれない。
「お気遣い、有難うございます」
「私は、君に世辞は言わないよ」
 君とは違うからね、と意地悪く意味ありげな表情を浮かべる。それに軽く肩を竦めて、刑部はため息混じりに吐き出したのだ。
「俺だって、別にお世辞は言ってませんよ」

  ◇◆◇
 
 ただいま帰りました、と玄関で声をかけると、滑るようにやってきた女中が手荷物を引き取ってくれる。お帰りなさいませ、と折り目正しく出迎えた近藤に、真秀(まほ)はにこりと微笑んだ。
「子供たちはどうしているかしら?」
茉莉(まり)様とご一緒に、テラスでお八つを召し上がられてございます。智治(ちはる)様も戻られましたので、同席されていますよ。真秀様の御茶も、そちらへ御用意致しましょうか」
「えぇ、お願い。そうそう、素敵なお店を教えてくれて有難う」
 礼を口にすると、折り目正しい執事は、ゆるりと目許を笑ませた。彼の先導でテラスへ向かう最中も、そのまま会話は進む。
「御用に足りましたか」
「幾つかお仕事をお願いして参りました。一度、婚家へ訪ねてくださるそうです。ご店主は美しい方ね」
 小柄で華奢ながら、艶やかさも兼ね備えた女主人(ミストレス)は、女の目から見ても見愡れるひとだった。それでいて話す言葉はさっぱりと、媚びたところは微塵もない。
「初めは似つかわしくない方だと思いましたけれど、お話しをしてみれば、立派な職人なのだとわかりました。安心してお任せできそうです」
「それはようございました。実は牡丹(ぼたん)女史には、瑶樹様のお支度も特にお願いしてございまして」
 まぁ、そうでしたの、と目を丸くして相槌を打ったところで、子供たちの愉し気な笑い声が耳に届く。茉莉はあれで子供好きで、実に上手に遊ばせるのだ。こうして久し振りに一人気侭に出掛けられたのも、彼女を信頼しているからでもある。
 テラスへ顔を出せば、愛娘は弟の膝の上で、くうくうと寝息を立てていた。気付いた智治は目許を笑ませて、お帰りなさい、と静かな声をあげる。
「あら、お帰りなさい、お姉様。もう宜しいの?」
「おかえりなさい、ははうえ!」
佳一郎(よしいちろう)
 静かにね、と智治が口元に指を立て、愛息子は慌てて小さな両手で口を押さえた。そうっと妹の様子を窺って、健やかな寝息を確認すると、ほっと胸を撫で下ろす。
 その仕種に微笑んで、真秀は「ただいま帰りました」と息子の髪を撫でた。
「良い子にしていましたか?」
「はい。まりねぇさまが、あそんでくださいました」
「それは良かったですね。有難う、茉莉さん。智治さんも」
 いいえ、と穏やかに笑う智治に軽く口を尖らせて、茉莉は一つため息をつく。
「本当に、智治は寝かし付けるのが上手よね。佳矢子(かやこ)はね、先程まで少し眠そうにぐずっていたの」
 膝に乗せて間もなくそれよ、と健やかに眠る赤子を示す。近藤に勧められ真秀が席に着いて間もなく、「お待たせ致しました」と子守(ナニー)が静かに姿を見せた。
「寝間の御支度が整いましてございます。さ、佳矢子様をお預かり致します」
 宜しく、と智治から眠る赤子を受け取ると、彼女はそうっと大切に抱いて会釈をした。お願いしますね、と真秀が声をかけると、お任せくださいませ、と静かな声が応えて、滑るように退出していく。
「ところで、真秀姉さん。どちらへ出掛けていたんですか?」
「近藤から聞いて、歯車灯籠亭へね。少し、婚家の防犯を見直そうと思いましたの」
 ふう、と困った風情でため息をついて、茉莉へ語ったそっくりそのままを、智治にも話して聞かせる。話が進む度に渋くなっていく彼の表情は、小さな甥っ子の武勇へ至ると、優し気に緩んだ。
「そう。偉いね、佳一郎。ちゃんと妹を守れるんだね」
「あにたるもの、いもうとをまもるのはとうぜんだと、ほつまにぃさまがおっしゃっていました」
 固い決意を秘めた眼差しで真直ぐ智治を見上げ、子供はきっぱりとした口調で宣言する。そのさまに苦笑して、彼は優しく子供の頭を撫でた。
「そうか、兄さんの教えだったんだね。ちゃんと守れる佳一郎は、立派だよ」
「それにしても、仰々しくなってきたわね。そんな変態は、手っ取り早くお姉様が伸してしまえばいいのに」
 そうねぇ、と微笑んで、差し出された紅茶へ手を伸ばすと、真秀は一つため息をついた。この憂鬱な気分は、素晴らしく香りの良い御茶でも慰められないらしい。
「そうしたいのは山々ですけれど、婚家へ御迷惑をかけるわけにもいきませんものね。あれでも親戚ですから、お義父様を立てて差し上げなければ」 
 件の従兄弟殿は、甘利(あまり)家へ婿入りした義父側の人間だという。その所為か、義父は不届きな甥の排除に人一倍躍起になっているのだ。どうやら婿入りした際に、実家とは色々あったらしい。
 序でに、真秀が嫁に来たことで、更に何かを言われたのだろう。甘利家の嫁である前に、彼女は百合草の人間だ。そういう目が、常について回る。
 己のことは疾うに諦めているものの、それが婚家批判へ及ぶのは避けたいところだ。義父母は至らぬ嫁を大層大切にしてくれるし、孫たちも無闇に甘やかすことなく、けれど大らかな心で慈しんでくれている。彼らの為にも、まだ可愛らしい嫁でいたいのだ。
 何より、真秀がいないときに襲撃されることを考えると、やはり防犯は必要だと思うのである。従兄弟殿のこともあるが、後々無駄にはなるまい。
「……そこまでして、それでも尚、食い下がるようなら仕方がありません。それ相応の報復をいたしましょう」
「そうね、思い知らせた方が親切というものよね。智治、何か面白い情報を幾つか拾っていらっしゃいよ。新聞にでも投書してやりましょう」
「それなら、瑶樹に流した方がいいんじゃないですか? 春暁社(しゅんぎょうしゃ)は堅実さで売っているんでしょう?」
 新聞もいいが、ゴシップは雑誌に流してこそだろう。面白可笑しく尾ひれをつけて、巷へ広まる速度がまるで違う。効果的な餌も、十分撒いてやる必要がありそうだ。
 悪い顔で算段する妹弟を頼もしいものだと眺めやり、真秀はふと思い出した風情で近藤を見上げる。
「そうだわ、ご店主から言伝がありましたの。今日は瑶樹さんを夕食に招待したそうよ。遅くなるようなら、迎えにいってさしあげてね」
「それは、恐縮でございます。お手を煩わせまして、申し訳ありません」
「いいのよ、今日はわたくしもお世話になるのだし。素敵なお店と、親切な方と、久し振りに愉しく過ごせていますもの」
 件の店では、珍しい物もたくさん見られたし、興味深い話もいろいろ聞かせてもらった。この数日は憂鬱を抱えていただけに、良い気分転換になって幸いである。
「そういえば、自動人形(オートマタ)というものを、初めて目にしましたの。本当に、技術の進歩には驚くばかりですわ」
「あぁ、桔梗(ききょう)さんでしょう? 本当に凄いわよね、彼女。週末、牡丹さんと一緒に我が家に訪れるのよ」
 瑶樹の支度をしに、と茉莉が嘴を挟む。
「でも、桔梗さんは特別。あれほどの自動人形には、英国でだってお目にかかれないもの。きちんと、人間のように思考しているふうに見えるものね」
 あれはどういう機構なのかしら、とまるきり科学者の顔で呟く。聞けばいいのに、と言ったのは智治で、けれど茉莉は口を尖らせた。
「心臓部なんて、おいそれと見せてくれないわよ。まして牡丹さんは、あれで生計を立ててるんだもの。そんな失礼なことは出来ないわ」
 ……それに桔梗さんと話してると、作り物だって忘れちゃうのよね。
 ぽつりと零れた言葉にため息が混じって、佳一郎が不思議そうに小首を傾げた。まりねぇさま、と小さな声が労し気に響いて、茉莉は「何でもないのよ」と甥へ笑いかける。
 近頃の妹は、何かを作り出すことをしていないのだ、と。
 秀真(ほつま)から聞いたことを、ふと思い出した。茉莉は小さな頃から細かい作業が得意で、飽きもせず一人で何かを作って遊んでいた。
 だから、彼女が()つ国の新しい技術力に惹かれて、この小さな島国を飛び出していったのは想定内の出来事で、家族は大らかに見送ったのである。
 瑶樹のネオ・ヴィクトリアン趣味は、外つ国から頻繁に便りや小包を寄越していた、茉莉の影響だろう。
 彼女の書簡には充実した生活が垣間見えたし、渡航を手引きしてくれた知人も、そんな様子を報せてくれていた。真秀が嫁いだ折りには、外つ国から祝いの品を贈ってくれて、それは現在も婚家に唯一ある洋間を彩っている。
 そんな彼女がふらりと戻ってきたのは、数年前のこと。その頃から引き蘢りがちになり、現在に至る。
 何があったのか、一切聞かないのは百合草家の方針だ。必要であれば言え、手数は惜しまない。家長がそういう人だから、自然と子供たちもそう育った。それを承知しているから、瑶樹も曾て「存分に」と頭を下げたのだ。
 百合草家の人間は、挫折を知らない。そうなのだと、世間には信じられている。
 実際は、本当に挫折を知らないのは、家長と四子くらいなのだろう。智治はどう思っているか知らないが、あれが一番父に似ている。
 秀真はあれで切り替えも立ち直りも早いので心配はしないし、瑶樹も自ら立ち上がり振り切った。茉莉の場合はどうなのだろう、と少し心配になる真秀だ。
「それにしても、瑶樹は牡丹さんのお気に入りね。夕食のお誘いがたびたび入るじゃない」
「刑部くんが、上のアパートメントにいるからでしょう。寧ろ、彼が牡丹女史のお気に入りなんじゃないですか」
「お二人のやり取りを眺めるのがお好きなようだと、桔梗殿から聞いておりますよ」
 愉快そうに近藤が一言添えて、新たに淹れた紅茶を茉莉のカップへ注ぐ。ぼくにもください、とカップを差し出す佳一郎に、近藤はにこりと微笑んで、恭しく赤褐色の茶を彼のカップへと落とした。
「ねぇ、近藤? あの子たちは、お招きされた席で、どんなものを食べているの?」
 興味本位で尋ねた茉莉へ、近藤は僅かに思案げな表情を見せる。
「そうでございますね、凡そ庶民的な献立と言いましょうか。牡丹楼の家事仕事は、全て桔梗殿が取り仕切っているそうですが」
「まぁ、そうなの! ますます素晴らしい自動人形ね。まさに叡智の結晶だわ」
 目を丸くした茉莉が感嘆の声を上げ、近藤は何処か誇らし気に「使用人の鑑でございますな」と相好を崩した。
「ですので、調理も桔梗殿の手によるのですが、なかなかどうして、素晴らしい料理人でございますよ。瑶樹様におかれましては、大層お喜びのようでございます」
 あらあら、と微笑ましく口元を押さえて、真秀は悪戯っぽい笑みを目許へ寄せる。
「やはり、瑶樹さんが一番、秀真さんと気質が似ているのですね。秀真さんは、相変わらず赤提灯をお好みなのかしら?」
「そのようで」
 意外そうに妹弟が視線を交わらせた。どうやら、彼らには上手く隠していたようである。いつだか、もう少し上手くおやりなさい、と言ったのは真秀なので、より慎重になったのだろう。ばれたところで家長は何も言わないだろうが、きっと土産は要求される。
「ははうえ、あかちょうちんとは、なんですか?」
 不思議そうに小首を傾げた佳一郎が声をあげて、真秀はにこりと微笑む。
「大人の男性が訪れる社交場の一つです。大人になったら、秀真さんに連れていっていただきなさい」
 お姉様ったら、と茉莉が苦笑を浮かべた。上流階級らしからぬ、と言いたいのだろうが、世間には労働・中産階級の人々の方が圧倒的に多いのだ。狭い世界で暮らしていては、器の小さな男になってしまう。真秀としては、夫君と同じく大らかに器の大きな人物へと育って欲しいと願っているのである。
 それに、秀真が通う所なら、場末の吹き溜まりということもあるまい。身内のことで暴走しない限り、あれは頗る優秀な男だ。
「知らなかった、兄さんがそんな所へ足を運んでるなんて」
「あなたとは、少し違う方法で人脈を築いているだけですわ。秀真さんには必要なものよ」
 不満顔の弟を窘めて、真秀は澄まし顔で付け加えた。
「あなたには真似出来ないことですから、聞き流しておしまいなさいな。但し、知っていれば、いつかは役に立つでしょう」
「……わかりました。真秀姉さんには敵いませんね」
「そうでなくては、あなた方の姉は名乗れませんわ」
 にこりと微笑む長子を前に、妹弟は揃って肩を竦める。百合草家の跡取りが女傑と称する彼女には、兄弟が束になろうと到底敵いっこないことは明白なのだ。
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