文字数 12,364文字

 煌々と輝く洋燈(ランプ)に照らされた室内は、それが地下なのだということを忘れさせてしまう。かちこちと規則正しく時を刻む大きな柱時計、細かな彫刻と複雑な絡繰を施された立派なオルゴール、一体何に使うのかわからないような機械類と。ごちゃごちゃと物に溢れているくせに、それぞれがひっそりと息を潜めている店内には、いつだって仄甘い煙草の香りが満ちている。古びた帳場台の向こう側にゆったりと座する店主は、牡丹(ぼたん)をあしらった()煙管(きせる)に長い指を絡め、ほわりと煙を吐き出した。
「それで? 瑶樹(たまき)嬢ちゃんも例に倣って、だんまりを決め込んでるのかい?」
 にんまりと紅を注した唇の端を釣り上げて、彼女は可笑し気に切れ長の目を煌めかせる。黒い裾絵羽の衣紋を大きく開き、帯の代わりに錦で誂えたコルセットを締めて、無骨な生業には不釣り合いな白魚の手には、指先を落とした黒レースの手袋を。
 纏め髪に大きな牡丹の花簪を挿した妖艶な美女は、刑部(おさかべ)が少々苦手としているヒトだ。
「……いえ。どうやら思いの外、可愛らしい悲鳴をあげてしまったことに、自分で衝撃を受けているみたいで」
 不貞腐れてるだけですよ、と刑部が至極真面目に告げると、赤い天鵞絨(ビロード)を貼ったスツールに腰かけた瑶樹は、不機嫌そうに口角を下げ振り向きもせず傍らに立つ彼の腹へ「ぼすん」と拳を叩き込む。呻く刑部にくすりと笑みを零し、質素な黒いドレスにエプロンという、ビクトリアンそのままの家女中のお仕着せに身を包んだ可憐な自動人形(オートマタ)が、豊かな香りの紅茶を彼らへ差し出した。滑らかに動く関節と、耳障りな駆動音すらもさせずに活動する彼女は、ひっそりと花咲くように微笑んだまま動かない面さえなければ、ヒトと遜色ない傑作といえよう。菫青石(アイオライト)のような瞳は澄んだ青紫をして、これが彼女の名の由来となっている。
「笑わないでくださいよ、桔梗(ききょう)さん」
「申し訳ありません、刑部様」
 笑みを含んだ奇麗な声が応えて、優雅にスカートを摘んで一礼すると、滑るように店の奥へと姿を消した。
 彼女が動くたび、腰に着けたシャトレーンがさらさらと音を立てて擦れあって、それだけで一つの音楽のようである。文明開化が何を齎したのか、と未だ議論を呼ぶ最中ではあるが、この店内に於いては確実に時代は進んでいるようだ。
 ここは、牡丹楼(ぼたんろう)と呼ばれるアパートメントの地下。この歯車灯籠亭(はぐるまとうろうてい)は、大家である牡丹が経営する道具屋である。
 刑部は階上のアパートメントに住んでおり、何かと大家の雑用に借り出されていることもあって、彼女らとは馴染み深いのだった。そもそも、編集長の伝手で格安に借りられているのだから、少々の労働力の提供はお安い御用である。その所為もあって桔梗とは気安い仲だし、実は瑶樹との初対面は、この道具屋でのことだった。
 その彼女は、先程からむっつりと黙り込んだまま、今は桔梗の手による鮮やかな紅褐色の水色をした紅茶を飲んでいる。
「瑶樹さんも、いい加減に機嫌直してくださいよ」
 一晩中窓を叩き続けた驟雨も過ぎ去った翌日、彼らが件の寄宿学校から帰還したのは、昼過ぎのことだった。
 完璧な外面で必要な取材を済ませた瑶樹は、帰路に着いた途端に一言も発しなくなったのである。激しい雨音で蓋された環境で、建物の外へ声が届いたとは考え難い。何より、同じ建物内にいた刑部の元へも、幽かにしか届かなかったのだ。けれど瑶樹としては、刑部に聞かれたことが殊の外堪えているらしく、むっつりと不機嫌そうに黙り込んで、必要最低限しか会話が成立しない。
 帰宅前に顔を出してきた社屋でも変わらず、何となく状況を察した編集長に「機嫌取りをしておけよ」とこっそり囁かれたのだった。……するつもりは全くないが。
「結局、見たんですか? 見なかったんですか?」
 そこの部分を突っ込めなかった所為で、改めて後日、足を運ばねばならないのだ。他の仕事も詰まっているというのに、無駄な手間が増えて困る。つらつらと歯に衣着せず、全く取り繕う様子さえも見せずに淡々とお小言を繰り出す刑部に、とうとう瑶樹は根負けしたように「わかったから!」と声をあげた。
「私が悪かったよ、ちゃんと話すから止めてくれ!」
「それで、何があったんですか?」
 一転して穏やかに、優し気な声が尋ねる。むうっと口角を下げた瑶樹は、一つため息を落とした。先程から、牡丹は愉快そうにくつくつと笑い続けている。
「あんたら、良い相棒だねェ」
「同い年だって、ばらさなきゃ良かったよ」
 ぼやく瑶樹に、刑部は心外そうに軽く眉を持ち上げた。
「おかしなことを言いますね。俺は一貫して態度は変えていませんが」
 わかったから、と等閑(なおざり)に手を振った瑶樹は、僅かに眉をひそめて、言い辛そうに口を開いた。
「多分、見たんだと思うよ」
「仕掛けられた可能性は?」
「ない。だって、あの場に於いて本当の意味で私を知る者は、なかったからね」
 あれが『そう』なら確かに気持ちのいいモノじゃないな、と。彼女は物憂気に嘆息する。
「まぁ、経緯から話すよ。君と別れた後、私は一人で来た道を引き返したわけだがね」
 足早に過ぎても仕方ないだろうと、心持ちゆっくりと歩いていたらしい。曾て彼女が通った学び舎とは趣が違うさまも、なかなか興味深くて楽しかったというのもあったようだ。
 そうして半分過ぎたところで、物音を聞いた。
 振り向いたところで、薄ぼんやりと闇が深くなっていくだけで、何かを見通すことは出来なかったらしい。なんだろうな、と持ち前の好奇心も手伝って、瑶樹は踵を返したのだ。足音を殺して戻る道すがら、じっと目と耳を澄ませていた彼女は、うっすらと光が届くその先に、何かが過ったことに気がついた。
「ちょっとだけ、刑部くんかな、とも思ったんだけどね。君ならまず声をかけるだろうし、だったら、忘れ物を取りに来た生徒か、わざわざ取材に来た記者を驚かせてやろうって輩だろうかと考え直して」
 何者かが入り込んだ教室まで、足早に戻ったのだ。そうして覗き込んだ室内には、誰もいなかった。目の迷いだったかな、と小首を傾げながら教室に入り込み、ぐるりと辺りを見回した。ざらざらと響く雨音がやけに耳について、ふと、闇が深まった気がしたのだ。酷い雨、と窓の外を見遣り、振り向いたすぐ後ろに。
「ヒトが、立ってたんだ。流石に驚いて離れたんだけど、それが思いもよらないモノでね。後は刑部くんの知ってる通りだよ。君が駆け付けたときには、煙のように消えてしまった」
「目の前で消えたんですか?」
「さぁ? 憶えているだろうけど、相当取り乱していたからね」
「それで、何を見たんですか?」
 ち、と瑶樹が小さく舌打ちした。そうして、ため息混じりに吐き出す。
「自分だよ」
「……可能性として考えられるのは」
「鏡だの変装だの、それは有り得ない。君だって、すぐに家捜ししたじゃないか。言っただろう、本当の意味で私を知る者は、あの場にはいなかった。……曾ての、私と言えばいいのかな」
 まず気付いたのは、見覚えのあるブーツの爪先だった。それを履いていたのは数年前、まだ学生だった頃。当時は自転車を使っていたから、ブーツの内側に擦れた傷を幾つも作っていたのだ。それと全く同じ位置に、真新しい傷がある。
 ぎくりと心臓が跳ねて、瑶樹は我知らず後退りした。ブーツの上には、これも見覚えのある暗い色の馬乗袴。母の趣味で着せられていた中振りには、艶やかな花が咲いている。
 そこにいたのは、茫洋とした眼差しの、たっぷりとした黒髪を結った女。
「見たくないもの、直面したくないものと君は言ったね。当たりだよ。あんなものを見せられて、ほいほいヒトに話せるはずがないだろう」
 低い声で吐き捨てて、俯きがちに片膝を抱え込む。そのさまを見下ろした刑部は、瑶樹の前で膝を着き、強張った白い顔を見上げた。
「良かったですね、オカルト体験ですよ」
「……君は、他に言うことはないのか」
「話し難いことを聞かせてくださって、有難うございます」
 他の目撃者が見たのも自分自身なんですかね、と思案げに小首を傾げると、瑶樹が「ぺちん」と額を叩いた。
「痛ッ、何するんですか」
「もういいよ、馬鹿馬鹿しい。君はそのままでいてくれ」
 今日は帰る、と覇気のない声が零れ落ちて、立ち上がった瑶樹は振り返りもせずに店内を突っ切ると、そのまま出ていってしまう。何だったんだ、と額をさすりながら立ち上がる刑部を見上げて、牡丹は煙草盆を引き寄せた。
「根掘り葉掘り聞かれるんだろうと身構えてたら、全く興味も示さないんだからねェ、拍子抜けしたんだろうサ」
 あんたは良い意味でヒトに興味がないね、と火皿の灰を落とすと、吸口を銜えて残った灰を吹き飛ばす。
「聞いた方が良かったんですか?」
「そうじゃないよ、馬鹿だねェ。まァ、気が向いたら話すだろうサ。傍から聞けば武勇伝でしかないんだけど、本人にとっちゃ大問題だから」
 きちんと拝聴してやンな、と唇の端を吊り上げられて、渋い顔で戸口を振り返った。
 あの様子では、取材に同席させるのは酷なのではないだろうか。暫く別行動するかと内心嘆息したとき、煙管を置いた牡丹が徐に口を開いた。
「変に遠ざけるんじゃないよ」
「……常々思ってたんですが。姐さん、心が読めるんですか」
 おまえは読み辛い、と散々言われていた子供時代を振り返るに、牡丹が折に触れ投げてくる言葉が不可解でならない。果たして、にんまりと笑った美女は、優雅に裾を払って立ち上がった。
「さてね? 刑部の、今日は夕飯(ゆうめし)食っていきな。桔梗が張り切ってるからサ」
「いえ、そんなご迷惑……」
「あの子、あんたが昨夜帰らなくって、随分やきもきしてたんだよ。罪作りだねェ、色男」
「そちらも不思議だったんですけど、桔梗さんって本当に自動人形なんですか」
「おや」
 あんたはあれが人間だと思うの? と目を細められて、刑部は思案げに軽く目を伏せる。
 もし本当にそうだとして、何の不思議があるだろう。彼女と対面するときは、いつだってお仕着せを着込んでいるのだ。首も手首も足首も見えず、あの面さえ見なければ、誰もが彼女を人間と思うだろう。それくらい、彼女は細やかに感情豊かなのだ。
「……仮面を被った人間と言われても、納得しますね」
 肯定した途端、牡丹が声を立てて笑う。そうして、嗚呼可笑しい、と目尻を拭うと、奥へ声を掛けた。
「桔梗、ちょいとおいでな」
 はい、と彼女の細い声が聞こえて、滑るようにやってくる。そして、愉快そうな牡丹に手招かれて耳打ちされると、こくりと首を傾げた。
「御命令とあらば?」
 心底不思議そうな声が応じて、ドレスのカフスを外す。するりとまくりあげられた腕の、肘の関節には球体が埋まっていた。
「こちらで宜しいでしょうか、刑部様?」
「あ、はい。失礼をしました」
「いいえ。疑問が解消されて、良うございました」
 袖を直しながら応じた桔梗は、ヒトにしては奇麗な手を刑部へ差し伸べる。
「指に関しましては、水仕事も行いますので。肘に掛けて、少々覆いを掛けてございます」
「あぁ、それで関節が見えないんですね」
 差し出された手に触れて、関節部分を指でなぞる。そうすれば、何となく球体が感じ取れるような気がした。
 そんな二人のやり取りを愉快そうに眺めていた牡丹は、どう? と目許を笑ませる。
「牡丹姐さんの最高傑作は」
「御見逸れしました」
 ふふ、と得意げに笑みを零した彼女は、下がるように桔梗へ示した。
「御招待したからね、夕飯は二人前で」
「畏まりました」
 優雅に一礼して立ち去る自動人形を見送って、牡丹はぽつりと零す。
「……それを感じ取るのは、あんただからなんだけどねェ」
「なんですか?」
 聞き咎めて訝しく振り向いた刑部へ、彼女はゆるりと目許を笑ませて、作業場への扉を開いた。
「さァ、まだ時間はあるからね。ちょいと手伝っておくれな」
「いいですよ。今度は何ですか」
 気軽に応じて、作業場へ入り込む。間もなく、賑やかな作業音が響き渡った。

  ◇◆◇

 翌朝出社すると、編集部で瑶樹がくさくさしていた。どうしたんですか、と呆れ半分で尋ねると、彼女は不機嫌そうな眼差しを向けてくる。
「……近藤に叱られた」
「あぁ、無断外泊ですか」
 これまでに数度、対面したことがある百合草(ゆりくさ)家の執事は、壮年紳士の皮を被った超人だ。百合草家と言うよりも、瑶樹の執事を自認しているようで、幼少期より傍に控えている人物だという。初対面時、くれぐれも宜しくお願い致します、と丁寧に頭を下げられたのは、まだ記憶に新しい。
「仕事で、あの雨だぞ! 過保護すぎると思わないか?」
「それだけ心配されてるんですよ」
「しかも、君が一緒だったと言った途端、鉾先を収めたんだ。全く腑に落ちない!」
 嗚呼、と嘆息して、刑部は「ふ」と遠い目をした。
「瑶樹さんに怪我がなくて、本当に良かった」
 期待を裏切ったが最後、どんな報復を受けることか。何気なく立っているだけなのに、妙な緊張を強いられる達人相手に、逃げ切れるとは思えない。
 本日の予定を軽く確認をして、今日のところは編集作業に専念することになった。急遽差し換えることになった件の巻頭記事以外は、順調に校正作業へ移行している。瑶樹にはあちらの草案に徹してもらうことにして、刑部はその他の雑務を抱えて編集部を後にした。
 編集長への報告を済ませ、資料室へ借出していた資料を返却し、途中で曾ての同僚と挨拶を交わす。校正室へ顔を出しゲラを受け取って地下へ戻ってくると、待ち構えていた瑶樹に原稿用紙を渡された。
「率直な意見を頼むよ」
 内容は、一昨日話した方向で定めたらしい。刑部が睨んだ通り、カメラ・オブスクラを利用した仕掛けがあったようで、そちらは昨日の昼休み時に、渡りをつけてもらった二年生に確認できた。彼らも代々受け継がれた傑作と胸を張っており、これを記事にする了承は得ている。文章に瑶樹らしくない大仰さはあるが、インパクトを狙っているのなら、これでいいのだろう。
「……いいと思います。もう少し、詰めるんですよね?」
「君の写真を見てから考える。カメラ・オブスクラについて解説を入れたいから、歯車灯籠に行ってくるよ。進捗を確認しておいてくれるかい?」
「わかりました」
 近頃手解きを受けている写真だが、色々ばたついていたこともあり、今回は師匠へ丸投げしてしまった。手の早い師匠のことだ、現像は終わっているだろうから、引き伸ばしくらいは手伝えないだろうか。
 思案する彼を見上げた瑶樹は、頼んだよ、と手早く身支度を整えて、颯爽と出ていってしまった。
 何だろうな、と違和感に首を傾げた刑部だったが、気にしても仕方がなかろうと、原稿を瑶樹の机へ戻し編集部を後にする。
 訪れた暗室では既に写真が出来上がっており、なかなか良い絵だと、師匠からお誉めの言葉を頂くことが出来た。早めの昼食序でに幾つかの助言も頂いてから編集部へ戻ったが、瑶樹はまだ戻る様子もない。話しが弾んでいるのだろうか、と気にした様子もなく、彼はそのままゲラ刷りの確認作業に移った。巻頭記事が押している以上、出来ることだけでも済ませてしまいたいところである。瑶樹の筆は早いから、あまり心配はしていないけれど。
 結局、彼女が戻ってきたのは、午後も暫く過ぎた頃だった。
 キャスケットとコートを脱ぎ去り、疲れた、と足を投げ出した彼女は、刑部の問うような眼差しに軽く肩を竦めてみせる。
「序でだから、あちこちへね」
「写真はそちらに。先行している記事に問題はなさそうなので、判を押して編集長へ回してあります。あちらの裁可待ちですが、恙無く通るでしょう。差し換え記事について尋ねられましたが、草案段階である旨は伝えてきました。本原稿を書く前に一度持ってこい、だそうです」
「有難う、君は本当に仕事が早いね」
 御蔭で随分楽になったよ、と刑部を労って、じっと見詰めてくるだけの後輩に、根負けしたように苦笑した。
「ちょっと、気になることを小耳に挟んでね。刑務所まで行ってきたんだ」
 は、と目を丸くした刑部を余所に、瑶樹はいつもの調子で言葉を重ねる。
「しかし、ますます判らなくなってしまったよ。私が見たモノは、何だったのだろうな?」
 昨日、歯車灯籠亭を後にした瑶樹は、その足で情報屋の元へ向かったらしい。そこで、件の寄宿学校を自主退学した者に心当たりはないかと尋ねた。有名な奴がいるじゃァないか、と指摘されたのが、件の刑務所で服役中の人物だったのだ。
「無差別殺傷事件を起こした人物で、重軽傷者及び、残念ながら亡くなられた方もいる。取り押さえられた時は錯乱状態で、事情聴取でも妄言を重ねたと、当時の新聞が報じていたのを確認した。そのさまが、まるで何か幻覚を見たようでね」
 あなたが見たモノについて伺いたい、と取材を申し入れたところ、すんなりと面会に応じたのだという。そこで、彼は凄絶な笑みを浮かべたのだ。
 おまえもアレを見たのか、と。
 目だけが死んだように凪いでおり、けれども男は饒舌に語りだした。ほらそこにいる、おまえには見えないのだろうな、あれは俺に従う影だ。みんなみんなそうだった、各々の影に食い付かれるのさ。お気の毒だな、アレからは到底逃げられないぜ。その所為で俺は目出度くも犯罪者の仲間入りだ。
 くつくつと笑う男を訝しく見遣り、無表情に立ち会う監視へちらりと視線を寄越した瑶樹は、低い声で尋ねたのである。
 私が見たのは、自分自身だ。あなたもそうなのか、と。
 すると、唐突に男の表情は抜け落ちた。最初に見たのは何処で、何をしていたのか。天気はどうだったのか、そこにいると言うが頻繁に見るようになったのはいつなのか。重ねて尋ねても男は答えず、監視が終了を告げるまで、とうとう一言も発することはなかった。
「聞き方を誤ったな。何が見える、と聞けばよかった。けれど立ち去り際、彼は不明瞭に呟いたんだ。私には、狂っている、とだけ聞き取れたがね」
「……ヒトにより、見るモノが違うんでしょうか」
「その可能性は否定できない。さて、私も頻繁にアレを見るようになるのかな」
 皮肉げに唇の端を吊り上げて、瑶樹は長い脚を組み、堂々たる仕種で頬杖をつく。婦女子がすれば眉をひそめられそうではあるが、彼女がすれば様になる。しかし、刑部は少々大仰にため息をついて、半眼で見下ろした。
「ところで、瑶樹さん」
「どう致しまして、君なら遠ざけようとするだろう? それでは駄目なんだよ」
 察して牽制する瑶樹に、彼は苦虫を噛み潰したさまで口を噤む。
「……そんなことしませんよ」
 どうかな、とちらり笑って、瑶樹は物憂気に吐き出した。
「しかし、どう考えたものかな。証言が足りないのは明白だ。もっと集めなけりゃ。君、これからちょっと付き合わないかい? もう一つを確かめに、旧市街へ行こうと思うんだが」
「確認しますが、それは記事にするんですか?」
 ふと小首を傾げた瑶樹は、あっさり「しないだろうな」と応える。そうして、にやりと唇の端を吊り上げた。
「知的好奇心ってやつだよ、刑部くん。何、記事種なんて、何処に転がっているかわからないじゃないか。いい拾い物が出来るかもしれないよ」
 ものは言い様ですね、と半眼を向けて、軽く眉をひそめる。そうして、机の上の原稿を指した。
「それ、目星がついたなら付き合います」
「それは……」
「優先順位を間違えないでください、こちらには締め切りがあるんです」
 む、と口角を下げた瑶樹を「駄目ですよ」と平坦な声で窘める。
「さぁ、瑶樹さん。仕事しましょうか」
 終われば幾らでも付き合いますよ、と促せば、瑶樹は返事の代わりに軽く肩を竦めてみせたのだった。カメラ・オブスクラの注釈記事を刑部へ丸投げした瑶樹は、集中して終業時間まで、写真を片手に万年筆を走らせ続けたのである。
 鉄道馬車に飛び乗って向かった旧市街は、古き良き時代の風景を未だ色濃く残していた。
 彼らの目の前には大門が開け放たれて、道中も終えた店先には、ゆらりゆらりと灯火が客を手招いている。
「付き合えッて、こちらですか」
「一応、私も女だからな。万一摘み出されても、君なら取材できるだろう? 実際、私は不案内だが、君に馴染みはあろうね?」
「馴染みと言える程、遊び呆けてはいませんよ」
 否定しないのだね、と愉快そうに笑った瑶樹は、キャスケットを目深に被り直し、飄々と大門を潜り抜けた。
 通りに面した店からは、猫たちの媚びた声がする。それらを横目に、瑶樹は手帳を取り出すと頁を捲った。
「妓楼でなく、茶屋で下働きをしているらしい」
 読み上げられた店名には朧に憶えがあり、通りの先を示してみせる。入口に提灯を灯している店を確認して一つ頷くと、彼女は閉じた手帳をコートの内ポケットへ放り込んだ。
「しかし、内にも茶屋があるとは知らなかったな」
「接待で、ここで宴席を設けたりしますからね。賑やかしに芸者は必要でしょう」
「君にも経験はあるのかい?」
「お偉い先生のお供で一度。なかなか豪勢に遊んでおられましたよ」
 世の中には未だ知らないことがあるな、と軽く眉根を寄せて呟いた彼女は、そのまま刑部を振り仰いだ。
「駄目ですよ」
「まだ、何も言ってないじゃないか」
「遊んでみたいとでも言うんでしょう?」
 駄目ですからね、と念を押すと、不満げな表情を浮かべる。この突拍子もない御令嬢は、ここがどういう場所か、きちんと理解しているのだろうか。大体、女性が妓楼で何をするというのだ。そう指摘すれば、失念していたといった風情で目を丸くする。
「そうか、ここはそういう場所だったな」
「外なら馴染みがいますから、機会があったら呼んであげますよ」
「……本当に、君には度々驚かされるよ。情婦(イロ)というやつかい?」
「瑶樹さんの発想の方が驚かされますよ。以前の部署で諸々の手配は大体やってたので、仲良くさせてもらってるヒトがいるだけです」
「すまない、失礼を言った。何にせよ、楽しみにしているよ」
 目指す茶屋までやってくると、丁度若い男が、姐さんたちを見送るところに行き会った。艶やかだな、と彼女らを目で追って感嘆する瑶樹は、店へ引っ込もうとしていた若い男へ、にこやかに話し掛ける。
「失礼、少し尋ねたいのだけど」
 はぁ、と振り向いた男へ、件の人物の氏名を伝えて取り次ぎを頼むと、明らかに訝しく眉をひそめた。
「有賀は俺だけど、あんたらは?」
 丁度良かった、と瑶樹が何やら囁いた途端、彼は顔色を変え慌てて辺りを見回す。
「あんた、何だってそんな……」
「君も仲間だと、ある筋で聞いてね。話しを聞かせてもらえるかい?」
 あんたも離魂病なのか、と口走った有賀は、店先へ様子を窺いに出てきた顔に気付き、慌てて口を噤んだ。胡散腐そうな眼差しを向けてくる壮年の女へ、刑部が丁寧に頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありません。偶然級友に会ったものですから、驚いてしまって」
 そっと手の中へ押し込んだ懐紙をちらりと見遣って、彼女はにんまりと笑みを浮かべた。
「おや、そうなのかい。あたしも鬼じゃないからね、旧交を温めておいでよ」
 一刻程度なら問題ないからさ、と引っ込んでいくのを見送って、瑶樹は軽く肩を竦めてみせる。そうして有賀を無言で促すと、彼は頷いて大門を指した。外に出て暫く歩くと、色町の灯りも薄ぼんやりと間遠になり、粛々と星明かりだけが投げ落とされる。間もなく灯籠に照らされた小さな弁天堂が見えてきて、彼はそこで立ち止まった。
「あんたら、何者なんだ」
「君の母校から依頼を受けて、取材していた春暁社(しゅんぎょうしゃ)の記者です。近頃出た怪奇談の否定記事を書く予定なんだが、実はその取材中に、不可解な現象に遭遇してね」
 検証したくて目撃談を集めているんだ、と瑶樹は名刺を一枚取り出して有賀へ差し出す。
「他にも誰か心当たりがあれば、教えてもらえると有難いのだけど」
「先程、離魂病と言っていましたが。影の患いとは、少々様子が違うのでは?」
 影の患いといえば、到底存在し得ない場所と時刻に、もう一人の自分が出現するという、二重の歩く者とも称される怪現象だ。あちらは、当人たちが出会ってしまうと不幸が起こるとされている。
 違いないだろう、と吐き捨てた有賀は、暗い眼差しで瑶樹を見据えた。
「あんた、本当に見たのか」
「残念ながら。何者かが仕組んだとも思えない。見たのは先日の嵐の晩。取材の途中だね。君の場合はどうだった?」
 雨の日だった、と低い声が零れて、有賀はお堂の階段にどかりと座り込む。苦々しげにため息を落として、彼は体験談を語り始めた。
 それは長雨が続いて、日中の薄暗さも鬱陶しい頃だったという。
 入学してしまえば、寄宿学校も悪くないもので、跡取りも多くいたこともあってか、誰もが伸び伸びとしているように見えた。
 規則もさほど厳しくはなく、羽目を外し過ぎなければ快適な日々。そんな代わり映えしない日常の、騒がしい放課後のこと。こう雨が続くのでは身体が鈍ってしまう、と零したのは友人だったか。数人で廊下をぞろぞろ歩いて、寄宿舎へ帰ろうとしているところだったと思う。
 雨のヴェールを挟んだ向こう、ぼんやりと見えた人影が、奇妙に気になったのだ。
 渡り廊下の直中に立ち、真直ぐにこちらを見ているふうの青年。けれど、それは馴染みのある誰とも異なった雰囲気をしていて、何故一心にこちらを見ているのかわからない。
 あれは誰だろう、と仲間へ声をかける間にその姿は消え去って、まず目を疑った。ほんのちょっと目を離した隙に、校舎へでも駆け込んだのだろうか。訝しく振り向く仲間へ「見間違いだった」と謝って、もう一度窓の外へ視線を投げた。
 一体あれは何だったのか、と内心首を傾げたとき、背後から無遠慮に腕を掴まれたのだ。
「凄い力で引き摺られて、転びそうになってな。何をしやがるこの野郎、て振り向いたら俺がいるんだぜ? たっぷり十分は時間が止まった気がしたね」
「君は掴まれたのか! ふむ、気を引いて背後に出現というパターンなのかな。それ以来、複数回見かけたなんてことは?」
「ねェよ、そんな恐ろしいことがあって堪るかい。ただ、そっから実家が坂道転がるように没落していってな。お蔭様でこのざまさ」
 いつの自分だった、と問われて、彼は訝しく首を捻る。
「さァて、なぁ? 全く同じように見えたぜ? あんたは違うのかい」
「私は、数年前だったようだ。序でに、他に話しが聞けた者は、いつだって影のように追ってくると言っていた。ただ彼は、何を見たのか教えてくれなかったがね」
 本当に見ていないね、と念を押すと、有賀は僅かに思案して頷いた。ただ、薄ら寒そうに首筋を撫で、眉をひそめる。
「気味が悪ィな。つか、他にも見た奴がいるとは、今日まで思ってなかった。もしかして、結構いたのか?」
「うん? 私が聞いた話しでは、『見た』と言う者は毎年必ず数人いるとのことだったよ。何を見たかは語らないけれど、それを合図に肝試しを始めると言っていた」
 君の頃はそうではなかったのかい? と首を傾げる瑶樹へ、有賀は思案げなさまで眉根を寄せる。
「……いや、肝試しは確かにあったけどよ。始める切っ掛けはそれだったのか? じゃぁ、春先に誰か見たってことだよな……」
「今年は、肝試しの最中に目撃した者も出たそうだ。彼らからも、話しを聞けたらと思っているのだけどね」
 懐中時計を取り出した瑶樹は、それを一瞥してしまうと頭を下げた。
「時間を取らせてすまなかった。大変参考になったよ」
「なぁ、あんた。詳しいことがわかったら、俺にも教えちゃくれないかい? 記事にするってンなら、どの号に載るかだけでもいい」
 ずっとずっと腹の中に抱えてきた怪談には、一体どんな意味があったのか。
 もし知ることが出来たらなら、もう少しだけ生きやすくなる気がするのだと、彼は真摯に訴える。
「まだ繋がってる連れにも、心当たりねェか聞いてやるからさ」
「それは有難い。では、わかったことがあれば君にも報告しよう。但し、必ずしも科学的な説明はつかないかもしれないよ?」
「いいさ。俺の不遇がアレの所為かだけでもわかればいい。……そうだ、あんたも気をつけろよ」
 何かしら妙なことが起こるかもしれない、と心配そうな目を向けられて、瑶樹はにこりと奇麗に笑う。
「有難う。しかし、あれは過ぎ去ったモノだ。蓄積された経験、私を形作るもの。ただそれだけのモノであって、それ以下でも、それ以上でもない。それに、私を模したモノ如きに、我が家の家長をどうこう出来るとは思えなくてね」
 苦笑混じりの言葉に、思わず刑部が吹き出した。確かに、傑物と噂の百合草氏が敗北を喫するさまは想像だにできない。
「しかし、そうなると私個人に来るのだろうか。うむ、身辺には気をつけねばなるまいね」
 後ろ髪引かれるように門の内へ戻ってゆく有賀を見送って、彼らは帰途についた。道中、瑶樹は悩ましげに眉根を寄せる。
「刑部くん、君は有賀氏の証言をどう思う?」
「目撃しても、必ずしも退学するわけではないでしょう。ところで、学年を上がってから、目撃した者はいるんでしょうか」
 肝試しの合図は、いつだって目撃者の出現だ。そして伝統行事に興じるのは、表立っては一年のみ。その所為かもしれないけれど、上級生になってからの目撃談を、これまでに聞いた憶えがない。
 はたと瑶樹が立ち止まった。そうして、目を丸くして刑部を見上げる。
「そうだった、それは確認すべきだね」
「ずっとついてくると証言した人がいますけど、そちらは妄想でないとも言い切れません」
 明日、差し換え記事を完成させてから確認に行きましょうね、と先制した刑部に、彼女は渋面を浮かべて「わかったよ」と応えたのだ。
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