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 結局、何だったんでしょうね、と。資料室で雑務を手伝いながら零した刑部(おさかべ)に、仙石(せんごく)編集長は軽く眉を持ち上げた。
 彼が担当する雑誌は、先日恙無く発売されて、相当数が世間に出回っている。当然注目された巻頭記事は、速やかに世間の認識を書き換えていったようだ。売れ行きも常より良かったようで、今季号は目出度く早々の完売が見込めそうだと、仙石よりお誉めの言葉を頂いている。
 あの後、先輩記者が調べてくれた情報によれば、件の服役囚は取り調べの当初に「自分を見た」と語っていたことが知れた。彼が学園を去ったのは、一年目の長期休暇明けのこと。その少し前に級友が事故死を遂げており、「穿った見方をすれば」と先輩記者は前置きをして、何かしら関与している可能性も指摘した。逃げるようにして自主退学をしているところを見ても、当人が逃げ出したくなる何かをそれに見たのだろう。
 それ以来、彼はノイローゼ気味になり、とある時から別の何かを幻視し始めたようだ。それが、彼が何かに憑かれた瞬間だったのだろう。
 護身用と称して刃物を持ち始め、時折、何かに向けて振り回す。風聞や当人を恐れた家人が部屋へ閉じ込めようとしても、それはなかなか叶わなかったらしい。そんな末に起きた事件だったようだ。
 そのネタと刷り上がったばかりの雑誌を抱え、彼らが改めて有賀を訪ねたのは、雑誌発売の前日のこと。
 影の患いについての考察と、その後の経過観察を坂田へ託した旨を伝えると、彼は放心した様子で「そうか」と呟いたのだった。やはり彼も、離魂病だなんて信じていなかったのだろう。だから、去り際に「もう大丈夫だ」と笑ったのだ。これで一件落着だ、と瑶樹(たまき)も晴れ晴れとした様子で口にしたけれど。
 しかし、刑部が一番わかっているのだ。あれは、尤もらしく煙に巻いて新たな認識を植え付けただけで、何の解決にもなっていないのだと。
「喩え誤魔化しでしかないとしても、それらしい理由は必要だと思ったんです。実際は何もわかっちゃいないし、未知のモノに対して、わかった気になるのは逆に危険です。けれど、あれの所為で前に進めないのは、もっと良くない」
「俺としては、おまえさんの示してみせた落とし所で、良かったんじゃねぇかと思うがな」
 あいつはただの影だからよ、と仙石は僅かに目を細める。
「何の意志もねェ、単なる反射。あいつらはそういうモノだ。そいつに意味を与えてやったんだ、無駄じゃァないさ」
 そうでしょうか、と応じかけて、刑部は軽く眉をひそめた。
 今の、仙石の言い様は妙じゃないか?
 取材の経緯は報告しているし、影の患いについても、記事には出来ない前提で、軽く説明してある。たったそれだけ、決して多くはない情報量のモノを、恰も熟知している風情なのが気になった。振り返ると、仙石はこちらへ背を向けており、飄々と言葉を紡いでゆく。
「あの辺りはな、土地が良くねェのよ。そんな所に悩み多き年頃の若人が押し込められて、何にも起こらねェ方がおかしいさ。健全じゃねェ」
「……編集長、何の話ですか」
 飄々とした口調は全く変わらないのに、何故か怖気をそそられて、思わず話しを遮った。うん? と訝しく振り向いた仙石は、刑部を一瞥してにんまりと笑う。
「何だよ、おまえ。視えてるくせに、まだわからないのかい?」
「何のことですか。仰る意味が」
 でっち上げじゃねェよ、と言葉を次いで、彼は視線を外した。そうして今季号の雑誌を手に取り、頁を捲りはじめる。
「おまえさんの目には、そう視えたんだ。まァ、なかなか良い目なんじゃねェの? 勘は良さそうだなと思っちゃいたが……。ところで、うちの雑誌は見たことあるな?」
「当たり前じゃないですか」
「当たり前。ふむ、こいつは、視えているか?」
 差し出されたのは広告欄を集めた頁で、意匠を凝らした挿絵や飾り罫に彩られた様々な商品が踊っていた。一見、何の変哲もない代物である。そもそも、これらは広告主が版下を寄越すのだから、何か仕掛けがあるとも思えないが。
 これが何か、と訝しく仙石を見遣ると、彼は困り顔で髪を掻き回した。
「参ったな、無自覚か。ちょっと待ちな」
 確かこの辺に、と抽斗を引っ掻き回し、見つけた何かを刑部へ向けて放り投げる。慌てて受け止めたそれは古びた片眼鏡(モノクル)で、ますます訝しく仙石を見つめた。
「……目は、良い方なんですが」
「いいから、それ充てて視てみな。度は入っちゃいねェよ」
 はぁ、と腑に落ちないながらも、片眼鏡を充てて誌面へ目を落とす。途端に、刑部は訝しく眉根を寄せた。
「視えたかい? 本当のところ、この雑誌はそいつが一番重要だ」
 難儀な奴だなぁ、と仙石が苦笑する。けれど刑部にとっては、それどころではなかった。レンズ越しに視たそこには、文字が二重写しに見えたのである。
 何度か片眼鏡を外して見比べ、どうやらレンズ越しでは文面が変わるのだと確信した刑部は、試しに目から離して虫眼鏡のように翳してみた。けれどそうしたところで、文面は変化しない。
 レンズが問題じゃないのか。
 すっかり眉間にしわを寄せ、唸るさまを愉快そうに眺めていた仙石は、そうじゃねェよ、と口を挟んだ。
「そいつは補助だ。どうにも、おまえさんの目は視ないように働くようだからなぁ」
 片眼鏡側に集中してみな、と促されてレンズを通している方へ意識を傾けると、すぅっと広告欄が薄れて消える。そこに書かれたのは、なんとも奇妙な記事だった。
「晩秋の不審火は鬼火の仕業、来年度より干拓事業本格化の見通し、稲荷の取り壊しにつき御注意されたし……何ですか、これ」
「情報だな。知っていなけりゃならない事柄。今時は随分大人しくなってる方だからな、季刊で事足りるんだ。火急の報せは号外も打つけどよ」
 あっさりと告げて、仙石は机へもたれ掛かる。片眼鏡越しに見遣った途端、急激に辺りの空気が冷えて、刑部はぞっと背筋を凍らせた。思わず取り落としかけたそれを慌てて掴み、改めて眺めた仙石は変わらぬ風情で、先程のは見間違いかと訝しむ。
「江戸の頃より、徐々に物の怪には住みづらい世の中になってきていてな。ヒトに紛れている奴らにとって情報は、どうしたって死活問題になる。本物は、おまえさんのように見て見ぬ振りは出来んのさ」
「や、いやいや、待ってくださいよ! そんな、まさか」
 それではまるで、物の怪の為に事業を起こしたように聞こえるではないか。非現実的な、と顔に出ていたのだろう。仙石は愉快そうに唇の端を吊り上げた。
「元々春暁屋(しゅんぎょうや)はな、そういう事情で起こしたんだ」
 始まりは互助組織として立ち上げられ、定期的に読売を作っていたという。しかし、愉快なことが大好きな質が集った組織のこと、それだけでは面白くなかろうと、ヒトを真似て黄表紙を書いた者がいた。
 それがなかなか面白いと仲間内で評判になり、興に乗った彼らは、ヒトビトにも通用するのかと版元を作り、大々的に売り出してみたのだ。そいつは結果的に大当たりをし、彼らは手広く商売を拡げ出した。
 ヒトに紛れて暮らしている以上、金子(きんす)はあるに越したことはない。稼げるのなら、何だって有難かった。そうして彼らの道楽は立派に商売へと転換し、新時代に於いて出版社へと昇格するに至る。
「しかし、これは印刷屋で……」
「だから、紛れてるんだって。そっちのインキはな、妖性が強い奴じゃねぇと読めないんだよ。技術革新様々といったところだなァ。生粋の物の怪は勿論、混血もたまに視る奴もいるか。おまえ、熊野の出身だったな?」
 俺は天満(てんまん)だ、と仙石はにんまり笑う。
「認めるこったな。世の中に不思議が溢れているのは先刻承知だろうよ」
「それはそうですけど、だからといって納得できるわけでは」
「うちで働いてる奴の大半は、生粋か混血だぜ? 新時代を迎えて、ヒトも増えたけどな」
 その記事書いてンのは昔ッから同じ客員だ、と春暁社の出版物を収めた棚を指す。
「うちの、お抱え作家様でもあるな。おまえさん、臨時で担当したことあっただろう」
「……あの人も、ですか」
 思い浮かぶのは、歌舞いた風情の、まだ若い作家だ。人懐っこい性質の人物で、見た目の軽薄さとは裏腹に博識で、ついている間は随分勉強をさせてもらった。刑部の何を気に入ったのか、臨時任務が終わるまで、あちこちへ遊びに連れ回されたものである。
 あれが物の怪で、昔から変わらず記事を書いているのだとしたら、あの見た目はまやかしと言うことなのだろう。そもそも仙石も、一体いつから存在しているのか。顔馴染みの記者でさえ、彼らが自称する経歴は当てにならないということだろう。
 いや、それよりも問題は、刑部も同類と思われている節があることだ。まさか、当人が知らないだけで、彼らには周知の事だったとでもいうのか。もしそうだとして、一体何処でそれが混じったのだ。
 両親は、刑部が幼い頃に亡くなった。祖父も既に鬼籍にあり、残る肉親は祖母ばかり。彼女がそうだとは思えなかった。ならば何代遡れば、それを確認できるのだろう? 
 まさか物の怪たちは、混じり物も含めた同胞を、全て把握しているのだろうか。そうとでも考えなければ、辻褄が合わないではないか。
「俺が雇ってもらえたのは、まさか」
 混血だからだな、とあっさり頷いて、仙石はもう一つ付け加える。
「あとは……、まぁ。おまえの祖父さんとは、付き合いも長いことだしよ。あの祖父馬鹿(じじばか)、よっぽどおまえさんが可愛いらしいな」
 うん? と引っ掛かりを覚えて仙石を見遣ると、彼は「なんだ?」と言いたげな視線を寄越した。
「祖父は、父が幼い時分に亡くなったと、祖母から聞かされていたんですが」
「そうかい? 先日会ったばっかりだけどな?」
 田舎ではなかなか一所に棲めねェのよ、と軽く肩を竦めてみせる。
「恋女房と離ればなれだ、てなァ。鬱陶しいったらありゃしねェ。ちょくちょく会いに帰ってるくせによ。そうそう、おまえさんに紹介した牡丹楼(ぼたんろう)な」
 あすこにヒトは一人もいねェよ、とあっけらかんと告げられて、刑部は気の抜けた風情で相槌を打った。既に諦めの境地であることは言うまでもなく、今更何を聞かされても、一向に感銘を受けそうにない。
 そもそも牡丹に関してだけは、妙に納得してしまうのだ。あれほど艶やかで、華奢で、小柄な婦人が、自分の背丈ほどの鎚を苦もなく振るうのである。あらゆることに通じていることといい、然もありなん、といった心境だ。
 それにしても、一体どれだけの物の怪が、ヒトに紛れて暮らしているのだろう。オカルト雑誌の売り上げ部数がそのまま彼らの総数を表わしているとは思わないが、相当な数に達するのではないだろうか。
 これまで刑部は、ヒトビトが語るオカルトは、ただの教訓話だと思っていた。日常に潜む危険を愉快に擬人化してみせて、注意を喚起しているだけなのだと。少なくとも、そうして体系付けられた先人の知恵や言葉を蔑ろにしないようにと、刑部は幼い頃より古老から言い聞かせられていたのである。当然、物の怪を目にしたこともなく、……実際は、普通に毎朝対面していたわけだが、そうとは気付いていなかった。
 それにしても、祖父が物の怪だったのなら、何故誰も教えてくれなかったのか。麓の村人は無理としても、祖母は承知していたのだろうに。……もしや、祖母も知らなかったのだろうか。どちらにせよ、確認してみないことにはわからないが。
「……オカルトって、本当にあるんですね」
 ぽつりと言った一言に、仙石は澄ました様子で「俺らにとっちゃ日常だがな」と嘯く。
「今の御時世、重い鉄の塊が空飛ぶ時代だ。俺ら如きを脅威と喚くのは滑稽だよなァ?」
「いえ、脅威には違いないです」
 真顔で切り捨てて、刑部は一つため息を落とした。そうして、意図は何ですか、と平坦な声で問う。果たして仙石は、「特にねェよ」とかぶりを振った。
「視えてるなら、教えておこうと思っただけだ。こっちが考えていたほど、視ようともしてなかったことに驚いたが」
 そういう守りなのかね、と首を捻って、刑部が手にした片眼鏡を指す。
「そいつは、おまえさんにやるよ。あぁ、気にするな。元々、おまえの祖父さんが使ってた代物だ。使うなら、牡丹にでも調整してもらうんだな」
 但し、と言葉を切って、仙石は意味ありげに目を細めた。
「視るということは、相手にも視られることだ。そこだけは肝に命じておけよ」
「これを通して視たことに、相手も気付くということですか?」
 訝しく問えば、果たして軽く肩を竦めてみせる。
「視るのだと意識を傾けることで、形を潜めている妖性が働くから視えるのさ。やっぱり、おまえさんが一番祖父さんの性質を受け継いでるな。そりゃぁ気にかけるだろうよ」
 襲いくる目眩を堪えながら何とか作業を終え、這々の体で地階の編集部へ戻った刑部は、棚に収められた既刊を全て取り出した。
 色々疑うではないが、やはり腑に落ちないことは確かなのだ。
 とはいえ、あすこに置かれていた雑誌だけに、何かしらの仕掛けを施したと考えるのも現実的ではない。わざわざ手間を掛けたところで、刑部を担ぐ以外に意味なぞ見出せないし、全く無駄ではないか。ならば、事実として受け止めるべきだ。きっとそれが正しい。
 そんなことは重々承知しているが、だからといって、そのまま言われたことを素直に受け取るだけ、刑部は馬鹿正直な人間ではない。
 瑶樹はまだ戻っていないようで、これ幸いと片眼鏡を填め見慣れた誌面を改めて眺めてみれば、どれもこれも広告頁に隠された記事が載っている。中には巷を大層賑わせ、結局迷宮入りしてしまった事件の真相らしきものも紛れ込んでおり、頭痛を禁じ得ない有り様だ。
 どうやら、世の中には認識していた以上に、不可解な出来事が溢れているらしい。ただ、そうだとヒトが気付いていないだけで。
 実は、この新時代を何よりも謳歌しているのは、物の怪なのではないだろうか。
 思わずそう考えて、刑部は頭を抱えたくなった。そもそも彼は現実主義者だったはずで、実は祖父が物の怪でしたと言われても、はいそうですかと肯定できるわけがない。否、認めたくないのだ。それなのに、彼の中の何処か冷めた部分が、あっさりとそれを認めてしまっていて、淡々と確認作業を行っている。己の中に存在しているその落差に、彼自身が未だ適応できていない。
 そういえば、祖父が物の怪だと聞いたけれど、一体何の怪異なのか。
 ふとそこに思い至って、刑部は頁を捲る手を止めた。意味ありげに出身地を質したのは、そこから推察できるということなのだろう。残念ながら、そこまで怪異に詳しくはない。これは後で調べた方が良さそうだ。序でに思い出したのは、祖父が足繁く祖母に会いに帰っているという、仙石の呆れ返ったふうの言葉。そう聞いて改めて思い出を繰ってみれば、彼女の周りにはいつだって烏がいたのである。
 烏は、実家では御遣いだった。
 これまであれを、別段おかしいと思っていなかったが、もしかしなくてもあれが祖父だったのだろうか。呑気に御神木の梢で毛繕いしていた立派な烏を思い出して、何となく切なくなってくる。
 既刊の確認作業を終え、試しに他の出版物も引っぱり出して、順番に捲り始めた。隅々まで目を通しても妙な文言には出会うことなく、どうやら本当に、この手の記事が仕込まれているのはオカルト雑誌のみらしい。それにしても突っ込みたいのは、物の怪にしか見えないというインキだ。取り敢えず意味がわからない。
 技術革新で済ませる問題か、これ。
 がっくり肩を落とし、肺の空気を全て吐き出す勢いで深々と嘆息したとき、外出から戻って来た瑶樹が、不思議そうに傍らに立った。
「どうしたんだい? 刑部くん」
「いえ、大したことじゃありません」
 ふと顔をあげて瑶樹を見上げると、彼女はきょとりと目を瞬かせる。
「あれ? 君、片眼鏡なんて使っていたかい?」
「あぁ、これは別に」
 かぶりを振りながら外しかけて、はたと瑶樹を見直した。
 硝子越しに見える彼女は、普段と少しも変わらない。そのことに酷く安堵する自分に気がついた彼は、眉根を寄せつつため息ついて、無造作に片眼鏡を外した。
 これまで少しも信じていなかったくせに、目に見える形になった途端、こうして振り回されている。その事実に、心底嫌気がさした。
 彼らの本質が何であろうと、今更それらを忌避して何になるのだ。そんなものは全くの無意味だし、その所為で無闇矢鱈と敵を増やしても面倒臭い。視えなければ、知らなければ、これまでと何ら変わらないのだ。だったら、わざわざ馬鹿正直に確認する必要もないではないか。
 あれらに気付かないからといって、生活に困るでなし。
 即座にそう切り捨てて、刑部は速やかに思考を立て直した。思い掛けず不意打ちを喰らった形で、どうやら取り乱していたらしい。
 喩え衝撃の事実とやらを知らされようとも、彼の認識下にある世界は変わるはずがないのだ。己という軸が揺るがない限り、何があろうと対処は出来る。
 少々くすんだ真鍮色の片眼鏡を掌に載せて眺めると、彼はそのまま瑶樹へ差し出した。
「祖父が使っていたものらしくて。ちょっと物珍しいなと」
「へぇ、なかなかセンスの良いお祖父様だったのだね」
「こんなの、よく使えますよね。使用中はずっと、顔を顰めてなきゃいけないだなんて」
 そうだね、と苦笑を浮かべて片眼鏡を手に取り、瑶樹は細い鎖と細かな彫金をしげしげと眺める。
 そのさまをぼんやり見ていると、如何にも彼女が好みそうな姿をしていることに気がついた。使うのならば牡丹へ、と言っていたことだし、おそらく作者は彼女なのだろう。
「惚れ惚れする仕事だな。これから使うのかい?」
「まさか。必要ありませんし、そもそも似合いませんよ」
「君は、呆れるほど己の美醜には頓着しないのだね」
 しかしまぁ、もう少し年を重ねた方がより似合いそうだ、と。愉しげに笑って刑部の手へ片眼鏡を返す。はぁ、と気のない彼の相槌に軽く眉を持ち上げて、彼女は刑部の顎を摘んで持ち上げると、蠱惑的な笑みを浮かべた。
「君は、もう少し着飾っても見栄えが良いと思うよ。背丈もあるし、手足も長い。盛装も似合いそうだ。シルクハットにフロックコート、アスコットはどうだろう? タイピンで留めるより、リングを填めてやってもいいかもしれないね」
「残念ながら、庶民には縁がありません」
 瑶樹の手をつれなく押しやり、鎖の先についた留金をウエストコートの襟に引っ掛けて、片眼鏡を胸のポケットに押し込む。
 つまらないな、と面白くなさそうな声をあげて、彼女は大仰に嘆息した。
「そう言わずにさ、一度侍ってみないかい? 君がとなりにいるのなら、壁の花にならずに済みそうだ」
「嫌ですよ。だったら、男装でお供すればいいんじゃないですか」
 投げ遺りに言い放った途端、はたと瑶樹が刑部を見た。僅かに目を丸くした彼女は、感嘆を声に滲ませる。
「君は天才か! それは思い付かなかった。なるほど、そうすれば鬱陶しい思いをしなくて済むな」
「いや、真に受けないでくださいよ」
 そんなことしたら大問題じゃないですか、と平坦な声が突っ込んで、刑部は手許の書籍を整え立ち上がった。

  ◇◆◇

 振られてしまったよ、と大して残念そうでもない様子で肩を竦めた瑶樹に、牡丹は声を立てて笑う。彼女の助手として随従する桔梗(ききょう)は、先程から跪いて瑶樹の手を取り、ほっそりとした手と爪を磨きあげていた。
 刑部のように、明確に彼女の感情の揺れを察することは出来ないが、どうやら忍んで笑っているらしく、肩が幽かに揺れている。
 週末の百合草(ゆりくさ)邸へ彼女らが呼び出されるのは、必ず深窓の御令嬢が社交界へ御招待を受けたときだ。颯爽と街を闊歩する男装の麗人を、虫も殺さぬ楚々とした可憐な乙女へと変貌させるため、骨を折ってもらうのである。
 先程から、さらさらと肩を、背を流れる黒髪は牡丹特製の(かもじ)で、どういった仕組みか解らないが、(かつら)よりも自然に結い上げることが出来るのだ。勿論少々のダンスで落とす心配もないし、どんな髪型でも自由自在である。
 これを見る度に、母は「もう髪を伸ばさないのか」と繰り返し尋ねるが、生憎こんな便利なものを知ってしまった今では、伸ばさなくてはと焦る気持ちは疾うに霧散してしまった。一社会人として駆け回る日々の生活に於いて、利便性を選択するのは、間違いではないはずである。とはいえ、刑部に語ったように、着飾ることは決して嫌いではないのだ。昔から変わらず奇麗なものは好きだし、眺めているだけでも胸が踊る。けれど、それに附随する様々なものが、あまり好きではないのだ。
 例えば、品定めでもするような、下品で不躾な眼差し。
 例えば、瑶樹の人格を無視したかのような、価値観の押し付け。
 結局、瑶樹は御大層な肩書きと、呆れる程の財力と、強力な伝手を夫君へ与えるだけの、奇麗な御人形でなければならないのだ。その為に今日も化粧をし、高く胸を押し上げ、きりきりと窮屈なコルセットを填めて、幾重にも重ねたペティコートでスカートを膨らませる。
 これらは、良家の娘の戦闘服だ。つんと立った乳房と、華奢に細い腰は、良縁を得る為の撒き餌なのである。
 誰も彼もが競って腰を細く細く絞ってみせるが、瑶樹に関しては必要最低限しか締めていない。あんなに締めては呼吸をするのも一苦労だし、何も食べられないではないか。不健康極まりない代物に、唯一の楽しみを奪われるのは癪である。
 ペティコートを使うのも、クリノリンやバッスルが、あまり好きではないからだ。場所ばかり取るリングや、無駄に尻を強調する骨組みは邪魔だし、何より重たくてかなわない。不用意に座れば、べこりと潰れて大惨事だ。何を好き好んで、あんな物を使わなくてはならないのだろう?
 それでも少し前ならば、口煩い御夫人方から意見されていたけれど、そろそろオールドミスと呼ばれる歳に差し掛かり、有難いことに彼女らの眼中からは見事外れたようである。
「我が侭を通しているのだから、これくらいは貢献したいと思っているのだけどね。退屈で仕方がないんだ。だからせめて、となりに刑部くんがいてくれたら、退屈も紛れるのじゃないかと思っただけなんだが」
 無茶をお言いでないよ、と窘められて、瑶樹は軽く首を竦める。
 この春から得た相棒は、不思議と傍らにあるのが心地よい人物だ。これまで組んだ者たちのように、妙に遠慮がちで遜ったところはないし、彼自身はいつだって公正で思慮深い。初対面は牡丹の歯車灯籠亭(はぐるまとうろうてい)だったけれど、当時から少しも印象の変わらない、希有な例とも言えた。
 思えば、彼が「瑶樹さん」と呼ぶのも、最初からなのである。
 名乗った憶えもなかったが、どうやら桔梗が呼ぶのに倣ったようだ。彼女は客人を姓で呼ぶことの方が多かったから、勘違いしたのだろう。実際、全く同じ字を書く姓も存在しているらしい。
 百合草家の末子だと知れたときも、一言「失礼しました」と頭を下げただけだった。牡丹が言うには、他者への興味が薄く、相手が誰であろうと、あまり頓着しないという。詫びを口にしたのも、知らなかったとはいえ名を呼んだのは失礼だっただろうか、と考えでもしたのだろう。
 けれど呼び名が変わらないのは、それまで瑶樹も訂正することはなかったから、そのままで構わないのだろうと判断したと思われた。
 若しくは、殊更に呼び名を改めたら、瑶樹が気分を害するからか。
 ふと思い付いたそちらの方が、正解のような気がした。きっと、拗ねられたら堪らないとでも思っているのだろう。媚びるというよりも、面倒臭いという意味で。
 その方が、実に彼らしく思える。瑶樹としても、その程度の交流はしてきたつもりだし、これからも末永く付き合っていきたい友人の一人だ。
「いつか引っ張り出してやろうと、割と本気で考えているんだ。あれだけ背丈もあって洋装も似合うのだし、そこいらの似非紳士などより、よっぽど見栄えがするはずだから。きっとご婦人方も、目の色を変えると思うよ」
 愉しげに語り、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「おまけに、あの近藤がすっかり任せてしまっているものだから、父も気にしているようでね。面白いことになりそうだろう?」
「勘弁しておやりよ。あの子、あれで苦労してるんだからさ」
「ふぅん? 牡丹女史は、刑部くんを昔から知っていたのかい?」
 まァね、と笑って、牡丹は懐かしそうに目を細めた。
「あの子は憶えてないようだけど、ちびの頃に一度だけ会ったことがあるんだよ」
 祖父馬鹿に言わせれば、通った鼻筋と瓜実の頬、澄んだ瞳の色は祖母譲りらしいが、全体の雰囲気は祖父そのもの。見た目もそうだが、何より性質が瓜二つだった。
「目端も利くし、よく視てるのに、色んなことに懲りて、知らん振りする癖がついちまったんだね。あのまま育っていれば、祖父さんそっくりの男前になってたんだろうに」
 惜しいねェ、と嘆息する。小首を傾げた瑶樹は、軽く眉根を寄せて牡丹を見上げた。
「ええと、思い違いだったらすまない。ひょっとして、刑部翁に思慕を寄せていたのだろうか」
「残念ながら、愛妻には敵わなかったよ」
 肩を竦めてあっさりと認めると、牡丹は瑶樹の頭を掴んで正面へ向かせる。
「ほら、結うから前向いて。全く、酷い話しじゃないか。こちらの気も知らないで、散々惚気るだなんてさ。老いても連れ合いが一番で、しわだらけの手はより愛らしく、白髪はまるで星の光のよう。目尻のしわすらも美しく愛おしいとさ」
「ふふふ、刑部くんのあれは、お祖父様譲りなのか」
「祖父さんの方が、より強烈だよ」
 牡丹の語る刑部翁像は、孫に通じる偉丈夫を思わせた。あの片眼鏡を思い返してみても、なかなかの伊達男だったのではないかと推察される。
 そんな人物が惚れ込むのだから、奥方も素晴らしいヒトなのだろう。刑部がきちんと躾けられている様子をみても、凛とした女性が想像できる。彼の容姿にも幾らか受け継がれているのなら、愛らしいというよりも、凛々しく美しいのだろうと思われた。
 そんなことを口にすれば、きっと刑部は嫌そうに顔を顰めるのだろうけど。
「そういえば、彼は何故ああまで自分のことを過小評価するのだろうな?」
 確かに、輝くような美丈夫というわけではないが、彼自身が常日頃から口にするような、一介の凡夫というのも違う気がする。大男と言われて思い浮かべるような無骨さもないし、あれで彼は結構な人誑しなのだ。その気になれば男女問わず、労せず口説き落とせることだろう。普段にしても、肩を並べて歩くうち、振り返るのは全て瑶樹目当てのようなことを言われたこともあるが、見当違いも甚だしいところである。
 時折、明らかに色めき立つご婦人がいるのは、となりに瑶樹が立っているからだと想像がつくけれど。そちらの方は、おそらく彼には理解の出来ない嗜好だろう。
「刑部くんと話していると、段々自分の美的感覚に疑問が出てくるよ」
「あの子、とことんそういうのに興味がないからねぇ。何かを選ばせれば気の利いたものを示すから、判断がつかないわけじゃないと思うんだけど」
「わたくしの目も、奇麗な色だと誉めてくださいましたよ」
 ふと顔をあげた桔梗が口を挟んで、瑶樹はますます首を傾げる。
「確かに、桔梗嬢の目は美しいな。まるで貴婦人の胸元を飾る、曙色した宝石のようだね。……それがわかるのに、どうしてああなんだ」
「それこそ、面倒臭いって奴じゃァないのかね。噂ばかりして、今頃くしゃみでもしてそうじゃないか」
 くつくつ可笑しげに笑いながら、手早く髪を整えていく。
 今日は襟元の開いたドレスだから、髪を長く垂らすらしい。緩やかに毛先を巻き、横の髪を掬って編み込んで、小花をちりばめた。その仕事を惚れ惚れと眺めて、瑶樹は感嘆のため息をつく。
「牡丹女史は、本当に素晴らしいな。どうして、こんなに可憐な仕事が出来るのだろう?」
「お誉めに与り、光栄」
「私でも、ちゃんと女らしく見えるものな」
「瑶樹様は、お美しいですよ?」
 こくりと小首を傾げた桔梗は、用を終えた手入れ道具を抱え、優雅に裾を払って立ち上がると、ドレスの支度に取りかかった。アクセサリーの確認をし、壁に掛けていた鶸色のドレスを腕に引っ掛ける。
 その間、ほわりと赤くなった瑶樹は目を泳がせて、しどろもどろに言葉を紡いだ。
「……そんなことは。ほら、刑部くんにも女扱いされてないくらいで! あれは、暫く気付いていなかったのじゃないかな」
「何言ってンだい。あの子、最初からあんたが女だって承知してたよ」
 は、と目を丸くして振り仰いだ瑶樹を、再び問答無用に正面向かせ、牡丹はさらりと垂らし髪を梳る。
「あんたが帰った後、美人は何を着ても似合うって本当なんですね、てさ。目敏い性分なのは承知してるだろうに」
「大仰にレディファーストを実践するわけではないのですけど、よく気がつかれる方ですから、要所要所で手を貸してくださいます。そういったことは、ございませんか?」
「そういう所が、まんま祖父さんそっくりなんだよねぇ」
 ほら立って、と促され、瑶樹は慌てて立ち上がる。されるがままに着せられる間、彼女は必死にいろいろ思い返した。
 そういえば、いつもさり気なく手が差し出される。それがあまりに自然なため、あれは彼の人柄故と思っていたのだけど。
 いや、多分そうなのだ。気がつけば雑用に駆り出されているし、何事も率先して動いているし、先輩記者たちにも可愛がられている。校正室のご婦人方の評判もいい。
「うむむ。やはりあれは、老若男女問わず発揮される類いのものではないかな。殊更、私の性別は関係なく」
「あんたは、そう思いたいんだろうねぇ」
 そんな言い方をし、背中の留金を手早く留めてスカートを整える。瑶樹へ恭しく手袋を差し出した桔梗は、踵を返してアクセサリーを並べたトレイを取り上げた。薄い絹の手袋を填めながら、瑶樹は「そんなことは」と軽く眉根を寄せる。
「まァ、変な色眼鏡であんたを見てないのは確かだけどね」
「そもそも、そんなじゃないのさ。妙な色眼鏡で見ているのは、そちらじゃないか」
 瑶樹が髪を纏めあげている間にネックレスを留めた牡丹は、さらりと背に垂れた髪を指先で梳いて整えた。
 トレイには手許の装飾品も用意されていたが、短かめの手袋の縁にはレースが施されているし、これだけで十分だろう。イヤリングだけ手に取って、慣れた手付きで装着する。
 軽く肩を竦めた牡丹は、問うように視線を向けた桔梗へ頷いて、トレイを下げさせた。
「主様、靴はどちらに致しましょう?」
 用意されていた可憐なハイヒールと華奢な釦留めのブーツを示されて、牡丹はにやりと笑みを浮かべる。
「あたしは、ハイヒール履かせたいけどね?」
「ブーツで! どうせ足許なんて殆ど見えないんだから、それでも構わないだろう?」
 断固主張すれば可笑しげに笑われて、瑶樹は不機嫌そうに口角を下げた。そのまま椅子に腰かけ、室内履きを脱ぎ捨てると、桔梗が足許へ添えたブーツへ爪先を突っ込む。
 そのとき、部屋の扉が音高く叩かれて、瑶樹はふと振り向いた。準備はお済みですか、と外から問われて、今行くよ、と応じる。
「それじゃぁ、行ってくるよ。有難う」
 ひらり手を振って立ち上がった彼女は、そのまま颯爽と歩き出す。勇ましい後ろ姿を見送った牡丹は、皮肉げに唇の端を吊り上げた。
「さて、本当にあんたが怖がってるのは、一体なんだろうねェ?」
 勿論、その問いは彼女へは届かなかったけれど。

〈了〉
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