文字数 12,687文字

 翌朝、朝早くから部屋の扉が叩かれて、刑部(おさかべ)は訝しく踵を返した。時計を見遣ればまだ七時前で、常ならばそろそろ起き出す時間である。すぐさま応じて扉を開くと、桔梗(ききょう)は驚いた様子で、すっかり身支度も整っている刑部を見上げた。
「早朝にお騒がせして、申し訳ありません。もう起きていらしたんですね」
「目が冴えてしまって。何かあったんですか?」
瑶樹(たまき)様が訪ねてお出でです」
「え、こんな時間に?」
 何事だろうか、と軽く眉根を寄せると、桔梗は「急ぐとは仰りませんでしたよ」と言葉を添える。
「それよりも、お食事はお済みですか?」
「いえ、それはまだ」
「それでは、わたくしの方でご用意いたしましょうか。瑶樹様へもこれから飲み物をお持ちしますし、同席のうえ召し上がられても構わないかと存じます」
 簡単な物になりますが、と付け加えて小首を傾げた。
 急がないと言われようが、まさか待たせたまま、のんびり食事を摂るわけにもいくまい。申し出に有難く甘えることにして、刑部は桔梗の先導で図書室へ足を踏み入れた。
 果たして瑶樹は、一階の応接セットに腰を下ろして、書架から抜き出した書籍を捲っている所だった。
「おや、早かったね、刑部くん」
 一礼して立ち去る桔梗へ礼を述べて、瑶樹は書籍を閉じるとテーブルへ置く。
 今日も彼女は短髪に三揃のツイードを着込んでおり、傍らには外套とキャスケットが置かれていた。昨夜の姿を思うと、なんだか不思議な光景である。
「朝早くにどうしたんですか。どうせ社屋で顔を合わせるのに」
「あぁ、うん。昨日の闖入者殿の話がね、何とも奇妙に終結してしまったものだから」
 流石に仕事をそっちのけで長々と話せないじゃないか、と軽く口を尖らせる。どうやら、早く話したくてうずうずしているらしい。だからといって、早朝に下宿へ突撃してもいい理由にはならないと思うが。
「怪我の具合は? 腫れませんでしたか」
 座りながら尋ねると、大丈夫だよ、と己の袖を引いてみせた。
 包帯が巻かれた細い手首には目立った腫れもなさそうで、それは良かった、と素直に口にする。そうして、落ち着かぬ様子に苦笑を浮かべて「どうぞ」と促してやれば、彼女は目を輝かせて身を乗り出した。
 刑部たちを牡丹楼(ぼたんろう)へ送り届けた後、近藤が運転する蒸気車で帰宅した瑶樹は、いつぞやのように騒然とする屋敷に目を瞬かせたらしい。慌てて屋内へ駆け込んでみれば、彼女が帰宅するほんの少し前に、闖入者が気絶から醒めたらしかった。
 彼女らも、帰宅したそのままで闖入者が拘束されている部屋へ駆け込んで、次兄が尋問をする場へ立ち会ったらしい。
 しかし彼は、見事に何も憶えていなかった。
「全く、ですか」
「そう、全く。それどころか、色々と覚束なかったんだ」
 今日がいつで、ここが何処で、何故こんな所で転がされているのか。さっぱりと理解が出来なかったらしい。只管(ひたすら)困惑して何故を繰り返す彼に、いつもぴしりと背筋を伸ばしている近藤が、真秀(まほ)から伝え聞いたことを、漏らさず全て語って聞かせたそうだ。果たして、闖入者は真っ青になって言葉を失ったらしい。
 あまりの茫然自失ぶりに、思わず顔を見合わせた瑶樹と近藤は、甘利(あまり)家へ連絡を取り、長子の婿殿と対面させたのだそうだ。そうして膝を突き合わせて確認をした義兄は、彼が件の隣県視察の途中から、全く記憶していないことを突き止めた。
「丁度、人が変わったと言われ始めた頃と合致するらしい」
 失礼いたします、とワゴンを押して桔梗が姿を見せた。食事は摂ってきたと言う瑶樹の前へ、馥郁たる香りの珈琲だけが置かれる。刑部の前へは珈琲とサンドイッチの山を置いた桔梗は、一礼をして図書室を出た。
 瑶樹へ珈琲を勧めた刑部は、早速手を合わせて有難く朝食にありつきながら、話の先を促す。
「しかしそれでは、責任云々は問えないのでは?」
「当の義兄(あに)が『正気に戻ってくれて良かった』と執り成されたから、こちらも引き下がるしかないよ。義兄からは、丁寧な謝罪をいただいたことだし。釈然としないけどね」
 そこで君にも質問がある、とずいっと身を乗り出して、瑶樹は真剣な眼差しを真直ぐに向けた。
「あれは、物の怪か、準ずる何かの所為じゃないのかい?」
「それを、どうして俺に聞くんですか」
「だって、君はあの時、何かを気にしてた。ここの所、不思議に遭遇するときは、いつもそうだったじゃないか」
 白状したまえよ、と迫る瑶樹に渋い表情を浮かべ、刑部は「知りませんよ」とサンドイッチにかぶりつく。
 当人は簡単な物と言ったものの、出来る限り手をかけてくれたようで、今手にしている物にはスクランブル・エッグとカリカリに炒めたベーコンが挟まれている。ほんのりと甘いケチャップが味に変化を加えて、大層美味い代物だ。他にもふんだんに野菜やハムを挟んだ物など、飽きないように気を配ってくれているようである。
 普段は和食一遍通りながら、近頃は近藤から洋食も習っているようで、時折こうした物も作ってくれるのだ。お蔭様で、近頃は刑部の食生活も大層豊かである。
 閑話休題。
 咀嚼する間も外れない眼差しに、根負けした風情でため息をついた。
「あれについては、俺にはよくわからなかったんです。対面というほど、顔も合わせてないじゃないですか」
「あれについては?」
「他にも。基本的に、正体なんて知らないです。判断材料があれば見当がつく程度で。勘は良い方だと言われてましたが、まさかこういうことも有効だとは知りませんでしたよ」
 迷惑そうに眉根を寄せながら、ため息混じりに吐き出して、珈琲へと手を伸ばす。
 実際、件の人物に何が憑いていたのかなんて知らないのだ。牡丹や瑶樹から、関わる者たちの奇行について大まかに聞かされていたが、それだけで正体を言い当てろというのは無茶だろう。
「……ですが。その詣でたという場所、俺の実家の近くですね」
 そのことだけが、妙に気になったのだ。意外そうに瑶樹は目を瞬かせ、そうだったのか、と声をあげる。
「それは知らなかった。どんな所なんだい?」
「さぁ、行ったことはなくて。あんまり、地元民は近付かない場所だったと思いますよ。そこで、善くないモノでも拾ったんじゃないですか」
 そもそも、何故そんな場所へ行ったのだろう。偶然、辿り着くような場所ではない。近くを通りかかったというのも考えられないような、辺鄙な場所なのだ。
 例えば誰かが勧めたのだとして、地元の者ならばそちらではなく、刑部の実家を勧めそうなものである。あちらならば近隣にも知られた霊場の入口であるし、女人でも詣でることが許された場所として、足を運ぶ者は多い。
 幾つ目かのサンドイッチを頬張りながら眉根を寄せる刑部に相槌を打ちながら、瑶樹は漸く珈琲へ手を伸ばした。
「ふぅん、君の実家は、そういう所なのだね」
「あれ、話していませんでしたか?」
「田舎だとしか聞いてないよ。しかし、これで納得した。そういう家だから、きちんと躾けられたのだね」
 さてそういうことなのだろうか、と刑部は内心首を傾げた。幼い頃は祖母の傍にいることが多く、自然と倣うようになったのは確かだ。そうすると、叔母が意地悪く笑って己の子供たちと視線を合わせたものである。
 あんたたち、(ゆずる)にお兄さん風吹かせる資格もないね! 従兄(にい)さんたち凄いッて、あんなふうに慕われたくないの?
 後に叔母が語ったことによれば、従兄弟たちは刑部を大層可愛がっていたようで、そう言うと途端にお行儀が良くなったらしい。
 従兄さんたちはいつだって立派で凄かったよ、と訝しく首を捻った彼の頭をくしゃくしゃと撫でながら、叔母は嬉しそうに笑っていたけれど。
 それは兎も角。
「そもそも、どうして瑶樹さんの姪を追い回したんでしょうね?」
「さて、本当に光の君を気取ったわけでもあるまいが」
「案外、真秀に惚れてたとかじゃァないのかい?」
 ひょっこり会話に加わる声に振り仰ぐと、ポットを片手に牡丹が颯爽とやってきた所だった。どうやら、珈琲のお代りを淹れてくれたようだ。
「有難うございます」
「どういたしまして。それで足りるかい?」
 順調に消費されている皿を顎で示して尋ねられる。充分です、と頷くと、彼女はにこりと笑ってポットをテーブルに置く。
 一方、意外そうに目を丸くした瑶樹は、そのままの表情で口を開いた。
「姉上に? それで、その子供が欲しいって? いや、確かに佳矢子(かやこ)には、少しだけ姉の面影があるけれど。赤ん坊の面立ちなんて、日々変わっていくものじゃないか」
 さてね、と目許を緩めて踵を返した牡丹は、ふと思い出した風情で振り返る。
「ところで、原因がなくなったのなら、あたしはお役御免?」
「あぁ、いや。我が家ほどでなくても構わないから、やはり防犯設備は備えたいと、義兄から言付かってきたよ」
「それじゃぁ、もう一度出向いた方が良さそうだね。ちょいと電信でも打っておこうか」
「そういえば、桔梗嬢はもう大丈夫なのかい?」
 変わりないように見えたけど、と小首を傾げた瑶樹に、牡丹は苦笑した。
「見た目はね。ちょっとした家事仕事くらいなら問題ないけど、あの身体は仮で、強度と出力が通常の半分くらいしかないから。外に連れていくのは不安だね」
 それではごゆっくり、とひらり手を振って図書室を出てゆく。それを見送ってから、刑部は瑶樹へ向き直った。
「何にせよ、騒動が収まって良かったですね」
「んん、やっぱり釈然としないけどね」
 それから雑談へ突入して、そろそろ出勤時間という頃に、桔梗が再び姿を見せた。お時間ですよ、と声をかけられて席を立った刑部は、一旦自室へ戻って出勤準備を整える。
 その間に身支度を整えた瑶樹とエントランスで落ち合って、折り目正しく桔梗に見送られ牡丹楼を後にした。
 冷え冷えとした朝の街はまだ活気を帯びる前で、眠た気に微睡んでいる風情である。見上げる空は、雲が多いながらも青空が覗いており、これから少しでも気温が上がってくれれば有難いところだ。
「ところで、ここまでどうやって来たんですか。まだ鉄道馬車も動いてなかったでしょう」
智治(ちはる)が学校へ戻る序でにね、乗せてもらった。丁度この近所を通るから」
 昨日の朝から百合草(ゆりくさ)家は慌ただしかったようで、長兄・次兄共に走り回っていたようだ。甘利家から預かっていた子供たちも、今日中に家へ帰るらしい。そちらは次姉が送り届ける手筈のようで、瑶樹は早々に通常業務へ戻ることを許された。帰宅する頃には、すっかり落ち着きを取り戻していることだろう。
 少し寂しくなるな、と零した瑶樹は、気を取り直した様子で後ろを顧みた。
「それにしても。やはり牡丹楼の立地はいいな。部屋が空いていたなら、是非とも入居したいくらいだよ」
「それは残念でしたね。俺も含め、余所へ移りそうにもないヒトばかりですよ。そもそも、御実家から許可が出るとも思えませんけど」
 わかってるよ、と不貞腐れた様子で応じて、一つため息をつく。そうして、憂鬱そうにぼやき始めた。
「一人立ちしたいなぁ。そうしたら全ての時間を自由に使えるのに。私が男だったら、もっと簡単だったんだろうか」
「どうでしょう。その時は、女だったら、と言ってそうですけど」
 嫌なことを言うね、と軽く睨めつけて、キャスケットを引き下げながら、ぷいと視線を逸らす。
「否定できないのが口惜しいよ」
 不貞腐れたその声が可笑しくて、刑部は失笑した。
「まぁ、いいじゃないですか。女性だったから、こうなったんでしょう。下手したら、出会うこともありませんでしたよ」
「む、それもそうか。君と出会えなければ人生の大きな損失だものな。それは嫌だ」
 大袈裟な、と苦笑する刑部の横で、瑶樹もくつくつと笑う。
 昨日の騒動については、帰宅後すぐに仙石(せんごく)へ報告をしている。後はこちらに任せておけ、と言っていたから、刑部がこの件に関わることも、もうないのだろう。
 次号の準備に取り掛からねばならないが、憂鬱なのは件の作家との攻防である。
 思わずため息を落とした刑部をちらりと見遣った瑶樹は、唇の端を引き上げて、ぱしんと背を一つ叩いたのだった。

  ◇◆◇
 
 ずぞり、と餡掛け蕎麦を啜りながら、茉莉(まり)は手許の帳簿を確認する。今日の彼女は英国時代に着古した作業着姿で、髪も牡丹に倣うように手拭で押さえていた。台の上には姉の婚家より引き上げてきたオルゴールの部品が幾つも転がっており、そのいずれも錆びたり磨耗したりしている。
 昔に自ら引いた図面を引張り出すのは苦労した。もう不要なものとばかりに、物置きへ適当に放り込んでいたから。目にするのが只管不快で、焼き捨てるのも厭っただけなのだが、まさかこうして役立つとは思わなかった。あの時、怒りに任せて行動していたら、おそらく今頃大層苦労を強いられていたことだろう。きちんとした図面もなしに、磨耗した部品は削り出せない。
 預かっていた子供たちを送り届けたその場で、姉にオルゴールの修理を依頼された時はただ戸惑って、牡丹に勧められたのだと添えられた一言に「余計な事を」と忌々しく思ったものである。結局引き受けたのは、甥の懇願に根負けして機械部分を開けてみたからだ。
 その有り様に、愕然としたのである。
 彼女自身が手掛けた部分は、全く問題がなかった。それは当たり前だ、姉の為と張り切って、最上の物を作り上げるつもりだったのだから。がたつき、不具合を起こしていたのは、手伝いを買って出てくれた、当時友人だと信じていた男が手掛けた部分だ。それは細かな部品等、広範囲に及んでおり、確かにこれは牡丹の言う通り修復も骨である。当時は男を信頼しており、その伎倆と品質を疑いもしなかった。これは彼女の落ち度だろう。何より大切な音階の部分を、奴に言われるまま任せなくて良かったと、心底思った程だ。
「信じられない、こんな数年で磨耗するだなんて。どうしたらこんな惰弱な代物が出来上がるの?」
 不機嫌そうに吐き捨てて、ふう、と蕎麦を吹き冷ます。作業の合間に素早く食べられるようにと、気を使ってくれたのだろう。とろみのついた出汁は身体を温めてくれるし、何より美味しい。これが近藤も誉める食事かと思うと、尚更嬉しい限りだ。
 英国では、取り敢えず空腹を満たせればいいと、食事に拘ることはなかった。そもそも、あちらは冷たい食事が前提である。野菜も形が崩れるほどくたくたに煮たものばかりで、食事の楽しみは早々に諦めてしまったのだ。
 それよりも優先すべきものが、あの頃の茉莉にはあったから。
「茉莉様、お口に合いますでしょうか」
 音もなくやってきた桔梗が湯呑みを傍らに置いて、こくりと小首を傾げる。とても美味しいわ、とにこやかに振り仰ぐと、ほっと胸を撫で下ろしたふうに見えた。彼女は不思議と、自動人形(オートマタ)ということを忘れてしまう程に表情豊かだ。その感情は、声に、仕種に滲むようにして表れている。
「ごめんなさいね、牡丹さんがお留守なのに居座ってしまって」
「いいえ。心置きなく作業に没頭していただくようにと言い付かっております。どうぞ、御用の際はいつでもお呼びくださいませ」
 礼を言って、出がけに牡丹が好きに使えと示していった一画へ視線を向ける。おそらく牡丹が鋳造した合金や地金が無造作に置かれ、削り出すための機器も一式揃っていた。その環境を見れば、やはり胸が踊る。あまりお目にかかれない研磨機を見たときは、思わず歓声をあげてしまったほどに。
 まだ、こんなにも好きなのか。
 突き付けられた事実に、茉莉はため息をつきたくなった。同時に、大切な商売道具を快く使わせてくれる牡丹に、頭の下がる思いだ。それほどまでに、彼女は茉莉を信用してくれている。
「桔梗さんの御主人は、素晴らしい人ね」
 ぽつりと零れた一言に、桔梗はふと笑ったようだった。
「それは勿論、わたくしの誇りです。でも、子供のようなひとなんですよ」
 いつだって、新しいことには興味津々なのだという。手先の器用さもあって、取り敢えず何でも手を出してみるそうだ。だから当然、()つ国から(もたら)された新しい技術にも目を輝かせて、埋もれるようにして学んだという。いつしかそれらが生業となっていたのも、道理と言えよう。桔梗の身体を作り上げたときも、只管楽し気に、きらきらと目を輝かせて取り組んでいたそうだ。働き者で美しいと評判の小町娘の所へ出掛けていって、何枚も素描(スケッチ)させてもらうこともあったという。あたしは人形を作りたいわけじゃないんだよ、と度々口にして、試行錯誤を続けていたらしい。
 そんな彼女は、当然他人の仕事を見るのも大好きで、機会があればとことん弄り倒すそうだ。そんな時の彼女は、機構を見れば作者の人となりが見えるようだ、と笑っていた。
「茉莉様のオルゴールをご覧になっていらした折も、とても嬉しそうでした」
「嫌だわ、恥ずかしい。あれ、初めて作ったのよ」
「良い出来だと仰っていましたよ。『あたしは好きだ』って」
 ふと、背筋が伸びる思いがした。
 幼い頃から、茉莉は百合草家の人間らしく、賞賛の言葉ばかり頂いていた。それこそ、聞き飽きるくらいに言われ続けたのだ。
 それは英国へ留学してからも変わらず、手酷く茉莉を嵌めたあの男だって、手放しで言い続けた。
 君は凄い、君の作り出した物は凄い。
 友人面で傍らに立ち、揉み手をしながら言い続けて、ついには茉莉の手の中にあった物を全て、奇麗に掻っ攫っていったのだ。
 彼女へ向けられていた賞賛は侮蔑の言葉へと変わり、掌を返した人々は、憎々し気に非難を繰り返す。女であることに加えて、肌の色が違うことも災いとなった。彼女の味方は、誰一人いなかったのだ。
 他人様の手柄を我が物とするとは、恥知らずにも程がある。やはり女如きに、こんなにも素晴らしい物が作れるはずもなかったのだ。
 師匠だったはずの男から居丈高にそう言われて、滑稽さに笑いが込み上げた。
 偉そうにあれこれ語りながら、弟子の作ったものすら見分けられないのか。それではあれらは、茉莉の何を見ていたのだろう。
 冷めた頭で踊り続ける人々を眺め、居続ける価値なぞないと、身の回りのものを全て処分して身一つで帰国した。
 おそらく、あれらは尻尾を巻いて逃げ出したとでも思っているのだろう。それでも一向に構わなかったし、どうでもいいとさえ思っていた。
 どうせ、奪われた帳面の殆どには、日本語でアイデアの走り書きしかしていない。肝心な部分が抜けているのだから、そのうち化けの皮が剥がれることだろう。
 あれを見て先が発想できるだけの頭があるのなら、わざわざ他人様の手柄を掠め取ろうとは思わない。
 何の連絡もなく、突然帰ってきた茉莉へ、家族は何も聞かなかった。未だに、何も聞こうとはしない。茉莉だって、話す気はないのだ。あちらに置いてきた物に、未練はないと思っていたから。
 しかし、全て自ら捨ててきた気でいたけれど、やはり茉莉は拗ねていたのだろう。あの国での全てをなくして、不貞腐れて、大切な一番初めを忘れていた。
 作り始めたのは、楽しかったから。
 作り続けたのは、出来上がった物を兄弟たちが好きだと言ってくれたから。
 そうしてここにもまだ、茉莉が作ったものを好きだと言ってくれる人がいる。それが嬉しいと、まだ彼女は思えるのだ。
「……あぁ、情けない」
 ため息混じりに呟いて、放り出された、すっかりがたつき磨り減った部品へ目を向ける。そうして、くつりと笑みを零した。
「あぁあ、情けない! どうしてあたしが畏縮しなきゃならないのよ! この程度の物しか作れない奴なんか、相手にすらならないじゃない!」
 腹の底から声をあげて、突然のことに驚いた風情の桔梗へ、悪戯っぽい笑みを向ける。
「ねぇ、聞いて頂戴。但し、みんなには内緒よ? 桔梗さんだから言うの」
「わたくしで勤まるのなら、喜んで」
 生真面目に頷いた桔梗に可笑し気に笑って、茉莉はさばさばとした口調で語りだした。英国に渡ってから、どんなふうに日々を過ごしたのか。何が起こって、逃げ出すように祖国へ帰ってくる羽目になったのか。振り返るのも嫌なことだったはずなのに、不思議とするすると言葉が出てくる。
「何が親友よ。結局、あたしの技術が大好きだっただけなんだわ。己の見る目のなさに呆れるしかないわね。でも、何だかどうでも良くなっちゃった。だって、見てよこの有り様! 十年も経ってないのにこれよ? こんな伎倆で、あたしに取って変わろうだなんて」
「茉莉様」
 静かな声に口を噤むと、ピンと背筋を伸ばした桔梗が立っていた。微笑むような面は動かないはずなのに、茉莉の目には優しい眼差しが向けられているよう。
 彼女の立ち姿は、いつ見ても見愡れるほど美しい。それを自動人形故と、どうしても茉莉には思えなかった。
 彼女は、本当に美しいのだ。作り物かもしれない、その心根も含めて。
「わたくしも、佳一郎(よしいちろう)様と佳矢子様が好まれた音色を、聴いてみとうございます」
「……聴かせてあげるわ。あなたと牡丹さんには、是非聴いてほしい。これが終わっても、作り続ける。オルゴールなら、またやれる気がするの」
 桔梗さんにも一つ贈らせてね、と笑いかけると、彼女は心無しか弾んだ声で、楽しみにしております、と深々と頭を下げたのだ。

  ◇◆◇
 
 大禍時を迎えた境内には、蠢く気配の欠片もなかった。おそらくこの場に、彼と姫鬼がいるからだろう。小物どもは物陰で息を潜め、またはこの場から離れ、享楽に興じているものと思われる。
 曾ては聖域と呼ばれたこの地も、現在はただの俗世に過ぎないのだ。辛うじて体裁を保っているのは、芳彬(よしあきら)が張った結界が生きているからである。
 現在、麓の村には盛大に血の穢れが満ちて、再現なく湧いて出る小物たちが騒いでいた。剣呑な騒動が起きる前に、手を打たねばならない。
 息子夫婦の遺体は、早々に荼毘に付した。
 あれを放っておいては、後々の為にならないと判断したのだ。家ごと焼いたことは後悔していない。幸いなことに、他家から距離をおいた小さな一軒家は延焼せずに鎮火した。火影に遺体を見られたようだが、火付け強盗とでも思われていることだろう。
 この所業を真っ先に責めるかと思っていた娘は、青褪めた顔で「良いご判断でした」と彼を労った。
 己の感情を押さえ込んででも、後に降り掛かるであろう利害を、まず考えるように育ててしまったことは、申し訳ないと思っている。しかし、色濃く彼の血を引いたのは、息子の方だったのだ。そのことは、何とも皮肉なことだと思っている。
 縁側までやってくると、そこに腰かけていた姫鬼がちらりと視線を寄越した。彼女の傍らには幼い孫息子が丸くなっており、小さな寝息が聞こえてくる。
 彼女に連れられ、戻った孫は泣きじゃくっていたらしい。あの子は姫鬼に懐いていたようだったから、きっと彼女に抱かれて安心したのだろう。
「終わったの?」
「残りは、儂独りには無理だ。おまえのところの白竜に頼めないか」
「確かに、洗い流した方が良さそうだね。あの子の雨なら、土地の怨嗟も晴れようさ」
 遠くを眺めやって、姫鬼は縁側から離れた。突っ掛けた芳町がころころと音を立て、ついと細い指が縁側を指す。交われ、ということだろう。
「すまないな」
「別に。子供は嫌いじゃないから。その子は可愛らしいしね」
 素っ気無く応じて振り返る。芳彬が縁側へ収まるのを確認すると、冷たく目を細めた。
「精々、悔い改めるんだね。あんたが半端なことをした酬いだ。この際だから、すっぱりと切ってやったらどうだい? そうすりゃ、平穏に過ごせるだろうさ」
「そういうわけにもいくまいよ」
 ここで放り出せるはずもないだろう、と苦笑して、一つ疲れたため息を落とす。
 どうしてあの時、あれで終わったのだと思ってしまったのだろう。何故、逃れた女の息の根を止めなかったのか。無為に時を過ごした今となっては、何処が決着の付けどころか、とんと解らない。どうせやるのならば徹底的に。遺恨を残すべきではなかったのだ。
 けれど、耳の奥に残る声を思えば、それも出来なかった。
「これは儂がやらねばならないことだ。今後、おまえの手は煩わせないさ」
「あたしが言いたいのはそういうことじゃ……ああもう! うじうじ縋ってンじゃないよ、みっともない!」
 憤然と言い捨てて、姫鬼は地面を蹴りつけるようにして歩き去る。知ってるさ、と切なく笑って、芳彬は傍らの子供を見下ろした。
 息子夫婦の成れの果てを目にしたとき、かの人の最後を思わせて背筋が震えた。
 既に事切れていた二人は、もし言葉を遺せたのなら、何と言ったのだろう。己の不幸を嘆いたのだろうか。姿のなかった子を案じたのだろうか。
 かの人のように、許せ、と言ったのだろうか。
 傍らで泣き疲れて眠る子供は、ふっくらとした頬に幾筋も涙の後をつけている。まだころりと落ちるそれを指先で拭って、柔らかな手付きで頭を撫でた。
 独り遺された子供に害を為すモノは、それこそ有象無象に存在している。一人で出来ることなぞ、高が知れていた。ここは素直に、三萬坊へ助力を請うこととしよう。これから妻にも苦労をかけるだろうが、芯の強い彼女なら、しっかりとこの子も育て上げてくれる。
「あの姫鬼が封じたと言うのなら、そりゃぁ強固だろうさ。それなら、やりようはある」
 だからこのまま隠れておいで、と囁いて、ゆったりとした手付きで子供の丸い頭を撫で付ける。
 夜闇に沈む空に瞬く間に暗雲が押し寄せ、遠く腹に響く雷鳴が唸った。雲間に煌めく白銀を認めたとき、空から雨粒が降り注ぐ。
 慌ただしい気配を背後に感じながら、芳彬は重苦しく立ち篭める厚い雲を見上げた。ザッと激しく地面を打ち付けた雨脚は、穢れを奇麗に洗い流すだろう。
 冷たく降りしきる雨に、このままでは冷えてしまうな、と立ち上がろうとした芳彬は、つんと引かれた裾に視線を落とした。
 彼の長着の袂を掴んだ幼子は、それをぎゅっと抱え込むようにしている。
 ふと目許を緩めた芳彬は、座り直して奥へと声をかけた。間もなく妻の応える声がして、耳慣れた足音が近付いてくる。
 きっと彼女も、孫の姿に相好を崩すことだろう。もう一度わしわしと頭を撫でた芳彬は、そうっと孫の小さな手に触れたのだ。
 それももう、人の時間では遠い日のこと。
「あのちびが、随分でかくなったもんだな」
 頼もしい限りじゃねェの、と仙石が口角を持ち上げる。
 ここは、古い友人が経営している出版社の一室だ。資料室の一つではあるが、ここに出入りする者は限られる。部外者である解良(げら)が通されるのも、大凡こちらだった。
 雑然とした室内に紛れ込むようにして立っている解良も、こなれた風情の労働階級然とした洋装で、ここでは悪目立ちしないように気をつけている。
 散々笑い者にしてくれた友人は、不機嫌そうな解良のことなぞ意に介さず、上衣のポケットから紙切れを取り出した。
「白井の情報だ。持っていけ」
「この程度で誤魔化せると思ってるのか」
「手前の過保護を棚に上げンじゃねェよ。俺は、見てこいと言っただけだ。あいつ、見方も解ってねェだろう。おまえは、いつまで子守りに張り付いてるつもりだ」
 刑部も迷惑だろうよ、と皮肉げに笑うさまに、不服そうな表情を崩しもせず紙切れを引ったくる。紙面へ視線を落として確認しながら、解良はふと口を開いた。
「瑶樹嬢を付けたのは、おまえの判断か」
 瑶樹自身が強い気運の持ち主なのか、(まじな)いの発露がなかなか強靱だ。呼ぶ者にも恩恵を与えるよう施したが、あれほど強烈に影を消し飛ばすとは思わなかった。山本(さんもと)も、何やら思うところがあったのか、仙石にしてはいい判断だと言っていたが。
 果たして、仙石は苦笑混じりで頷く。
「まぁ、俺が雇い主だからな。深い意味はねェよ。百合草は、どうにも他の奴らには荷が勝ち過ぎてる。御せそうなのが、刑部しかいなかっただけだ」
 いい相方なんじゃねェの、と愉快そうに笑って、刷り上がってきたばかりの見本を指す。
「いい記事書くから、俺としても逃したくない人材だったしな。実際、刑部は良くやってくれてるよ。労を厭わねェし、細々と気も利く。難物と有名な先生にも可愛がられる大物だ。一人前の男相手に、いつまでもちび扱いは良くねェ」
 厭わしがられても知らんぞ、と付け加えられて、びしりと解良が固まる。けらけら笑い転げた仙石は、それで、と促した。
「山本の頼みだって? 何とかなりそうかい?」
「さて、どうだろうな」
 等閑(なおざり)に応じて、得た情報を頭の中で整理する。牡丹から聞いた話と、白井の情報と、双方から手繰れば本丸へ辿り着くだろう。
 山本にしても、頼まれたと口では言うものの、恐らくただの御節介なのだ。あれは気の好い男で、伝手を幾らでも持っている。わかっていて、獲た情報を流してくれたのだろう。
 それはわかっていたけれど、今更、という思いは拭えない。
 今更わかったところで、息子夫婦の弔いになるとも思えない。まして、己が魔道へ堕ちた恨みなぞ、晴れようもない。
 今更、どうにもならないことだ。
 それでも、己の手で決着をつけてこいというのだろう。そのうえで、おまえはどうするのだと魔王殿は突き付けているのだ。
 そんなもの、堕ちた時点で疾うに腹を括ったことなのに。
 紙片を胸ポケットへ放り込み、解良はひらりと手を振り踵を返した。
「白井に、礼を言っておいてくれ」
「おう。さっさと孫離れしてやれよ。嫁だって、遠からず見送ることになるんだからよ」
 余計なお世話だ、と眉根を寄せて振り返り、皮肉げに嗤って吐き捨てる。
「嫁御に先立たれて、山に火ィ噴かせた奴に言われたくないな」
「それこそ、若気の至りって奴だ」
 言ってろ、と素っ気無く言い捨てて資料室を出ると、足早に玄関へと向かう。往来へ出たところで、ふらりと横道へ入り込み、軽く地面を蹴った。烏へ変じて空へ飛び立つ。
 あの日から、随分と年月が過ぎた。
 当初は流石に嘆いたものの、絶望することにはすぐに厭きて、今に至る。そもそも、悲劇に浸って良しとするような性格ではなかったのだ。無意味なことに時を費やすのは、性に合わない。
 通り過ぎて行く人の世を眺めながら生きることにも、すっかり慣れてしまった。愉しみの見い出し方も覚えて、過ぎ行く時は退屈なだけではないと知っている。それでも解らないことは数多あって、今でも時折、考えるのだ。
 あの、許せ、の意味を。

〈了〉
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