3・PTSD(心的外傷後ストレス障害)

文字数 2,438文字

3・PTSD(心的外傷後ストレス障害)
 坂道を歩きながら、ふとビルの看板を見上げるとインドカレーの看板が見える。
すぐ近くには韓国専門の喫茶店がある。最近のコンビニに入ると、ベトナム、フィリピン、中国人などの外国人が多い。外国人の店員以外いない店も珍しくはなくなった。日本で働く東南アジア系の若者が増えている。
日本の中に多くの外国人が増えることにより多文化の社会になることはある意味平和の象徴であり、望ましいことなのである。肌寒い空気が坂道を吹きおろしてくる。
隣りを歩くユンハさんが、少し身震いをした。
私の顔をみたユンハさんが「もう一年になるのね」と言った。
私は「えっ」と隣りのユンハさんの顔を見た。彼女の顔には微笑みを浮かべていた。すぐ、私の去年のクリスマス礼拝での私の洗礼式のことだと気づいた。
早いもので私が洗礼を受けてからすでに一年が経った。
私は教会に来て自分の命が救われたと思っている。
「交通事故に遭ったのは高校生の時なんでしょう?」
「うん、一年生の春。」
「事故の話なんかしていいのかしら?」
「別に構わないよ。」
「歩きながら事故の話なんかすべきではなかったかしら?」
「ううん。別に。かえって改まって話をするよりも歩きながらの方がいいのかもしれない。」

私は、ユンハさんに私が高校一年生のときに遭遇した交通事故について話した。その事故は、学校の行事の一環で多賀城から松島までのウオーキングの最中に起きた。多賀城から松島まで歩いて何時間も歩くウオーキングだったので、朝午前四時頃の暗い時間帯に学校を集団で出発した。
車の通行も少ないので歩きやすいという安全上の配慮があり、長い間の学校の伝統行事になっていた。
各信号の要所要所に学校の先生方が配置されていたので、安全上は万全であったはずだ。
だが、まだ朝も明け切らない時間帯の前の日の夜から酒を飲み、飲酒状態のまま車で国道を走ってくる自動車があるとは予想もできなかった。横断歩道に教員が配置されていても、酒酔い運転の車は信号も人の存在も考慮せずに突進してくるのだ。僕たちが信号を渡り終え赤に変わった。車の通行はなかった。歩行者の信号が青に変わり、僕たちの後続の生徒が渡り始めた時に、一台のワゴン車がブレーキをかけることもなく突進してきた。
車の信号は当然赤だ。大勢の生徒たちが横断歩道を渡っている。
 深夜まで酒を飲んでいた運転手の判断はにぶっていた。ドーンという衝撃音が響いた。
静かな朝方にはふさわしくない音だった。多くの悲鳴が聞こえた。同時に大勢の人々の泣き叫ぶ声が聞こえた。
 音と同時に私は横断歩道の方を振り向いたとき、多くの生徒や先生方を跳ね飛ばした車は横断歩道から少し過ぎたあたりで停止していた。横断歩道上には多くの人が倒れ臥していた。
 私の頭は真っ白にになった。「戻れ、戻れ」という先生の声に私は渡り終えたばかりの横断歩道を戻った。
 この事故で友人三人が死亡し、十二人の生徒や先生方が重軽傷を負った。
 この事故はテレビで全国放送として報道され、翌日の新聞の社会面のトップだった。
 学校は、僕たちのPTSD(的外傷後ストレス障害)を心配し、事故の翌日から休校になった僕たちの一人ひとりに担任の先生から「体調はどうだ?」との電話があった。私はPTSDに罹らずにすんだと思っていた。
だが、PTSDというのは事故の直後に発症するだけに限らず、長い間、海の底に沈殿している砂のように堆積し、ある時期、ダイバーが通った時に砂が舞い上がるように表出する場合もあることを私は自分の経験を通して知った。私が大学三年の時、東日本大震災が発生した。このとき、私の両親の二軒の家が津波で流された。
 祖父母の多くの知り合いが大勢亡くなった。私の祖父母の近所の人は、一緒に逃げようと迎えに立ち寄ったわずかな時間に海に流された。ビルの3階に避難したがその3階に押し寄せた津波から逃げるために屋根部屋につながる僅かな場所に逃げ、あと数十センチのところで波が止まり、かろうじて命が助かったという方の声を聞いた。つらいのは、避難先から地上に降りた際、大きな木の枝に人がまるで人形のように釣り下がっている光景を見たのは地獄図のようだったという。
 東日本大震災の話を聞いているうち、私の精神に異変が生じはじめた。自分の家から外に出ることができなくなったのだ。それがPTSDであることは発症から1年半後に精神科医の診断でわかった。
 PTSDの発症を抑制する薬を服用するようになって初めて外に出ることができた。
 PTSDを発症するとそのうち、何パーセントかの人が自殺に追い込まれるという。
 私もよく「死にたい」と口にしていた。おかげで、私は家族を心配させた。
 両親は、私が出かけるときには必ずどちらかが家にいることにしていた。私の行動を心配していたからだ。
 私はPTSDの間、ずっと本を読み続けていた。それも聖書の注釈書が主だ。
 PTSDになる前、私は教会に通っていた。それが、今私が通っている教会であり、昨年洗礼を受けた教会だ。
 私は長い間、PTSDに苦しみ、薬を服用して初めて外出したのが今の教会だ。
 私をPTSDへと追い込んだきっかけを作ったのは高校一年のときの交通事故の目撃だ。
 事故の加害者である運転者をうらんでも仕方がない。
 その運転者は、事故後、危険運転の罪で20年の懲役刑を受け、今もなお罪の償いをしているからだ。
 事故後、初めて事故でなくなった友人の墓地の墓参りに行った。
 その帰り道、寺の門前に「与えられた命をどう生かすか」という言葉が書いてあった。
 私は、ユンハさんに歩きながら、高校一年の時の事故から洗礼を受けるまでのことをおおまかに話した。
ユンハさんは、少し考えながら、
「イチロー君は、教会に来て、新しい命を与えられたということかしらねえ」と言った。
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登場人物紹介

私・イチロー(大学4年生)

ユンハ(韓国生まれ)

イ・ユンハ 韓国からの仙台の大学に留学している女性

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