3−2)

文字数 6,648文字

作業員は二人を見た。着物は濡れて体に張り付き、体の線が鮮明になっていた。袖から水滴が垂れていた。髪は乱れ、銀杏髷は崩れていた。
 作業員は足元に置いてある手ぬぐいを手に取り、きつく絞った。手ぬぐいから水が落ちた。作業員は、計羅に手ぬぐいを渡した。
 計羅は、手ぬぐいを受取って顔を吹き、両手で絞った。
 計羅は、載に手ぬぐいを渡した。
 載は、計羅が持つ手ぬぐいを受け取り、計羅と同じく手ぬぐいで顔を吹くと作業員に渡した。
 作業員は、手ぬぐいを受け取った。
 作業員達は、載と計羅の周りに集まってきた。
「雨が降ってる時に遊んでたのか」作業員の一人が、載に尋ねた。
「違うよ」載は強く言った。
「一緒にいたお姉ちゃんを止めようとしたんだよ」計羅は、載の言葉を遮って言った。
 載は口をつぐみ、計羅の方を向いた。
「池に蛇がいて、空に昇ったの。そんで黒い蛇が後から出てきて、お姉ちゃんに黒いのが取り付いて池に、池に入っていったの」
 計羅の説明に作業員達は眉を顰めたり、首を傾げたりした。
「訳が分からねえや」
「夢じゃないのか」
 作業員達は誰一人として、計羅の話を真っ当に聞かなかった。
 載は作業員達の態度に苛立ち、作業員のむこうずねを蹴った。
 作業員は痛みで跳ね上がり、むこうずねを抑えて載を睨んだ。「てめえ、何しやがる」
 載は、作業員に突っかかった。「話を聞きなさいよ。お姉ちゃんが池に入っていったの。雨が上がったら、探してって言ってるの」
「訳が分からねえよ」作業員は、載に突っかかろうとした。
 作業員の隣にいた普請役が、二人の間に入った。普請役は、疲れた表情をしていた。
「やめろ」普請役は、二人を交互に見た。「お姉ちゃん、とは差し入れに来た娘か。そいつが池に落ちたんだな」
「落ちたんじゃなくて、池に入ってったの」
「池に入った。自分でか」普請役は、二人に尋ねた。
 計羅は頷いた。
 普請役は、作業員の方を向いた。「雨が上がったら、名主様の所に行って道具と人を借りて来る。お前達は池の周りを調べろ」
「構わないが、いつ雨が止むんですかね」
「急に降った雨だ、すぐ止む」
 冷たい風が流れ始めた。次第に雨脚が弱まっていった。視界も開けて雲も薄く、白くなっていった。蝉の声が響いてきた。暫くして雨は霧雨となり、止んだ。雲の切れている所は青く、光が差し込んでいた。
 作業員は道に出て、原の方を見た。原の草や置いてある道具はは濡れていた。原の先に見える姿ケ池は、見た目で分かる程度に増水していた。
「何があっても池に入るな。お前も担がなければいけなくなる」
「ガキが泳ぎに来てるんじゃねえんだからよ、そんな真似するか」作業員は笑い、池の方に歩いていった。
 普請役は、載と計羅の方を向いた。「お前達も一緒に来て話をして貰うが、いいか」
 載は、嫌そうな表情をした。
「何処に行くの」計羅は、普請役に尋ねた。
「名主様の所だ」
「お父の所に行くんだ」
 普請役は、載の言葉に頷いた。
「別にお前達を突き出す気はない。精一杯止めたようだからな。行きたくないのであれば、行かなくてもいい。どうする」
 載は、首を振った。「ううん、そうじゃなくて。いいよ。行く」
 載は、計羅の方を向いた。「計羅は、行くの」
「行く。だって、一緒に行かないと誰も説明出来ないから」
「分かった。一緒に来て話してくれ」
「うん」載と計羅は、普請役の言葉に同時に頷いた。
 普請役は、道を歩いて村に向かった。
 載と計羅は、普請役の後をついていった。
 道は次第に舗装されていないあぜ道に出た。あぜ道は濡れていて、所々に水溜りが出来ていた。水が脇に広がる田に満ちていて、余った水は用水路に流れていた。急に雨が降ったからか、踏車は片付けられていなかった。用水路の水は勢い良く流れていた。
 普請役と、載と計羅はあぜ道を歩いていた。載の着物は乾き始めていた。体に引っ付いていた着物が離れ、袖がなびいていた。
 六徳の家の前に着いた。平門は開いていた。
「どうして、ここに来たの」計羅は、普請役に尋ねた。
 載は、嫌そうな表情をしていた。
「名主様に許可を取らないとな」
 普請役は、平門の敷居をまたいで中に入った。
 載と計羅は、普請役の後をついて行った。
 普請役は、庭を通り式台の前に来た。式台の戸は閉まっていた。屋根から水が滴り落ちていた。
 載と計羅は、普請役の隣に来た。
「名主様、ご用件が有ります」普請役は、声を上げた。
 式台の戸が開き、六徳が出てきた。六徳は、普請役と隣にいる載を見た。載の髪や着物は乱れていて、足袋は泥で汚れていた。
「何かと思えば、載を保護してきたのか」
「いえ、そうではなく」普請役は、載の方を向いた。
「お父」載は、普請役から前に出た。「雨が降った時蛇がいて、蛇がお空に昇ってたの。でね、黒い蛇が出てきて、一緒にいた人が蛇に絡みつかれて。でね」載は、手を振りながら説明した。
 六徳は、載の話が理解出来ずに眉を顰めた。
「だから、お父。村の人を止めようとしても蛇が睨んで、池の中に」
 普請役は、咳払いをした。載は、話を止めた。
「村の娘が池に入ったそうでして、捜索の為に人と船諸々を借りたいと思い来た次第です」
「池に入ったと」六徳は、鸚鵡返しに言い、載の方を向いた。
 載は頷いた。「止めても駄目だったんだよ。計羅も一緒にいたんだけど、どうにも出来なかったんだよ」載は、目に涙を浮かべて説明した。
「今の状況は」
「池の中を調べるというのは出来ませんから、作業員には池の近辺を調べるよう言っています。池の様子を見る前にこちらに来たので確証はありませんが、二人が嘘をついているようには思えません」
「載の話は本当だよ。私も見たから」
 六徳は、載と計羅を交互に見た。載は僅かに俯いていた。計羅は、訴えるように六徳を見ていた。
「当たり前だ、うちの娘は嘘をつかん」六徳は、強く言った。
「お父」載は、不安そうに言った。
「どう言う経緯なのか分からんが、池に人が落ちたのであれば調べる必要がある。他の者には話したのか」
「いえ」△
「分かった。村の者に号をかけ、船も網も出させるよう伝える。次に」
「次に」
「姿ケ池の一件は神社に手を回してくれ。集まりの時に瞬息が話を回すよう言っておったからな」
「なら、あたしが話を」
「あたしが行く」載は計羅の話を遮るように言った。計羅は口をつぐんだ。
 載は、踵を返して式台から去った。
「載、待ってよ」計羅は踵を返し、載を追いかけた。
「我々は村を回ろう。瞬息には、子供が話をするから寄らなくとも良いな」
「途中で、遊びに行きやしませんかね」
「村に声を掛け終わったら、神社に寄る。問題ないな」
 普請役は、六徳の案に頷いた。「はい」
「待っておれ、すぐに準備する」六徳は、踵を返して間に入った。
 式台の戸が、勢い良く閉まった。



 載は、あぜ道を走っていた。 載の後を、計羅が追いかけていた。あぜ道は雨が降った後で道は濡れていた。小さい水溜りが所々にあった。道は濡れていて、歩くのに支障をきたす程ではないぬかるみがあった。
 載は疲れを覚え、足を止めた。
 計羅は、載に追いついた。計羅の息は上がっていた。「もう、出て行かないでよ。皆と一緒に神社に行けばいいのに」
「だって、すぐ行かないでしょ」
「そうかもしれないけど」
「じゃあ、いいじゃない。あたしが行くって言ったら行くの」載は、あぜ道を走った。
「あ、そんなに急がなくてもいいじゃない」計羅は、載の後をついていった。
 あぜ道を走っていくうち、小高い丘に出た。小高い丘には石の階段が有った。階段の上には石の鳥居があった。
 載は、階段を駆け足で昇った。
 計羅は、載の後をついて階段の端を昇った。
 載は鳥居をくぐり、境内に入った。
 計羅は、鳥居の前で立ち止まり、軽く礼をしてから境内に入った。
 神社の境内の敷石は濡れていて、所々に葉や枝が落ちていた。雲は抜け、青い空が広がっていた。日は強く差していた。冷たい風が吹いていた。
 須臾は、落ちている葉や枝を拾っていた。
 那由多は籠を持ち、須臾と別の所で落ち葉を拾っていた。
 須臾は那由多の元に来て、籠に落ち葉を入れた。
「計羅様と載が気がかりです。作業員が多く守も一緒とは言え、あの性格ですから」
「子供というのは、素直ですよ。貴方と同じで」
 須臾は那由多に言われ、眉を顰めた。「そうですか」
「人の性格や癖は、自分では気付きにくいですから」那由多は笑みを浮かべた。
「須臾様」載の声が響いた。
 須臾は、声がした方を向いた。
 載が、須臾に向かって手を振っていた。
 計羅が、鳥居をくぐり載の隣に来た。
「あら、噂をすれば」
 須臾は、載の元に向かった。「雨の時はどうしていた。大丈夫だったのか」
「大丈夫だったよ」
 那由多も、載と計羅の元に向かった。
「須臾様、戻って来たよ。あのね、あのね」計羅は、須臾の袖を掴んだ。「話があるの」
「話とは」
「あのね、雨が振ってる時、白い蛇が池からお空に飛んでってね。黒い蛇が池から出て来て、一緒にいたお姉ちゃんが、黒い蛇だらけになって池の中に入ってったの」
 計羅の説明に、須臾は戸惑いの表情を見せた。計羅の話が理解出来なかった。
「本当なの」那由多は、混乱している須臾の代わりに計羅に尋ねた。
 載は、計羅を押して那由多の前に出た。「本当だよ。あたしも見たよ」
「那由多様、話が分かるのですか」
「巨大な黒い蛇は池の造成中、底にいるのを見ました」
「蛇が関係していると」
「あり得ます。しかし、白い蛇は分かりません」
 載は、姿ケ池の出来事を思い出そうとして、唸った。「白い蛇は、輪っかみたいなので縛られてたよ」
「そうだっけ」
「うん。縄みたいなので縛られてて、でも皮が剥けるみたいにして縄を抜けて空に出てったの。お空に行った後に雲が山の方に飛んで行ってたんだよ」
 須臾は載と計羅、那由多のやり取りを見て眉を顰めた。
「その後、黒い蛇が出てきて、お姉ちゃんが黒い蛇塗れになって池に入ってったんだよ」
「あの、私には理解出来ません」須臾は、那由多の方を向いた。「那由多様、ご説明をお願いします」
「私も、話を聞いているだけですから断片的にしか分かりませんが亅那由多は一息ついた。「要約すると、黒い蛇がいて何かしら悪さをし、二人より年上の娘を池に導いたようです。しかし、何故娘を池に導いたのでしょう。人柱を求めているのでしょうか」
 須臾は、那由多の『人柱』と言う言葉に顔をしかめた「まさか、人柱が関係しているのですか」
「分かりません。造成まで何もなかったのは確かですから、人柱の恨みにしては遅い気がします。造成後に何かあったと言う方が、自然ではないかと思うのです」
 須臾は、那由多の話に頷いた。
「他に、村の人に話しましたか」須臾は、載に尋ねた。
 載は頷いた。「お父に言った。お父は村の人に知らせるって」
「村で娘を探すようですね」
「瞬息様に、状況を知らせて来ます」
 須臾は、拝殿の脇に向かい、脇から境内の奥にある住居に向かった。
 住居は藁葺きで、壁は漆喰が塗ってあった。奥は鎮守の森があり、木が青々と茂っていた。
 須臾は縁側に向かった。縁側の戸は開いていて、間が見えていた。間は畳で箪笥や長持が隅に置いてあった。
「瞬息様」須臾は声を上げた。
 暫くして、瞬息が奥から間に現れた。瞬息はやつれ、青い顔をしていた。
「須臾か、客人が来たのか」
「先程、計羅様が載を連れて戻ってきました」
 瞬息の表情が、一瞬緩んだ。「戻りましたか。心配しました」
「計羅様が言うには、蛇がどうとかで娘が池に入ったそうです。名主様に報告済で、近々使いを通して知らせが来るかと思います」
 瞬息は、須臾の『蛇』の言葉に反応し、顔を強張らせた。「蛇と言ったか。して、どういう蛇だった」
 「ええとですね」須臾は眉を顰めた。
「白い蛇と黒い蛇だそうです」那由多の声がした。
 須臾は、声がした方を見た。那由多は載と計羅を伴って立っていた。
 瞬息は、須臾の隣を見た。那由多は須臾の隣に来た。
「白い蛇は空に昇り、黒い蛇が娘を池へ導いたそうです」
 瞬息は頷き、踵を返して間に向かおうとした。
「池に行くのですか」
 瞬息は、頷いた。「今すぐ行こう」
「近いうち、村の者が来ます。待てませんか」
 瞬息は立ち止まり、那由多の方を向いた。
「六徳様に知らせたそうですから、使いが来るでしょう。勝手に行けば、街道に行った時のように何か言われますよ」
 瞬息は考え込んだ。「そうですね。書にいますから、何かあればそこにいると伝えて下さい」
 六徳は踵を返し、奥に向かった。
「随分、嫌そうでしたね」
「気にしなくとも構いません。思ったようにいかないので不満になっただけです」
 那由多は、載と計羅の方を見た。「二人共、着替えましょう。載は計羅と同じ服で構いませんね」
 載は、那由多を見て頷いた。「うん、同じ格好だから大丈夫だよ」
 那由多は、須臾に手に持っている籠を渡した。「掃除の続き、お願いします」
「はい」
 那由多は、載と計羅を玄関に連れて行った。玄関の戸は開いていた。那由多は載と計羅を連れ、玄関に敷居をまたいで入った。
 須臾は、踵を返して拝殿の前に戻った。
 拝殿の前は人気がなかった。蝉の声も一月前に比べて小さくなっていた。風が吹いた。隅に植えてある桜の枝が揺れ、葉が擦れる音が響いていた。風は冷たさが混じっていた。
 須臾は掃除を再開した。
 暫くして六徳と普請役が、鳥居をくぐって境内に入って来た。
「須臾、お前一人か」
 須臾は、六徳の声に気づいた。声がした方を向いた。六徳が立っていた。
「六徳様、早いですね」須臾は、普請役を見た。「普請役も一緒に。池の件ですか」
 六徳と普請役は、須臾の元に来た。
「話を知っているのか」
 須臾は頷いた。「蛇が何やらと言う話ですね。先程その話をしていました」
「瞬息はいるか」
「瞬息様なら、奥の家にいます」
「載は」
「計羅様と一緒です。那由多様が着替えの為に家に連れて行きました」
 六徳は頷き、拝殿の脇へ向かった。
 普請役は、須臾の方を向いた。「お前は、池にいるという蛇の話を信じているのか」
「分かりませんが、とても嘘をついているように見えませんでした」
「嘘か」△
「嘘は事実を覆い隠す為につきます。池に落ちたのが事実であれば、真っ先に疑われるのは一緒にいた計羅様や載です。二人が自分の首を絞めるような嘘をつくとは考えられません」
 普請役は頷いた。「お前も、二人の話を嘘と認識していないのか。分かった」普請役は、住居に向かった。
 住居の間では、着替えて髪を整えた載と計羅が、那由多と共に貝合わせをしていた。
「瞬息様、六徳様と普請役が来ました」須臾は、大声で言った。
 暫くして玄関から、瞬息が出てきた。瞬息は腰に矢立を下げていた。
 瞬息は六徳と、普請役を交互に見た。
「須臾から使いと聞きましたが、六徳様が直々に来るとは思いませんでした」
「来て欲しくないような言い方だな」
「災の呼び出しでなければ、です」
「話は聞いているのだな」
「はい。状況はどうなのですか」
「村の若者に声をかけた」
「分かりました。しかし、私一人では原因を判断しかねます」
「蛇がどうとか言っていたが、分かるか」
「心当たりがあります。但し私自身、実際に目にしていないので本当に心当たりだけですが」
「俺も同じだ」
「状況を知る者が必要だ。載と計羅を連れて行きたいが、どうだ」六徳は、瞬息に言った。
 那由多は縁側に出てきた。「二人は戻ったばかりで疲れています。加えてすぐ動き回りますから迷惑になるかと思います。貴方達は計羅と載の言葉を心から信用しているのですか。信用していれば、証言が取れているのですから連れて行く必要はないでしょう」
 六徳は唸った。
「いえ、子供の状況を優先するばかりに。失言でした、申し訳ありません」那由多は、六徳に頭を下げた。
「いえ、那由多様の言う通りです」六徳は、那由多に頭を下げた。
「あの」普請役は、六徳に話しかけた。
 六徳は、普請役の方を向いた。
「話の腰を折るようで申し訳ないのですが、池の状況を調べるとなれば、他の普請役と相談する必要があります。ですから、そちらの作業に御一緒出来ません」
「確かに、普請に欠陥があったとなれば問題になるからな。普請役同士で意見を纏めて調べる必要がある」
「飲み込みが早くて助かります。池までなら、お供します」
「では、行きましょう」
 六徳と瞬息は境内に向かって歩いた。
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