アグラファ

文字数 4,260文字

 大司教たちに導かれるまま、葵と蘭は三条通りを鴨川方面へ三〇〇メートルほど歩いたところにある喫茶店へ足を踏み入れた。レンガ風の壁にアーチ型の窓の、洋館風の洒落た店だ。

「ここのパンはお店の中の竈で焼いてましてね。イタリアから来た司祭にこのお店を紹介したら、『日本で食べたパンの中で一番うまい』と喜んでいましたよ」

 そう言って大司教は、カプチーノとトーストを注文した。連れの二人の司祭も同じものを頼む。
 蘭まで同じものを頼むので、昼食を食べて間もない上にさっきコーヒーを飲んだばかりの葵も、別のものを頼みづらくてカプチーノとトーストを頼むことにした。
 注文した品が運ばれてくるのを待ちながら、葵は向かいに座った三人を観察した。全員、揃いの黒い祭服を着ている。中央に座るイグナチオ服部と名乗った大司祭は、髪にも眉にも、そして口の周りを覆う髭にも白いものが混じっている。少し額が広いことが、理知的な印象を見るものに与える。皺の刻まれた目尻(まなじり)はやや垂れ下がっていて、優しそうな目だ。
 大司祭の向かって右側に座っているのは、先ほどScholar上のデータ削除について詳細な注文をつけた若い男だ。おそらくITについての専門知識を買われて大司祭に同行したのだろう。痩せぎすで目つきが鋭く、神経質そうな顔つきだ。ややウェーブのかかった黒髪は蓮覺のように刈り込んでこそいないが、かなり短めにカットしてある。
 そしてもう一人、向かって左に座っている男は、明らかに日本人ではなかった。陶器のように白い肌にハシバミ色の虹彩、艶やかに波打つ髪の栗色も、おそらく脱色や染色によるものではないだろう。人形のような美しい青年だ。

「それで、Q資料の話ですが」

 トーストとコーヒーの到着を待たずに、大司教はゆっくりと語り始めた。


「新約聖書学の世界ではQ資料はあくまで仮説上の資料にすぎませんが、それに相当する文書はバチカンが古来より秘蔵していました。いつごろからあるのか判然としませんが、伝承では教皇インノケンティウス一世の時代にはもう存在したということです。原書は羊皮紙ですが、経年による風化がどうしても防ぎきれないために、ヨハネ・パウロ二世の時代にスキャニングを行い、デジタルデータとして磁気テープにも保管することとしたのです」

 そして今年、教皇庁内部のとある研究部門において、Q資料に関する解析を行うためにそのデジタルデータを使用することになった。データは磁気テープから暗号化の施された特殊なUSBメモリにコピーされ、バチカン内の別の建物へ移送されることになった。
 USBメモリは512バイトの秘密鍵を入力すると中のデータを復号化することができる仕組みで、復号化すると中のデータは壊れるようになっていた。あくまで運搬のための一時的なものだったのだが、運搬中に教皇庁の別部署で働いていた助祭がこれを強奪、運搬スタッフ二名と駆け付けたスイス衛兵三名に重軽傷を負わせて逃走するという事件が起こった。
 幸い、数時間後に犯人はローマ市内のアパートの一室で拘束された。USBメモリも回収され、中のデータが壊れていないことから、復号化はされていないことが確認できた。
 ただしこのUSBメモリ、データを復号化して取り出すには秘密鍵を入力して中のデータを破壊しなければならないが、暗号化されたままのデータを外部へコピーするのはそれほど難しいことではない。普通にPCに接続しただけでは無理だが、この装置を暗号化のない通常のUSBメモリとして認識するようなUSBドライバソフトを用意すれば暗号化データをそのまま読み出せる。犯人はあらかじめそういうUSBドライバを用意して暗号化データを読みだし、このデータが教皇庁が秘匿していたQ資料であるという趣旨の論文に添付してScholarにアップロードしていた。
 もちろん教皇庁はその論文がScholarブロックチェーンに登録されるやいなやすぐに反応し、これは全くのデタラメで教皇庁にそんなものはないとの声明と共にScholar運営コミュニティにデータの論理削除を申請した。

「運営コミュニティに削除申請って、それじゃあ蘭は何で知らなかったの?」

 葵が思わず口をはさむと、蘭は「九時間前は寝ていたからね」と答えた。蘭が寝ている間に運営コミュニティの五十一%の賛成が得られて論理削除が行われており、蘭が起床して睡眠中にあったことを確認する前に葵がやってきて、葵と会話しているうちに大司祭たちが来訪して現在に至る、ということらしい。

「ともかく、『Q資料は偽物だ』という我々の声明は、至極納得の行くものでしたから、ほとんどのScholar利用者がそれを信じました。論理削除されたことでそれ以降のアクセスはできなくなりましたし、それ以前にダウンロード済みの者が万一復号化に成功したとしても、それは偽物だと信じられているわけですから、問題はなかったのです。ですが……」

 大司教は話を続けた。
 犯人逮捕と論理削除で問題は解決したと教皇庁が胸を撫で下ろしたのもつかの間、ロシア外務省から教皇庁に公式な非難声明が出された。教皇庁所属のロシア国籍の助祭ミハイル・アスィルムラートフが教皇庁の所蔵する文書を盗んだとして逮捕されたようだが、その逮捕が正当な手続きを踏んでなされたものかどうか不透明だというのだ。
 ScholarへのQ資料のアップロードを行ったユーザのアカウントアドレスは、それ以前から『ミハイル・アスィルムラートフ』名義で神学論文を発表しているアカウントであり、実際アスィルムラートフ助祭はカテキズムに関する神学の研究者として知られていた。ロシア政府の声明により、アスィルムラートフ助祭が教皇庁から何らかの文書を盗んだのが事実であることが明らかになった結果、偽物だと思われていたQ資料が俄然、信憑性を帯びてきたのだという。

「そういう経緯なら、物理削除はむしろ悪手だろうな。例外中の例外であるロールバックなんか行ったら、Q資料が本物であると認めるようなものだ」
「ですが、なりふり構っていられないのです。ロシア政府の声明以降、Scholarの情報理論ジャンルにおいて、一部のユーザによって論理削除されたデータの回収(サルベージ)方法などが議論されています。データの拡散を少しでも食い止めるためには、物理削除が最適と考えます」

 ウェイトレスがトーストとコーヒーを運んできた。鼻腔をくすぐる焼きたてのパンの香ばしい匂いは、お腹が減っていないはずの葵でも食欲をそそられる。まだ竈の熱が残るそのパンを顔の前に持ってきて、一口齧る前に、葵は心に浮かんだ疑問を口にした。

「そもそも、その文書はなぜそうまでして隠さなきゃいけないんですか?」

 葵の質問に、大司教は「アグラファが含まれるからです」と答えた。

「主イエスが説かれた言葉のうち、四つの福音書に書かれていないものをアグラファと呼びます。我々カトリック教会がアグラファと認めている主の言葉のほとんどは、キリスト教の歴史の最初期に口伝として伝わっていたものが使徒教父文書や新約聖書外典にのみ書き残され、たまたま四福音書への記載が漏れたもののうち、間違いなくイエスの言葉であるという証拠があるものです。
 ですがQ資料に書かれているのにマタイ福音書にもルカ福音書にも記載されずアグラファとなったものは事情が違います。言葉の持つ力が強すぎるために秘匿しなければならなかった言葉なのです」
「力が強すぎる、と言うと……?」

 大司教は、説明してよいものだろうか、と少し逡巡したようだったが、カプチーノをシナモンスティックでかき混ぜながら話を続けた。

「我々人間はご覧のように肉の身体を持っています。ですがその肉の身体の最も奥深いところにには、天にまします父から流れ込んだ『聖霊(スピリット)』が存在します。これは人間であれば誰でも存在するのですが、ほとんどの人はそれがあることすら気づかず生きています。アグラファに触れたものは、その内に秘めた聖霊の存在を強く意識するようになり、精神と聖霊とが強く連携(リンク)されます」

 それは良いことなのではないか、という葵の問いに、大司教は首を横に振る。彼によると、聖霊は父より生じて人々に流れ込むまでに、様々な霊的存在を経由してしまう場合があるという。天使を経由して流れ込む場合は良いのだが、悪魔や異教の神を経由した聖霊が流れ込んだ場合、下手にその聖霊との連携が強化されるとその悪魔や異教の神に精神を乗っ取られてしまうのだと言う。

「また聖霊は、我々の行動次第で穢れてしまうこともあります。聖霊が穢れている人が聖霊と強く連携されるのも非常に危険なのです。なのでカトリック教会では、戒律に則した正しい生活をして聖霊を清め、修行と祈りにより悪魔や異教の神の悪影響をはねのける力を得た者にのみアグラファを開示しているのです。もっとも、アグラファに触れることで聖霊と連携できるかどうかは個人の素質にもよりますが」

 大司教は上品な所作でコーヒーカップを口元へ運び、カプチーノをひと口飲んだ。

「極端に素質がある人だと、このようなアグラファに関する話を聞くだけで、聖霊との連携が開いてしまう人がいますので、このお話をすることも本当は危険なのですが、まあそこまでの人は歴史上数人ほどしかいないと聞いております」

 葵がコーヒーを飲もうとカップに手を伸ばしたその時、視界に白い靄がかかったようになって、何も見えなくなった。
 葵は心の中に得も言われぬ感情が湧き上がってくるのを感じた。温かく優しい気持ちのようでいて、どこか不安でたまらないような。待ち焦がれた幸福の到来のようでいて、それが到来すべきこの地上がどうしようもなく堕落しきっていることを嘆くような。相反する二つの強い情動がないまぜになった感情が、まるでどこかから流れ込んできたかのように葵の心の中に溢れてきて、堪えようもなく涙がこぼれた。

「葵? どうした」

 葵の頬を伝う涙を見て蘭が気遣わしげに問いかけるが、答えることができない。自分でも何が起こっているか把握できないし、得体の知れない感情に支配されて返答どころではない。かろうじて、「目が、見えない」という言葉を振り絞った後、葵はそのまま、意識を失った。

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