東村之博

文字数 3,185文字

 葵が喫茶店で、外尾となのる男が電話で話している内容を聞いてしまったのと同じ時。
 同じ喫茶店内で、同じ電話内容に興味を持った人物がいた。
 カウンター席でノートパソコンを広げて、海外のインターネット掲示板を眺めていた男、東村之博である。
 之博は日本最大のインターネット掲示板『チャネル2』を立ち上げた人物として知られている。四年前に運営をめぐるゴタゴタで半ば乗っ取られるようにチャネル2の運営権を失った後、チャネル2のような日本の匿名掲示板文化の影響を受けて誕生したアメリカの画像掲示板『チャネル4』の管理人として迎え入れられていた。それ以前から定住地を持たずに世界中を転々としながら暮らしていたのだが、今日はたまたま故国日本に帰ってきて、京都の喫茶店で自身の運営するチャネル4の書き込みを眺めていたのだが、彼が外尾の電話内容を気に留めた最大の理由は、外尾の顔に見覚えがあったからだった。
 之博はスマートフォンを取り出すと、久しく連絡を取っていなかったある人物に電話をかけた。
 チャネル2の誕生以降、それが日本のインターネット文化の中心と言えるほどの人気を博するようになるまでの間に、様々な背景を持つ人々が運営に直接的間接的に関わってきた。彼らはまさに有象無象、日本政府系の独立行政法人の関係者だったり、反社会的勢力のフロント企業の管理職だったりしたし、世界経済において一定の影響力を持つ会社がこっそり非公式な業務提携を持ち掛けてきたこともあれば、家出同然でやって来たなんの後ろ盾もない若者に仕事を与えてやったこともあった。之博が掘り当てた小さな泉だったチャネル2は、清濁併せ吞む大河となって、その奔流はやがて之博自体をも押し流し、弾き出してしまったのだ。之博が今電話をかけた相手は、そんなチャネル2の成長過程で一時的に手を組んだ連中の一人だった。

「Hello, Jimmy. I’m Yukihiro. Long time no see.」

 相手が出るなりそう名乗ってみると、相手は早口な英語で怒鳴るようにまくしたててきた。

「之博!? てめえよくもぬけぬけと自分の方から俺に連絡してこられたもんだな。それに『チャネル4』に書き込まれた例のアレ、あれはどういう了見だ!?」
「やっぱり、そういう反応になりますよねえ」

 相手の剣幕に動じず、之博はのらりくらりと言う。

「なにを言ってる? いいから金を――」
「いや、貴方たち『三文役者(バッドアクターズ)』がおいらを見つけたら、そういう態度になるのが普通なのに、おかしいなって思って電話したんですよ」
「おかしいって、何がだ」

 ジミー・ワトキンソンという名の電話相手は、日本の裁判所で之博と係争中の事案について何かを追及したいようだったが、『三文役者(バッドアクターズ)』の名を出した途端にこちらの話に乗ってきた。決して愚鈍な男ではないが、意外にもこういった姑息な話題そらしに引っかかりやすい男なのだ。之博が彼に対して過去にもこうやって何度も都合の悪いことから話題をそらし続けてきたからこそ、裁判で係争するまでの事態になっているのだが。

「いやね、前にシリコンバレーの貴方の会社で会った日系人のITエンジニアがいたでしょう? 分散コンピューティングの専門家で日本語ペラペラの。彼を京都で見たんですよ」
「『いたでしょう(ワズ・ゼア)?』って言われてもな。俺が経営にかかわってる会社がいくつあると思ってる。該当する奴が多すぎて誰のことかわからんな」
「そりゃそうか。ま、いいです。とにかくその、貴方の部下がですね。京都のさる寺から出てきた思うとおいらのいる喫茶店に入ってきて、誰かと電話で話してたんですよ。『Qではありませんでした』とかなんとか。おいらがいるのにご丁寧に日本語で」

 之博は『チャネル2』創始者および『チャネル4』現管理人として、顔も名前も比較的知られている。ましてや直接会ったことのある人であれば、みんな『あれが悪名高い東村之博か』と印象深く覚えているはずだ。之博の方が相手の顔を覚えていたのだから、相手の方はなおさら之博の顔を覚えているだろう。

「おいらがいることに気づいていてあえて聴かせた感じでもなかったんですよ。あれは本当においらに気づいていないとしか思えなかった。でも『Q』を追っているっぽいのにおいらに気づかないってあり得ますかね。さっき貴方が言いかけた『チャネル4に書き込まれたアレ』ってのも『Q』のことでしょ?」

 昨年十月二十九日、之博が運営する『チャネル4』の政治関連ボード内のスレッドに『Qクリアランスの愛国者』を名乗る人物による書き込みが投稿され始めた。彼は米国政府の機密文書のうち、最高レベルの『Qクリアランス』の文書にアクセスすることができると主張し、合衆国民主党議員らによる陰謀について投稿を繰り返した。
 『Qクリアランスの愛国者』による書き込みは荒唐無稽な陰謀論の域を出なかったが、トランプを称揚し民主党議員らを糾弾する内容は、いわゆる右派傍流(オルト・ライト)層のトランプ信者の中に彼の書き込みに共感する者たちを生み出した。
 『Qクリアランスの愛国者』の書き込みは不思議の国のアリスや白雪姫などを題材にした隠喩が含まれているものもあったり、問いかけのみで答えを示さないものもあった。そういった曖昧な発言を『パンくず(クラム)』として、それを解釈し膨らませる『パン職人(ベイカー)』と呼ばれる支持者たちが現れ、『パン職人』による解釈がまた一部の右派傍流の共感を呼び、『Qアノン』と呼ばれる無視できない規模のムーヴメントを生み出した。
 今年の六月、ネバダ州で武装した男がフーバーダムへの道路の交通を九十分に渡り封鎖する事件が起こった。男が事件を起こした目的は、先の米大統領選における民主党候補者の私的メール問題に関するアメリカ法務省検査官局のレポートを公開せよと政府に要求することだった。レポートは前日に公開されていたが、Qアノンはそのレポートが改竄されたものだと信じていたのである。
 『Qクリアランスの愛国者』は現在、之博が関わっていない別の掲示板『チャネル8』に活動の場を移しているが、発端がチャネル4であり、之博がその頃からチャネル4の管理人であったことは事実である。関連があると思われても不思議ではない。

「ああそうだ。お前、『Q』の正体を知ってるなら――」
「アグラファってなんです?」

 ジミーの言葉を遮るように之博が質問すると、ジミーはまたしても口をつぐんだ。本当に、この人の詰問の矛先をそらすのは簡単だから助かるな。と之博は思った。

「貴方の部下の人がその言葉も言ってたんですよ。おいらもQアノンに詳しいわけじゃないですが、Qアノン周りでアグラファって言葉は聞いたことがない。一体彼は、何を追ってるんです?」

 ジミーはしばらくの間沈黙して、それから静かに言った。

「――俺の会社で働いてるやつの大半は一時的に俺の下に組み込まれてるだけで、俺の部下じゃない」
「そうですか。でも貴方もアグラファって言葉には心当たりがありそうですね。彼が京都の寺でなにを探していたのか、知ってるんじゃないですか?」

 ジミーはまたしばらく押し黙って、それから心底嫌そうな声で答えた。

「なんとなく想像はつくが俺はまったく関わってないし、お前にはもっと関わりのないことだ。つまらん詮索をしている暇があるなら裁判に出廷しろ。もう切るぞ。次は法廷で会おう」

 之博はスマホを耳から外すと、画面に表示された『通話終了』の表示をぼんやりと眺めながら、小さくつぶやいた。

「やっぱり、QのことはQに訊くのが一番ですかね」
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