世尊布施論

文字数 2,609文字

 客間へ通した外尾と名乗る男と蓮覺にお茶を出すと、葵は退室して静かに客間の襖を閉めた。
 だがどうしても話の内容が気になる。聞いたことのないその論書が、大学の研究者の研究対象となるような貴重な本なのだろうか。葵は、廊下を挟んですぐ向かいの襖を開けた。
 戸を開けた先には二十畳敷のだだっ広い空間が広がっている。すぐ右には二畳ほどの広さの一段高くなったスペースがあり、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊が祀られている。
 襖を開けたまま入り口の近くに居れば、客間の会話は十分に聞こえてくる。葵はちょうど段になっている部分、勢至菩薩坐像の膝の横辺りに腰かけようとして、さすがに不敬だと思い直して段の下の畳に体育座りをした。

「私も寺の蔵書を一切合財ぜんぶ把握しとるわけやないですよって、その、なんとかいう本があるかないかは即答できかねますねんけど、その本は一体何なんでっか」

 蓮覺の声だ。長年嗜んできた酒、もとい般若湯のせいで少しかすれたその声は、念仏を唱える時などはかえって味のある良い響きに聴こえるのだが、今は彼の口からは念仏ではなく、相手の真意を探るための方便が紡がれていた。
 少し時間を置いて、外尾と名乗る男の声が答える。

「わたくし畿内大学の黒澤先生の元で、主に中国の唐時代の文献について研究しております。『世尊布施論』は唐時代に中国で流行したキリスト教の一派、いわゆる『景教』の経典です」

 意外な話に、葵は思わず身を乗り出した。唐時代のキリスト教の経典とは。でも、だとしたらなぜ――

「なんで、そないなもんがうちの寺にあると思うんや」

 葵の思いを代弁するかのように、蓮覺は問いかけた。おそらく過去にも来たらしい同種の手合いにも彼は同じ質問をしたのだろうと葵は思う。

「なぜこの寺にあるのか、その点についてはわたくしは存じませんし、興味もございません。宗教学や思想史が専門の研究者ならば、浄土真宗の思想に景教が影響を与えたかどうかを研究したがるでしょうが、世尊布施論がいつ誰によってこの寺にもたらされたのか、この寺に来る前はどこにあったのか、本願寺派の歴史に名を残しているような高僧達の中にこの本を読んだ人はいるのか、なんてことは分かりっこないですし、それが分からない以上は影響なんて調べようもありません。ましてやわたくしは文献学者です。宗教史の系譜は専門外だ。単に景教の文献を探していたら、ある本にこの寺が世尊布施論を所蔵していると書いてあるのを見つけただけでして」

 男は一旦言葉を切った。かすかに茶をすする音が聞こえる。

「わたくしが興味を持っているのは、あくまでその本の内容、つまり文面です。世尊布施論が他の場所にもあるならそちらに行っても良かったんですが、いくら中国の文献を研究しているといっても本ひとつ見せてもらうためだけにその都度中国へ渡航する予算はありませんし、景教の文献は中国にもあまり残ってないんですよ。お坊さんの方が詳しいかもしれませんが『会昌の廃仏』は仏教のみならず、景教も弾圧しましたからね」

 蓮覺が警戒していた理由が分かった気がした。彼はこの寺にキリスト教の経典があるという事実を拡大解釈して浄土真宗とキリスト教の関係について自分に都合のよい理論を書き立てるような輩を警戒していたのだ。
 そもそも浄土真宗はキリスト教、とりわけプロテスタントと似ている面があるのだと、以前僧の一人から教えられたことを葵は思い出した。プロテスタントはカトリックと比べて、人は行為によってではなく信仰によって義(正しい)とされるという、パウロのいう『信仰義認』の考えが強い。それが阿弥陀如来による救済を信じて祈ることこそ正行(しょうぎょう)であるとする浄土真宗の教えと通ずる物があるというのである。ましてや浄土真宗の寺からキリスト教の一派の聖典が見つかったりしたら、学術的厳密性などお構いなしに興味本位で詮索するのが好きな連中が憶測に満ちた言説を吹聴しかねない。

「なるほど話はわかったわ。うちの書院に納められてるとしたら目録に載ってるはずですよって、すぐに調べられます。ちょお待っとってください」

 外尾がそういう類の人物でないことが分かって安心したのか、蓮覺は今までより少し明るいトーンの声でそういうと、書院へ向かうため立ち上がった。葵は盗み聞きしていたことがバレないようにそっと戸を閉める。
 退室した蓮覺が戻ってきたのは、別棟になっている書院で探しものをしてきたにしては早かった。「ありましたわ。まさかこないな本がうちにあるやなんて」などと白々しいことを言っているが、もちろん彼はそれがあることを知っていたのだ。ないのならば外尾の腹の中を探るような真似をしなくても、最初から「ありません」と言って追い返せばいいだけなのだ。

「あの、世尊布施論が見つかったなら更にもう一つお願いがあるのですが、こちらの文面を写真撮影させていただけないでしょうか」

 外尾が遠慮がちに言う。彼の言い分では、世尊布施論の内容について、この場で自分が目視で確認するだけでなく、大学の黒澤研究室で教授や他の研究者と検討したいのだそうだ。内容さえ分かればいいのでデジタルデータや活字に起こしたもの、あるいは大学にお貸しいただける写本などがあればそれでもいいのだが、今まで所蔵していることすら把握されていなかったのであればそのようなものがあるとは考えにくいし、もしあるとしてもできることならなるべく原本の撮影をしたいという。

「活字や写本ですと原本の書き損じや修正などが分からないですし、デジタルデータも本当にその本をスキャンしたものか確証が持てません。わたくしは文献学者として古文献を撮影させていただく機会はこれまで何度もありましたが、その都度、原本を傷めないように細心の注意を払ってまいりました。今回も絶対に傷や折り目をつけたり、強い光で紙にダメージを与えるようなことはいたしません。どうかお願いできないでしょうか」

 蓮覺はしばらく逡巡するような「ぬ――ん」という唸り声を発した後、決断して言った。

「ええやろ。うちで蔵書の管理をしとる者の立ち合いの元ちゅう条件つきで、写真撮影してもろてもええで」

 男は、感激したように何度も「ありがとうございます」と繰り返した。
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