葵と蘭

文字数 3,522文字

 境内の掃除を終えた葵は、寺の真向かいに店を構える喫茶店で冷えた体にコーヒーを補給していた。
 家まで五分とかからないのだし家まで我慢したほうが安上がりなのだが、今はお小遣いをもらったばかりで懐に余裕もあることだし、たまには贅沢もいいだろう。
 京都の町並みに溶け込むよう外観は古い木造の日本家屋を模しているが、中に入れば全国に支店のある大手チェーンの喫茶店だ。入ってすぐの場所に注文を受けるカウンターがあり、その向かいの壁沿いに細長いバーカウンターのようなテーブルがあり、そこに一本足の背の高いスツールが九つ設置されている。店の奥の方には四人がけの席が六つほど、喫煙席の二つと禁煙席の四つに分かれている。そして店の中央あたりには、小さな正方形のテーブルに向かい合わせに簡素な椅子を配置した二人がけの席が十数個用意されていた。
 店は空いていたがカウンター席はきれいに一つ置きに五人の客が使用中で、空いている席はどれに座っても両脇を見知らぬ他人に挟まれることになる。どうせ二人席にほとんど人がいないのだからと、葵は二人席の一つに腰掛けた。
 ブレンドコーヒーにミルクと砂糖を溶かして少しずつ啜っていると、凍っていた体が少しずつ解けていくような心地がする。やっぱり家まで我慢しなくて正解だ。ここでこうやって回復しなくては、家までのわずかな道程も踏破できそうにない。
 湯気を立てるコーヒーカップをぼんやり見つめながら至福の時間を噛みしめていると、自動ドアが開いて男が一人入ってきた。
 三十代くらいのベージュのコートの男。間違いない。外尾と名乗っていたあの男だ。世尊布施論とやらの撮影は終わったのだろうか。
 男はカウンターでサンドウィッチと紅茶を注文すると、空いているのを良いことに店の一番奥まったところにある四人席を一人で占領した。そこは喫煙席だが煙草を吸う様子はなく、胸ポケットからスマートフォンを取り出して少し操作し、それを耳に当てながらサンドウィッチを一口齧った。
 ややあって電話の相手が出たらしく、男は電話に向かって話し始める。

「はい。本の画像は入手しました。データはいつもの方法で送ります。ええ、『Q』ではありませんでした。漢文の読解は不得手なんですが、俺でも読める部分だけからでも『Q』ではないことは明らかです。アグラファが含まれているかどうかは俺じゃ判断できませんので、データが届き次第ご自分でお読みになってください」

 男は手短に電話を終えると、サンドウィッチを紅茶で流し込むように腹に納めると、カップと皿の載ったトレイをカウンターに返してさっさと店を出た。

(……あの人、たぶん文献学者だっていうの嘘だ)

 思わず耳をそばだててしまっていた葵はそう思った。男が寺で蓮覺に語ったとおり、主に唐時代の文献を研究している学者であるならば、漢文の読解が不得手なはずはない。『ご自分でお読みになってください』という言い方も変だ。まるで自分は本の写真を撮った時点で任務完了で、それ以降はすべて電話相手に任せるかのようなニュアンスに聞こえる。男が畿内大学の研究者なのであれば、撮った画像は男にとっても研究対象のはずだ。それだったら、例え男と電話相手とで全く別の目的であの本を研究するのだとしても――例えば、電話相手が畿内大学の研究員ではなく、前もって本のデータを提供することを約束してあった外部の研究者だったりしたら研究テーマは異なるだろう――そうだったとしても、あんな風に後はあなた達に任せますみたいな言い方にはならないだろう。

(Qってなんだろう?)

 男が身分を偽っていたとなると、俄然興味が湧いてくる。そうまでして彼は、何の目的で世尊布施論を撮影したのだろう。理由は分からないが、身分を詐称するような奴のすることだ。何か寺にとって不利益になるようなことを企んでいる可能性は充分ある。
 葵は、この件について少し調べてみようと決意した。幸い、調べ物をするときに非常に頼りになる人物について、心当たりがある。

 *

 翌日。
 葵は土曜日の午前中を有意義にダラダラと過ごした。女子高生は忙しいのだ。ダラダラできる時間は限られているのだからそういう貴重な機会には是非ともダラダラすべきだ。志望大学への推薦はもらえたので勉学に割かなければいけない時間が減ったからようやく、土日はそれぞれ数時間ずつ程度のダラダラ時間を得ることができるようになったのだ。高二の夏あたりから推薦が決まるまでの間はダラダラできる時間なんてほとんどなかった。ダラダラできるときにはダラダラすることこそ、最も有意義な時間の使い方だと葵は思う。
 それに、世尊布施論について色々と訊ねようと思っている人物は夜型のライフサイクルを愛しているから、午前中に会いに行っても寝ているだろう。だから調べ物は午後にして、午前中は目一杯ダラダラするのだ。

「というわけで、私は目一杯ダラダラしたあとで、お母さんが作ってくれたお昼ご飯を食べてからここへやって来たってワケよ」
「暇そうで羨ましいなあ君は」

 肩までの黒髪を後ろで無造作に一つに束ねた化粧っ気のない女性が、細い銀縁の丸眼鏡の位置を微調整しながら葵に呆れたような視線を向ける。彼女は羽鳥蘭二十八歳。学術論文ブロックチェーン『Scholar』の運営者の一人である。
 『Scholar』はビットコインなどに使われているブロックチェーン技術を論文の公開・査読・評価に応用したものだ。論文やそれに対するコメント、反論、質疑応答の類を投稿することができるサービスである。投稿者は投稿の際、Scholarシステムが発行する『チケット』を消費しなければならない。Scholarシステムを構成するP2Pノードは世界中のユーザたちによる無数の投稿が正しくチケットを支払って投稿されたものかをチェックし、正当な投稿を複数まとめてブロックを作りブロックチェーンに追加する。追加される順番は順不同であり投稿はブロックチェーンへ追加されるまで他ユーザに公開されない。これは投稿がリアルタイムで反映されると『チャット化』してしまい、感情に任せて内容の薄い反論の応酬が展開されてしまうことを防ぐためだ。Scholarのブロック生成間隔は約一時間であり、投稿量が増えても三十分より短い間隔になることはない。ユーザにはその間に自分の投稿したい内容が、限りある自分の所持チケットを消費するに足る内容かを冷静に考えることができ、それが投稿の質向上につながる。
 チケットは仮想通貨ブロックチェーンにおけるトークンと類似するものだが、これを現金や仮想通貨で買うことはできない。他ユーザの投稿を査読した報酬としてのみ得ることができる。論文やコメントについて、統計データの検定方法が妥当であるかとか、実験結果から導き出された結論に論理の飛躍がないかなど様々な基準で評価をすることで、報酬としてチケットが発行される。他者によって高く評価された投稿に対しては、消費されたチケットの一部が返還される。
 ブロックチェーンにブロックを追加していくP2Pノードの所有者は、ブロック追加の報酬として『評価ポイント』を得る。仮想通貨におけるマイニング報酬に相当するものだが換金することはできない。ノード所有者はこのポイントを、投稿者・査読者として質が高いユーザに対して、その質に比例して付与する。ノード所有者から付与された評価ポイントが高いユーザほど、投稿時の消費チケット数は少なくなり、他者投稿を評価した際の報酬チケットは多くもらえるようになる。以上のような仕組みで、既存の科学雑誌のように出版社の独断で掲載する論文を決めるのではない非中央集権的な論文発表の場を提供するのが『Scholar』である。
 蘭はそのScholarのP2Pノード所有者の一人であり、システムの開発者の一人でもある。それだけでなくScholarが扱うほとんどの分野の投稿に目を通して評価ポイントの付与を行っている。ノード所有者はIT技術者が多いため情報技術や計算機学、数学や暗号学といった分野の投稿ならば多くのノード所有者がポイント付与を行えるが、文系分野などを評価できるノード所有者は貴重であり、そのため蘭はScholarの開発運営コミュニティ内での重要人物と目されていた。
 幅広い学術分野の投稿を評価できるということは、すなわちそれだけ様々なジャンルの知識を持つということで……。
 今回のような、専門的な知識を要しそうな調べ物をする際にはこれ以上ない相談相手と言えた。
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