第1話

文字数 2,036文字

近江屋洋菓子店の前を通ったら、大きなガラス戸の入り口に雷の形の紙垂が飾られていた。そういえば、町のあちこちに白くひらひらしている。洗濯した直後の白シャツみたいに真っ白な紙垂効果で、いつもの町が浄化され引き締まって見えて、ああ、祭りが近いんだなぁと感じる。
祭りを迎える時っていうのは、何度やっていてもものすごいワクワクする気持ちらしい、祭り好きな人にとっては、例えば僕の父さん。昨日の夜も祭りの打ち合わせと言って出かけた。けど、打ち合わせ、っていうのがもう嘘くさい。僕から見ると父さんに限らず、祭り好きな人っていうのは祭りそのものよりもそれにかこつけた飲み会が好きなんだ。それはもう、好きというより病気に近い。飲み会は祭りの前は打ち合わせ、終わってからも反省会、そして鉢洗いとか直会とか呼び名が変わっているだけで実際はただの飲み会が延々と続く。その度に嬉々として出かけるのはいいけど、帰って来るととにかく酒臭い。母さんはもう言っても無駄だと諦めているようだけど、翌朝は早くから家中の窓を開けて換気して無言の怒りを表明している。
祭りが近づくとあの酒臭い日々がまた始まるのかと思うとゲンナリするし、自分自身は今、学校とかクラブチームのサッカーで忙しいし、まあたとえそれがなくても興味がないから今度の祭りも参加するつもりはないんだけど、でも、祭りが近づく時の町全体の弾んだような高揚感と、それに対して紙垂の白さが静かな緊張感を与えている相反した空気に自然と胸の高鳴りを感じる自分にはやはり祭りのDNAが息づいているのだろうか、だとしたらいつの日か祭りに開眼する時が来るのだろうか、いやだなぁ、、なんて考えながらサッカー帰りの道を歩いていたら
「コシタロウ、今帰りか?」
と丸木さんに声をかけられた。丸木さんは今はもう引退したけれど、長くこの町で町会長を努めてくれた人で今は子ども会の会長さんを引き受けてくれている。僕は幼稚園の頃からサッカーをやっているから、小学校の頃も放課後はクラブチームの練習で、子ども会では丸木さんと直接の関わりはないけど父さんもおじいちゃんも元々地元だし、祭りもあるおかげで都会の真ん中なのに今時には珍しく近所の人との交流もある地域だから丸木さんは親戚のおじさんみたいなポジション。
地元の人に祭りといえば一番に誰を思い出す?と聞いたらおそらく全員が「丸木さん」と答えるであろう、ミスター祭りな人でもある。丸木さんが祭りの話を始めたら、2時間は覚悟しないと、って父さんも言っている。祭り愛もすごいけど、丸木さんは全てにおいての愛が強い人なので人望が厚い。下町特有の口の悪さはあるんだけどカラッとしているし(それを江戸っ子気質と言うらしい)、根っこの部分に愛があるから、嫌な気持ちにならない。名前の通り、丸くて色白で雪見だいふくのように福々しい。
「はい、今帰りです」
「サッカー毎日か、熱心だな」
「はい。丸木さんは祭りの準備で忙しいですか?」
小さい頃は丸木さんにもっと馴れ馴れしい言葉で話していたけど、スポーツをやっていてある程度の年齢になると目上の人には自然と敬語が出てしまう。
「おうよ、色々大変だよ。コシタロウは祭りの日もサッカーか?」
大変だ、と言いながらちっとも大変そうじゃなく楽しそうなんだが。
「はい、試合も近いんで」
「そっか、頑張れよ」
丸木さんのいいところは、気持ちでも行動でも、決して人に強制しないこと。母さんが前に丸木さんと話してひどく感銘を受けたことがあって、子どもに今日は楽しかった?と聞くな、っていうこと話だったらしいが、なぜかと言えば子どもは子どもの世界で精一杯頑張っているのだから色々と詮索するな、という意味と楽しかったかと聞かれたら、そうでなくても親を安心させるために楽しかった、と答えてしまうこともあるから、そういうことは聞くもんじゃない、って言っていたと。
そして母さんは「そうは言っても、つい聞いちゃうんだけどねー。ごはん美味しい?って聞くのも、美味しいって答えを期待しているからって気がする」と言っていたけど、確かに質問することの答えで自分を肯定してもらいたい、という気持ちは人間大なり小なり働くものではないか、それをわかっているから丸木さんは相手の負担になることをしないんだ。
ふと、そんな丸木さんももうちょっと若い頃はうちの父さんみたいに祭り前後は呑んだくれていたのだろうか?なんて、でもそんなことは聞けないから
「祭りってそんなにいいものなんですかね?」
って言葉を出してから、しまった、丸木さんにとってのパワーワード・『祭り』を出してしまったと気がついた。雪見だいふくが破顔一笑、
「神輿が笑う瞬間を見たくてね」
は???
祭りを愛しすぎてついに祭り脳でおかしくなってしまったのか???
どうリアクションしていいのかわからず固まってしまった僕に
「もし神輿が笑う話を聞きたけりゃ、また今度話してやるよ、ガハハ」
と笑いながら言って去って行った。




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