第26話 インダイレクト・アクセス
文字数 2,631文字
すっきり晴れた週明けの朝。昨夜遅くにノルウェーから帰国したにも関わらず、来さんは定時に事務所で仕事を始めていた。
視矢くんの方はいつものごとく、まだ起きていない。
「小夜、あなたへの土産だ」
「有難う。でも、これ何?」
「ヤギのチーズ」
来さんが、私にバターのような四角い箱を手渡してくれた。日本のスーパーでは見掛けないキャラメル色のブラウンチーズで、味も甘いのだとか。ランチにいただこうかなと考えながら、二人分のお茶を淹れる。
ノルウェーでの二日間、来さんたちはずっとTFCの施設内で過ごし、自由な行動が制限されていたという。それでも同行した主任の計らいで、帰国の直前に街で買い物をする時間がわずかに取れたらしい。
TFCの上層の人たちにあまりいい印象は持てなかったけど、主任は私たちの味方でいてくれるような気がした。
「留守中、変わった事は?」
「特にないよ。ソウさんが来たぐらい」
「……ソウが来たって?」
来さんに報告していると、不機嫌な声とともに、遅刻魔のもう一人の社員の部屋のドアが大きく開いた。
さすがに着替えは済ませていたものの、もともと癖のある茶髪は寝癖で跳ね、起きたばかりという顔だ。
「あの野郎。俺たちいない時狙って、何か企んでんじゃねえの」
視矢くんは毒づきながら洗面所へ向かった。顔を洗ってもまだ眠そうで、何度も欠伸をして目をこすっている。
「あー、もう時差ボケで眠ぃ」
「シヤはいつもボケてるんだから、同じでしょ」
来さんと入れ替わったナイが辛辣な言葉を投げた。
事務所の何もかもが漆戸良公園の一件が起こる前と同じで、時間が巻き戻ったような感じがする。決して元通りにはならないと分かっているのに。
「ボケてて悪かったな。こっちはお前と違って、デリケートなの」
「よく言うよ。飛行機でグーグー寝てたくせにさ」
「寝足りねえ」
前髪をかき上げ、視矢くんは上着を引っ掛けて木刀を手にした。
鬼門は閉じ、瘴気の流出は収まった。現在事態は落ち着いて、警戒が必要な区域はない。もう急いで出掛ける必要はないはずでも、早くも外回りに行こうとしている。
「朝ごはん、ちゃんと食べないとダメだよ」
「コンビニで何か買って外で食う」
玄関へ向かいつつ、手だけひらひらと振る。なんとなく、意識的に私から目を逸らしているように感じられた。
「外で寝るつもりでしょ。小夜、一緒に行って、シヤがサボらないか見張ってて」
「うん! 分かった」
ナイに背を押され、私はすぐさまコートに腕を通す。視矢くんはぎょっとしていたが、話す機会を作ってもらえたのは有難い。
心の中でお礼を伝えると、ナイは不本意だけど、と言わんばかりに大きく溜息を吐いた。
戸惑う視矢くんを引っ張ってマンションを出れば、外は久しぶりに冬の日差しが降り注いでいた。穏やかで風もないため、日の当たる場所ならわりと暖かい。
「晴れて良かったね」
「そうだな」
視矢くんに会話を振っても、やはりこちらを見なかった。避けられてるわけではなさそうなので、あえて突っ込んでは聞けない。
途中のコンビニでサンドイッチとホットココアを買った後、向かった先は漆戸良公園。瘴気が浄化された公園は、以前と同じ美しい景観を取り戻している。
私たちは、木漏れ日が心地良い場所を見つけてベンチに腰を下ろした。
フルーツサンドを頬張る彼の横顔をちらちら窺う私に、視矢くんは別のサンドイッチを差し出す。
「欲しかったら、やるよ」
「ち、違うってば!」
もしかして、物欲しそうに見えたんだろうか。慌てて否定し、大きく深呼吸する。ここできちんと話さないと、心の距離は離れたままになってしまう。
私は意を決して、体ごと向きを変えて真面目な表情で告げた。
「あのね、ソウさんが言ってた。破魔の力で、視矢くんを元の体に戻せるかもしれない、って」
「へえ」
「嬉しくないの?」
「嬉しい。あいつが言ったんじゃなけりゃな」
もっと喜ぶかと思ったのに、視矢くんの反応は素っ気ない。ソウさんの言うことは当てにならないと、ばっさり切り捨てる。どうしてそこまで懐疑的になるのか、首を傾げたくなった。
ソウさんの内面は優しく、とても悲しい。鬼門を閉じる際に、私は彼の記憶の一部に触れた。でもここでそんな風に弁護しては、視矢くんは余計意地になるに違いない。
「私、破魔の力の訓練を続けるよ。だから、絶対事務所は辞めない」
きっぱり告げた時、ようやく視矢くんと視線が交わった。呆気に取られて見開いた瞳に私が映っている。
私のことを思って離れようとしているのだとしても、私は離れたくない。一緒にいて、できる範囲でサポートしたい。そのために、頑張って破魔の力を鍛えるから。
「破魔の力を強めて、それで……」
「そっか。んじゃ、ほら」
必死に訴えていると、不意に食べかけのサンドイッチが口の前に突き付けられた。きょとんとする私に、視矢くんはふっと口元を緩めた。
「小夜に触れたくても、できねえし。この程度な」
照れ臭そう指で頬を掻いて、そんな風に言う。以前にもこの公園でホットココアを一緒に飲んだ。あの時はビヤを呼ぶためと言われたけど、これはちゃんと間接キス。
私との距離を、視矢くんからちょっとだけ詰めてくれた。そのことがひどく嬉しい。
近付けられたフルーツサンドを、私はそのままぱくりと食べた。甘いクリームとやや酸味のあるオレンジと白桃のしゃきしゃき感が口中に広がる。
「わ、美味しい」
「好きなだけどーぞ」
サンドイッチを持つ彼の手を自分の方へ引き寄せ、もう一口だけもらう。視矢くんの朝食なのだから、奪ってしまっても悪い。
「なんか、雛鳥に餌付けしてる気分」
「そっちから始めたくせに」
誰かに見られていれば、恥ずかしくて顔から火が出ただろう。幸い周囲に人影はなく、もっと甘えていたい気持ちを押し殺し、私は体を離した。
いつまで、こんな平和な日常を送れるか予測がつかない。やがてソウさんが予言した嵐が来たら、視矢くんや来さんはどんな影響を受け、人間はどうなるのか。
私は綺麗に晴れ渡った空を眺め、混沌とした先行きに思いを巡らせた。
「嵐なんて、来て欲しくないな」
「雨も降りゃしねえよ。大丈夫」
私の呟きを、天気の話だと受け取ったゆえの、視矢くんの「大丈夫」という返事。けれどその言葉が、私の心を元気づけてくれる。
未来に何が起こっても、きっと立ち向かって行ける。
彼の笑顔を見つめ、私も「うん」と笑みを返した。
―水編 完―
視矢くんの方はいつものごとく、まだ起きていない。
「小夜、あなたへの土産だ」
「有難う。でも、これ何?」
「ヤギのチーズ」
来さんが、私にバターのような四角い箱を手渡してくれた。日本のスーパーでは見掛けないキャラメル色のブラウンチーズで、味も甘いのだとか。ランチにいただこうかなと考えながら、二人分のお茶を淹れる。
ノルウェーでの二日間、来さんたちはずっとTFCの施設内で過ごし、自由な行動が制限されていたという。それでも同行した主任の計らいで、帰国の直前に街で買い物をする時間がわずかに取れたらしい。
TFCの上層の人たちにあまりいい印象は持てなかったけど、主任は私たちの味方でいてくれるような気がした。
「留守中、変わった事は?」
「特にないよ。ソウさんが来たぐらい」
「……ソウが来たって?」
来さんに報告していると、不機嫌な声とともに、遅刻魔のもう一人の社員の部屋のドアが大きく開いた。
さすがに着替えは済ませていたものの、もともと癖のある茶髪は寝癖で跳ね、起きたばかりという顔だ。
「あの野郎。俺たちいない時狙って、何か企んでんじゃねえの」
視矢くんは毒づきながら洗面所へ向かった。顔を洗ってもまだ眠そうで、何度も欠伸をして目をこすっている。
「あー、もう時差ボケで眠ぃ」
「シヤはいつもボケてるんだから、同じでしょ」
来さんと入れ替わったナイが辛辣な言葉を投げた。
事務所の何もかもが漆戸良公園の一件が起こる前と同じで、時間が巻き戻ったような感じがする。決して元通りにはならないと分かっているのに。
「ボケてて悪かったな。こっちはお前と違って、デリケートなの」
「よく言うよ。飛行機でグーグー寝てたくせにさ」
「寝足りねえ」
前髪をかき上げ、視矢くんは上着を引っ掛けて木刀を手にした。
鬼門は閉じ、瘴気の流出は収まった。現在事態は落ち着いて、警戒が必要な区域はない。もう急いで出掛ける必要はないはずでも、早くも外回りに行こうとしている。
「朝ごはん、ちゃんと食べないとダメだよ」
「コンビニで何か買って外で食う」
玄関へ向かいつつ、手だけひらひらと振る。なんとなく、意識的に私から目を逸らしているように感じられた。
「外で寝るつもりでしょ。小夜、一緒に行って、シヤがサボらないか見張ってて」
「うん! 分かった」
ナイに背を押され、私はすぐさまコートに腕を通す。視矢くんはぎょっとしていたが、話す機会を作ってもらえたのは有難い。
心の中でお礼を伝えると、ナイは不本意だけど、と言わんばかりに大きく溜息を吐いた。
戸惑う視矢くんを引っ張ってマンションを出れば、外は久しぶりに冬の日差しが降り注いでいた。穏やかで風もないため、日の当たる場所ならわりと暖かい。
「晴れて良かったね」
「そうだな」
視矢くんに会話を振っても、やはりこちらを見なかった。避けられてるわけではなさそうなので、あえて突っ込んでは聞けない。
途中のコンビニでサンドイッチとホットココアを買った後、向かった先は漆戸良公園。瘴気が浄化された公園は、以前と同じ美しい景観を取り戻している。
私たちは、木漏れ日が心地良い場所を見つけてベンチに腰を下ろした。
フルーツサンドを頬張る彼の横顔をちらちら窺う私に、視矢くんは別のサンドイッチを差し出す。
「欲しかったら、やるよ」
「ち、違うってば!」
もしかして、物欲しそうに見えたんだろうか。慌てて否定し、大きく深呼吸する。ここできちんと話さないと、心の距離は離れたままになってしまう。
私は意を決して、体ごと向きを変えて真面目な表情で告げた。
「あのね、ソウさんが言ってた。破魔の力で、視矢くんを元の体に戻せるかもしれない、って」
「へえ」
「嬉しくないの?」
「嬉しい。あいつが言ったんじゃなけりゃな」
もっと喜ぶかと思ったのに、視矢くんの反応は素っ気ない。ソウさんの言うことは当てにならないと、ばっさり切り捨てる。どうしてそこまで懐疑的になるのか、首を傾げたくなった。
ソウさんの内面は優しく、とても悲しい。鬼門を閉じる際に、私は彼の記憶の一部に触れた。でもここでそんな風に弁護しては、視矢くんは余計意地になるに違いない。
「私、破魔の力の訓練を続けるよ。だから、絶対事務所は辞めない」
きっぱり告げた時、ようやく視矢くんと視線が交わった。呆気に取られて見開いた瞳に私が映っている。
私のことを思って離れようとしているのだとしても、私は離れたくない。一緒にいて、できる範囲でサポートしたい。そのために、頑張って破魔の力を鍛えるから。
「破魔の力を強めて、それで……」
「そっか。んじゃ、ほら」
必死に訴えていると、不意に食べかけのサンドイッチが口の前に突き付けられた。きょとんとする私に、視矢くんはふっと口元を緩めた。
「小夜に触れたくても、できねえし。この程度な」
照れ臭そう指で頬を掻いて、そんな風に言う。以前にもこの公園でホットココアを一緒に飲んだ。あの時はビヤを呼ぶためと言われたけど、これはちゃんと間接キス。
私との距離を、視矢くんからちょっとだけ詰めてくれた。そのことがひどく嬉しい。
近付けられたフルーツサンドを、私はそのままぱくりと食べた。甘いクリームとやや酸味のあるオレンジと白桃のしゃきしゃき感が口中に広がる。
「わ、美味しい」
「好きなだけどーぞ」
サンドイッチを持つ彼の手を自分の方へ引き寄せ、もう一口だけもらう。視矢くんの朝食なのだから、奪ってしまっても悪い。
「なんか、雛鳥に餌付けしてる気分」
「そっちから始めたくせに」
誰かに見られていれば、恥ずかしくて顔から火が出ただろう。幸い周囲に人影はなく、もっと甘えていたい気持ちを押し殺し、私は体を離した。
いつまで、こんな平和な日常を送れるか予測がつかない。やがてソウさんが予言した嵐が来たら、視矢くんや来さんはどんな影響を受け、人間はどうなるのか。
私は綺麗に晴れ渡った空を眺め、混沌とした先行きに思いを巡らせた。
「嵐なんて、来て欲しくないな」
「雨も降りゃしねえよ。大丈夫」
私の呟きを、天気の話だと受け取ったゆえの、視矢くんの「大丈夫」という返事。けれどその言葉が、私の心を元気づけてくれる。
未来に何が起こっても、きっと立ち向かって行ける。
彼の笑顔を見つめ、私も「うん」と笑みを返した。
―水編 完―