第5話 ときめきの日常
文字数 2,389文字
風はなく穏やかに晴れていても、公園のベンチにじっと座っているとだんだん寒さが増してくる。
しばらくしてココアの空き缶を回収ボックスに入れ、視矢くんが木刀を持って立ち上がった。
「さて。んじゃ、もっと公園内を見て回りますか。せっかくのデートだし」
「デートじゃなくて、仕事だよ」
冗談が言えるぐらいには回復した様子を見て、ほっと安心する。さっきより顔色は随分いい。詳細な指示はメールで伝えるとソウさんが言っていたので、明日から事務所は本格的に忙しくなるだろう。
「他の警戒場所には行かなくていいの?」
「今からじゃ、他所回るのは時間的に無理。それが分かってて、来は門限付けたんだよ。つまり、ここでゆっくりしていいってこと」
視矢くんは腕時計を示して見せた。そうなの、と聞き返せば、そうそう、と返される。どこまで本当か疑わしいものの、仕事の段取りは口出しできない。本音を言うなら、私ももう少しこの公園を一緒に歩いていたかった。
「この公園ね、土日はクレープの移動販売車とかもよく来るんだ」
緑地公園を訪れるのは、家族連れや恋人同士が多い。漆戸良公園の遊歩道を一緒に歩いた男女は結ばれる、なんて噂話もある。今も私たちの前方を、高校生のカップルが甘い雰囲気で腕を組んで歩いていた。
誰に憚ることもない二人が、なんだか羨ましい。視矢くんの腕はすぐ横にあるのに、手を伸ばすことができず、私は胸の前できゅっと自分の両手を握る。
「やっぱ、やばいのは、あの湖辺りだな」
「視矢くんの体調のこと?」
「いや、従者の話」
木刀で肩をとんとん叩きながら、視矢くんは世間話のように軽い口調で言った。
「いたの、従者!?」
「あ、分かんなかったか。気配ビンビンだったぞ」
私が愕然とする一方で、そんな重大事項を平然と告げる。倒れそうだったあの状況で、複数の従者の気を感じ取っていたなんて。
「まあまあ。しょげるなって。ソウが結界張ってっから、瘴気は掴めなかったろ」
気付かなくて当然、と励ましてくれるけど、いくら結界で囲まれていたからといって、全然見抜けなかった自分の力不足を痛感する。私が持っているらしい破魔の力は、差し迫った状況以外ではあまり役に立たない。力を使えるようになりたいと訴えたくせに、こんな調子では呆れられてしまう。
「湖の近くには人がいたけど……大丈夫なの?」
「結界は万全。従者は、こっち側には出て来れねえよ」
気を取り直して尋ねれば、視矢くんは前を向いたままぼそりと答えた。ソウさんの力はTFCでも群を抜く。策士だとして毛嫌いつつも、ちゃんと実力は認めていることが口振りから窺えた。
「それよか、なんでずっとそっち側歩いてんだ」
「え?」
唐突に視矢くんが腕を取り、右側にいた私を左側へ回らせた。車の通らない遊歩道は、左右どちら側を歩いても同じ。意味を測りかねてきょとんとしていると、左腕をくいと振って示す。
「小夜がこっちじゃねえと、腕組めねえの」
そう言って、手を通しやすいように肘を体から少し離し隙間を開けてくれた。右手には木刀があり、利き腕を塞ぐことはできない。前を歩く年若い恋人たちを指差し、真似しよう、と悪戯を思い付いた子供みたいな笑みを浮かべる。
腕を組むのは、手をつなぐよりワンランク難易度が高い。気恥ずかしさでおずおずと腕を絡めた私に、視矢くんは満足げに頷いた。
やがて日が傾き、公園の木々が影を落とし始めた。そろそろ切り上げて戻らなければ、来さんに決められた門限に間に合わない。
公園を出るまでの間、遊歩道を並んで歩く。たとえ同僚の関係にすぎないとしても、こんな風に過ごせる日常は、大切でかけがえのないものだった。
翌日からの事務所の忙しさは、予想を遥かに上回った。
従者の記憶を消して欲しいと希望する依頼客が次々訪れ、後を絶たない。私は依頼人のアポを取り、事務処理に追われ、来さんはほぼ缶詰状態で記憶消去に取り掛かる。
視矢くんは、毎日警戒区域に足を運び、明るいうちに事務所に戻ってくることはまず不可能。日々忙殺され、ろくに顔を合わせることもなかった。
一週間が過ぎた頃、ようやく来さんの仕事は落ち着いてきたものの、外回り担当の視矢くんは依然事務所を留守にしていた。
「明日から、私も外に出る。依頼があれば、翌日以降にアポを取っておいて欲しい」
疲れた顔で来さんはソファに沈み込む。記憶消去はかなりの力を使う。こう続けざまでは、さすがに限界だろうに。
上を向いて目を掌で覆う来さんに、私は蒸しタオルを手渡し、ホットミルクをテーブルに置いた。
「少し休んだ方がいいよ、来さん」
「問題ない。私は、人間とは違う」
タオルを目に当て、来さんは淡々と答える。来さんとナイは邪神ナイアーラトテップの化身。人とは異なる存在といえど、酷使したら身体がまいってしまう。
来さんは自身の疲労に無自覚で無理をするため、強引に休ませないと倒れかねない。
「私は、来さんは “人間” だと思うよ」
「外見は、そうだ」
前世で、ナイアーラトテップの化身だったシモンはずっと人として暮らしていた。望めば、来さんも人間と同じように歳を重ねていける。たとえば五十年後、今と変わらず二十代の姿でいることも、年相応の外見になることも容易い。ナイアーラトテップはそういう邪神だ。
ナイはともかく、来さんはこの先もシモンのように人の世で生きたいと願っている。だからこそ、余計に人間でないことを強く意識するのかもしれない。
「問題は、子を成せるかどうか分からないこと」
「こ、子って……」
「生物にとって、一番の問題だろう」
真剣な表情で考え込む来さんに、どう返せばいいのか。真顔でいきなりそんな話題を出されたら反応に困る。
経験豊かなナイも試したことは一度もないから、と余分な情報まで付け加えるあたり、来さんの天然はたまにひどくたちが悪かった。
しばらくしてココアの空き缶を回収ボックスに入れ、視矢くんが木刀を持って立ち上がった。
「さて。んじゃ、もっと公園内を見て回りますか。せっかくのデートだし」
「デートじゃなくて、仕事だよ」
冗談が言えるぐらいには回復した様子を見て、ほっと安心する。さっきより顔色は随分いい。詳細な指示はメールで伝えるとソウさんが言っていたので、明日から事務所は本格的に忙しくなるだろう。
「他の警戒場所には行かなくていいの?」
「今からじゃ、他所回るのは時間的に無理。それが分かってて、来は門限付けたんだよ。つまり、ここでゆっくりしていいってこと」
視矢くんは腕時計を示して見せた。そうなの、と聞き返せば、そうそう、と返される。どこまで本当か疑わしいものの、仕事の段取りは口出しできない。本音を言うなら、私ももう少しこの公園を一緒に歩いていたかった。
「この公園ね、土日はクレープの移動販売車とかもよく来るんだ」
緑地公園を訪れるのは、家族連れや恋人同士が多い。漆戸良公園の遊歩道を一緒に歩いた男女は結ばれる、なんて噂話もある。今も私たちの前方を、高校生のカップルが甘い雰囲気で腕を組んで歩いていた。
誰に憚ることもない二人が、なんだか羨ましい。視矢くんの腕はすぐ横にあるのに、手を伸ばすことができず、私は胸の前できゅっと自分の両手を握る。
「やっぱ、やばいのは、あの湖辺りだな」
「視矢くんの体調のこと?」
「いや、従者の話」
木刀で肩をとんとん叩きながら、視矢くんは世間話のように軽い口調で言った。
「いたの、従者!?」
「あ、分かんなかったか。気配ビンビンだったぞ」
私が愕然とする一方で、そんな重大事項を平然と告げる。倒れそうだったあの状況で、複数の従者の気を感じ取っていたなんて。
「まあまあ。しょげるなって。ソウが結界張ってっから、瘴気は掴めなかったろ」
気付かなくて当然、と励ましてくれるけど、いくら結界で囲まれていたからといって、全然見抜けなかった自分の力不足を痛感する。私が持っているらしい破魔の力は、差し迫った状況以外ではあまり役に立たない。力を使えるようになりたいと訴えたくせに、こんな調子では呆れられてしまう。
「湖の近くには人がいたけど……大丈夫なの?」
「結界は万全。従者は、こっち側には出て来れねえよ」
気を取り直して尋ねれば、視矢くんは前を向いたままぼそりと答えた。ソウさんの力はTFCでも群を抜く。策士だとして毛嫌いつつも、ちゃんと実力は認めていることが口振りから窺えた。
「それよか、なんでずっとそっち側歩いてんだ」
「え?」
唐突に視矢くんが腕を取り、右側にいた私を左側へ回らせた。車の通らない遊歩道は、左右どちら側を歩いても同じ。意味を測りかねてきょとんとしていると、左腕をくいと振って示す。
「小夜がこっちじゃねえと、腕組めねえの」
そう言って、手を通しやすいように肘を体から少し離し隙間を開けてくれた。右手には木刀があり、利き腕を塞ぐことはできない。前を歩く年若い恋人たちを指差し、真似しよう、と悪戯を思い付いた子供みたいな笑みを浮かべる。
腕を組むのは、手をつなぐよりワンランク難易度が高い。気恥ずかしさでおずおずと腕を絡めた私に、視矢くんは満足げに頷いた。
やがて日が傾き、公園の木々が影を落とし始めた。そろそろ切り上げて戻らなければ、来さんに決められた門限に間に合わない。
公園を出るまでの間、遊歩道を並んで歩く。たとえ同僚の関係にすぎないとしても、こんな風に過ごせる日常は、大切でかけがえのないものだった。
翌日からの事務所の忙しさは、予想を遥かに上回った。
従者の記憶を消して欲しいと希望する依頼客が次々訪れ、後を絶たない。私は依頼人のアポを取り、事務処理に追われ、来さんはほぼ缶詰状態で記憶消去に取り掛かる。
視矢くんは、毎日警戒区域に足を運び、明るいうちに事務所に戻ってくることはまず不可能。日々忙殺され、ろくに顔を合わせることもなかった。
一週間が過ぎた頃、ようやく来さんの仕事は落ち着いてきたものの、外回り担当の視矢くんは依然事務所を留守にしていた。
「明日から、私も外に出る。依頼があれば、翌日以降にアポを取っておいて欲しい」
疲れた顔で来さんはソファに沈み込む。記憶消去はかなりの力を使う。こう続けざまでは、さすがに限界だろうに。
上を向いて目を掌で覆う来さんに、私は蒸しタオルを手渡し、ホットミルクをテーブルに置いた。
「少し休んだ方がいいよ、来さん」
「問題ない。私は、人間とは違う」
タオルを目に当て、来さんは淡々と答える。来さんとナイは邪神ナイアーラトテップの化身。人とは異なる存在といえど、酷使したら身体がまいってしまう。
来さんは自身の疲労に無自覚で無理をするため、強引に休ませないと倒れかねない。
「私は、来さんは “人間” だと思うよ」
「外見は、そうだ」
前世で、ナイアーラトテップの化身だったシモンはずっと人として暮らしていた。望めば、来さんも人間と同じように歳を重ねていける。たとえば五十年後、今と変わらず二十代の姿でいることも、年相応の外見になることも容易い。ナイアーラトテップはそういう邪神だ。
ナイはともかく、来さんはこの先もシモンのように人の世で生きたいと願っている。だからこそ、余計に人間でないことを強く意識するのかもしれない。
「問題は、子を成せるかどうか分からないこと」
「こ、子って……」
「生物にとって、一番の問題だろう」
真剣な表情で考え込む来さんに、どう返せばいいのか。真顔でいきなりそんな話題を出されたら反応に困る。
経験豊かなナイも試したことは一度もないから、と余分な情報まで付け加えるあたり、来さんの天然はたまにひどくたちが悪かった。